■■第九章■■
低くなった日差しが木陰を濃くし、湖には暗銀色の波が揺れている。
横になってからどれくらいの時間が経ったのだろうか。随分と深く眠り込んでしまっていたようだ。気が付けば、パラディの周りは賑やかな子供の声で溢れていた。
「…!?」
何事かと目を覚ましたパラディの視界を、巨大な草葉が覆っている。
先程まではこんなに巨大な草葉はなかった筈である。これは本来、パラディの足元に生える細かな羊歯の葉であった筈。そう不思議に思って上半身を起こした。
途端パラディは、自身を見つめる巨大な人間たちの姿に気づき、悲鳴を上げる。
「…これって、妖精さん?」
巨大な少年が一人、そう呟くと、その周囲に居た少女らも一気にざわめき出す。少年の翡翠色の瞳には、パラディの姿がはっきりと映り込んでいて…思わず息を飲んだ。
――…何故、こやつにはわしの姿が見えておるんじゃ?
その事実に驚くと同時に、パラディはようやく、自身の身体に起きた変化を知った。身体が縮んでいるのだ。今のパラディはこの少年の手の平程の大きさもない。
戸惑うパラディの目の前で、少年は興奮に頬を染める。
「…すごい。本物だ」
嬉しそうに口元を緩め、パラディが抵抗するより先に、その身体を捕えてしまう。
どうやらこの少年は、見た事のない生き物に対して恐怖するよりも、好奇心が先立つ性格のようだ。
「…怪我、してるんだね。血が出てる…」
手の平に乗せたパラディをマジマジと覗きこみ、少年は言う。
天使のように愛らしい顔と、絹のように輝く蜂蜜色の髪を持ったこの少年は、目を細めパラディをそっと地面に置いた。ポケットからハンカチを取り出し、それを口に咥えて細く千切り始める。手当をしようと考えたのだろう。簡易な包帯でパラディの傷ついた左顔面を覆ってくれた。
「――あれ?こうすると、少しだけケリィに似てるかも?」
そして次の瞬間呟かれた言葉に、パラディの両肩は跳ねる。
まさかこの人間が、パラディとケリィの関係を察したとは思えないが、それでも、つい深読みしたくなってしまう発言だ。…と、ここでパラディはとある事実に気付く。
――…こやつはケリィの事を知っておるのか?
だとしたら、ここで今、この少年に助けてもらった方が良いのかもしれない。そう、パラディは考えた。
手当を施してくれた事を考えると、この少年は善い人間であるようだ。
自分の身体に何が起きたのか、それすら解らない以上は下手に動きまわるのも危険だし、この少年にケリィの元へ連れて行ってもらう事が出来たらそれに越した事はない。
…よし、頼んでみよう。
そう考えて思い切り息を吸い込んだパラディは、次の瞬間絶望した。
「…っ!?」
声が、出ないのだ。喉の中が空っぽで、パラディは何の音も紡ぐ事ができない。
青ざめたパラディの様子に少年は驚き、心配そうにその身体を持ち上げた。
「大丈夫…?可哀そうに、すごく痛いんでしょ?」
ふるふると首を横に振り、パラディは身振り手振りで何とか、この少年に伝えられないかと考える。
――ケリィの…ケリィの元へ…!
必死で、そう願うパラディ。ふと、少年の視線が自分から外れた事に気づいた。
「…そろそろ離してあげたら?ユアン。」
それは、パラディが今一番聞きたかった声である。
弾かれたように振り返れば、そこには黒いマントで身体を覆った人間が居た。ユアンと呼ばれた少年よりも頭一つは高い長身。命を感じさせない無機質な瞳は、黒く冷たく、見る者に不気味さを感じさせる。
…しかし、パラディは知っていた。その人間が恥ずかしさを堪えていることを。キボウツキの衣装のままで人前に立てるような性格ではないのに、パラディの身を案じる一心で飛び出して来てくれた事を。
「…ケリィ!」
本当に突然、声が出た。まるで塞き止められていた川が、再び流れ出したかのように、パラディの言葉は後から後から溢れてきた。
驚くユアンの指を解き、パラディはそのままケリィの元に飛んで行く。
――そう、何故かはわからないが、パラディの身体は今、宙に浮かんでいたのだ。
「ケリィ…ケリィ!会いたかったのじゃぁ!」
「ば…馬鹿!パラディ…お前、名前呼ぶなよ!
どうにかしてごまかそうと思ってたんだから!」
涙目で頭上を漂うパラディを、ケリィは赤面して睨む。
「…もしかして、ケリィって妖精さんとお友達なの?」
不意に、言葉を失ったユアンの背後で、幼い少女が一人、呟いた。
鳶色の瞳を持った、誰よりも小柄な少女がそんな事を言い出し、そしてそれが、静かだった少女らを一気に波立てた。
「…すごい。ケリィは妖精さんと話せるんだわ!」
「そういえば変な格好してるし。きっと噂の、怪しい儀式をしてたのね…」
「でも、悪魔じゃなくて妖精さんと友達になれる儀式なら、素敵じゃない!」
わらわらと、少女たちはケリィに群がり、はしゃぎだす。
ここでようやくユアンから向けられる視線に気づいたケリィ。唖然と開いた口を閉じ、気まずそうにユアンを見た。
「…ケリィ、これはどういう事なの?」
僅かに顔を曇らせ、ユアンは言う。
突然校庭から消えたケリィの事が心配で、後を追ってここまで来た彼は、ケリィよりも先に、パラディと出会ってしまったのだと話す。
ユアンはケリィに、色々と聞きたい事があるのだろう。だがしかし、今のケリィはそれに応える余裕がなかった。
「…あの、ごめん!僕これから用事あるから!」
ただ一言そう放ち、クルリと少女らに背中を向ける。頭上のパラディを片手で掴み取り、そのまま森に向かって駆けだした。
「――…ケリィ!」
ユアンの声が聞こえた。責めるようなその声に、ケリィの顔は歪む。
その肩に掴まり直したパラディは、ここでやっと、ケリィとユアンの二人が特別な友人関係にある事を察した。
「…すまぬ」
一人振り返ったパラディは、ユアンが寂しそうな表情をしている事を知る。
その姿は、見る見るうちに木々の影に覆われ、消えてしまった。