■■第十五章■■
雨が降っていた。全ての音を掻き消す為の雨が。
灰色の滴は、天に昇った太陽の光を濡らし、草や土、深い眠りに着いた人々の眠る部屋の、窓硝子を叩く。そんな暗い空の下、今にも飛びそうになる意識を支え、パラディはボロボロの身体を宙に彷徨わせていた。
――なぜ、わしは生きているのじゃろう…
雨に洗われてもなお、身体中から溢れ出す血液が足元に滴った。
グラリと傾く身体は、気を抜けば即、落下してしまう。それでも、パラディは前に進み続けた。胸が痛くて苦しくて。堪え切れない涙が、幾度も頬を垂れる。
――なぜ、わしは…、大切な人を、また守れぬのじゃろう…
ようやく辿り着いた校舎の窓に手を付け、パラディは何度も、その硝子を叩いた。しばらくの後、エルピスの手によって開けられた窓から、教室に入り、その隅で蹲る黒い人影を抱き締める。
「――お前は、生きていただけでも上出来だ」
そうエルピスは慰めるが、それでパラディの後悔が消えるわけがなかった。
「…っ…すまぬ!」
涙でむせぶ。視界も意識も、既に朦朧としていた。本当に、今生きている事が奇跡なのだ。
「すまぬ…ケリィ!…この身体ではもう、
お主の苦しみを、代わってやる事もできぬ…!」
見上げたケリィの瞳は、薄闇の中で暗く影を落とし、まるでそこに穴でも開いているかのようだった。それを前に、パラディはまた大粒の涙を零す。
「――…聞こえるだろ?」
ふと、ケリィが口を開いた。
「ああ、君にも聞こえるよね。パラディ。ユアンが…泣いてるんだ」
そう言って、ケリィは顔を上げる。真黒な瞳で、不思議そうに辺りを見回す。
雨の音しか聞こえないこの教室で、ケリィだけが何かを感じ取っているらしい。耐え切れなくて、パラディは顔を伏せた。
――泣いてるのは、お主の心じゃ。ケリィ…!
何故、こんな時でも涙を流さないのだろう。崩壊した心を抱き締めたまま、絶望の闇を見たというのに、何故ケリィは弱音の一つも吐かないのだろう。
だからケリィは、壊れてしまった。全てを失って、そして元に戻せなくなった。
「ユアン…どこ…?僕…行かないと」
既に教室の床は、真っ赤に染まっていた。見ればケリィの右足の肉が抉られている。止めどなく流れる血液が、キボウツキのマントを、そして床を濡らしていたのだ。
恐らく、この足には既に感覚がない筈。しかしそれでも、ケリィは立ち上がろうとしていた。ガタガタと震えながら、壁に掴まり、必死に身体を起こす。途端、エルピスが顔をしかめた。
「――やめろ、ケリィ。二度と走れなくなるぞ。」
しばらく身体を休めれば、その程度の傷は簡単に塞がるだろう。しかし、今の状態で無茶をすれば、いくらキボウツキとはいえど、神経に支障が残る可能性がある。
そう言って、エルピスはケリィの腕を掴んだ。グラリと身体が傾き、ケリィはそのままエルピスの胸の中に顔を埋める。
「…もう。どうだって良い」
ぼそり、呟いた。
「ユアンが…待ってるんだ。僕が見つけてあげないと…親友…だから」
顔を上げたケリィの、その左目に黄金色の炎が宿ったのを見て、エルピスは僅かに目を細めた。ケリィは“確立の瞳”を起動させたのだ。その能力でユアンを見つけ出せると、信じ込んでいるのだ。
…しかし、その瞳に宿る数字は“零”だった。
「ケリィ…」
また一粒、涙を零して、パラディは言う。
「もうやめるんじゃ…ケリィ」
感情を失ったケリィの、その乾いた頬を撫でる。しかしケリィは、パラディに見向きもしなかった。
「――絶対、見つけてみせる。見つけてやる見つけてやるミツケテヤル…」
狂った唇でそう呟いて、ケリィはふらりとエルピスから離れる。抉れた右足を引きずって、ケリィは歩いた。
「やめろ…ケリィ!行くな!」
教室の扉に手を掛け、外に出ようとするその身体を、パラディは必死で引き止める。
こんな状態のまま、冷たい雨に打たれては…ケリィは死んでしまう。そう感じたから、必死でその腕を引っ張ったのに…
「――うるさい!」
怒鳴られ、次の瞬間、パラディの身体は弾き飛ばされていた。殴られた衝撃に、意識が霞み始める。
「…ケリィ」
視界の中で、ケリィの背中の輪郭がブレていく。
一度も振り返る事なく、廊下に出たケリィの足音は、ズルリズルリとしばらく続き、そして消えた。
「うぅ…ひっく…」
胸が痛かった。また一人、大切な人を守れなくなった自分が悔しかった。
教室の机に叩きつけられたパラディは、散乱した筆記具や、教科書類の中でゆっくりと上半身を立ちあげる。…その瞬間、パラディの視界に飛び込んでくるものがあった。床に落ちた、一冊のスケッチブックだ。
そしてパラディは、こんな高価なものを学校に持ってくる人間を、一人しか知らない。
「――ユアン…の?」
驚きに息を飲み、パラディは手を伸ばす。
ユアンがそれに鉛筆を走らせる姿を、パラディは何度も見ていた。しかし、その中身を見るのは、初めてかもしれない。妙な胸騒ぎがして、パラディはスケッチブックを開く。
そうすれば、そこにあるのは教室に居る子供たちの笑顔。
見事に特徴を捉えた彼らの似顔絵は、全生徒分あるのではないだろうか。そう考えた時、パラディはある違和感に気づいた。
『…?』
震える手で、ページを捲る。今度は運動の授業のスケッチだ。
校庭を走る生徒たちが、細かく描かれている。また、ページを捲った、今度はゴム玉蹴りに興じる男の子らの姿が描かれていた。
――…な…ぜじゃ?
目を見開いた。またスケッチブックを開き直し、バラバラとページを捲って行く。
――何故…ケリィの絵が無いんじゃ?
信じられない気持ちで、パラディは唇を動かした。
ユアンの視線の先にはいつだってケリィが居た筈なのに、その絵の中にはケリィの姿が欠けていた。本来ケリィが描かれる位置が空白だったり、黒く塗りつぶされていたりで、意味が解らない。
…そして、茫然となるパラディの様子に興味を持ったのだろう。
エルピスが背後から覗きこんで、呟いた。
「――なるほど。これがユアンの願いの、正体か」
そう言って、パラディの手からスケッチブックを奪う。バサリと乱暴に振れば、そこから、茶色く変色したクローバーが落ちて来た。葉の数は四枚。それは随分と古びていて、摘まれてから既に、数年の月日が経っているように見えた。
…そして、そのクローバーの挟まっていたページを目の前にし、パラディは息を飲む。
それは校庭で短距離走の測定をしている、生徒たちを描いた絵だった。
本来ならば、その先頭を走るのはケリィの筈だが…この絵では違う。
ケリィよりもやや低い背に、明るい色の柔らかな髪。
幼げなこの顔は、間違いなく、ユアンだ。楽しそうに笑いながら、ユアンが先頭を走っている。驚いて、パラディはエルピスを見た。
「この絵から…サナトスの気配がする。
まだ辛うじて…こちらの世界に踏みとどまっているようだな」
ぽつりと、エルピスは呟き、そして溜息。
「…参ったな。この手だけは使いたくなかったのに」
肩を落とし、エルピスはスケッチブックを地面に広げた。黒い炎が、彼の身体を覆っていく。そしてその炎の中から、小さな黒蛇が姿を現した事に驚き、パラディは思わず一歩後ずさった。
――…サナトスか?
「そう。以前ケリィが捕まえた破片だよ。
完全に吸収するのは嫌気がしたから、少しだけ残していたんだが…」
くしゃりと、頭を掻き、エルピスは言う。
「ユアンの魂が今も、サナトスの核を持っているのなら…役に立つかもな」
破片は常に、核に引き寄せられるのだ。その事実を示すように、エルピスから這い出た破片は、ゾロゾロとスケッチブックににじり寄って行った。
それを見て、エルピスはニヤリと微笑む。
次の瞬間には黒い炎を放ち、スケッチブックごと、破片を燃やし始めた。
『…!!』
何をするんだ!…そう言いたくて、パラディは手を伸ばした。
それはユアンの大切な物。ケリィにとっても大切な思い出なのに、何故…?
しかし、エルピスは瞳を輝かせ、言うのだ。
「見ろ、パラディ。これがユアンの本当の願い。サナトスの見せた、悪夢の正体だ!」
そう叫んで、全ての炎を、教室の窓にぶつける。
空気が裂けるような、轟音が鳴った。辺りは震え、そして窓の向こうの空は、見る見るうちに晴れて行く。
――これ…は…
茫然と、パラディは身体を浮かせ、外を見た。
晴れた空の下、四つ葉のクローバーの咲き乱れる校庭に、教室中の子供たちが集まっている。彼らは今、地面に引かれた線の前に並び、教師の放つ笛の合図を待っているのだ。
そしてその中心に、ユアンは居た。
――これは…どういう?
目を見開き、パラディはエルピスを振り返る。
途端、その視界に入ったのは、ダラダラと汗を流し、苦痛に顔を歪めたエルピスの姿。飄々として、ふざけた発言しかしないような…普段の彼とは程遠い姿。
…そう、彼は今、自身の力を媒体に、サナトスを操っているのだ。
ユアンに取り憑いたサナトスの末路を、ケリィやパラディの目にも見えるよう、力を尽くしているのだ。
「…行ってやれ。パラディ」
ニヤリと口を歪め、エルピスは言う。
「まだ…お前ならまだ、あいつらを救ってやる事もできる」
そしてその言葉に、パラディは、はっとした。
…そうだとも。自分はこれからもずっと、ケリィを守ってやらねば。ケリィの傍に居てやらねばならない。
先知のスリープシスであるエルピスが今、パラディの未来に何を感じ取ったのか。それが不思議と解る気がして、パラディは窓を開いた。
青い空が見える。小鳥のさえずりに紛れて、子供たちの明るい笑い声が聞こえた。
――ケリィと…ユアン、か。
ふと、パラディは亡き友を思い出し、微笑む。
ふわりと外に飛び出し、振り返って、エルピスに手を振った。
『お前に会えて、わしは少しだけ、楽しかったぞ』
その声は、彼に届いたのだろうか。
教室を出たパラディの目にはもう、エルピスの姿は見えなくなってしまった。