■■序章■■
2011/7/23~ 掲載開始
*わりとお耽美な発言やシーンが含まれますので、念のためボーイズラブカテゴリに入れておりますが、糖度と呼べる物はおおよそ無いです。あえていうならばニアホモというジャンルなのだと認識ください。
全十八章構成。では、しばらくは拙物語にお付き合いくださいませ!
イトゥリープ島の空が茜色に色づき始め、今宵の月が薄っすらと山の稜線沿いに現れる頃。辺りを覆う冷気も次第に霧へと姿を変えていき、島は静けさを増す。初夏を迎え、色とりどりの花に飾られた街道から少し外れた薄暗い山道を歩けば、背の高いポプラの木々が不気味な影を落とし、鬱蒼と重なり合った榛の木の梢は、島民たちの近くで遠くで囁き始める。
――近年、この島には奇妙な噂が流れていた。
それは、島の子供の一人が悪魔に出会ったという内容だ。
この手の噂話は今も昔も世の中に溢れかえっていて、その全部が真かと問われれば、それは首を傾げるしかないだろう。ただ、この話…つまり、今からニ年前、北の海に浮かぶこの孤島、イトゥリープ島に住む、ほんの二百人足らずの島民を恐怖に突き落とし、以降も噂話として語り継がれる事になった出来事。これは、これだけは、紛れもない事実だというのだ。
その日、ケリィ・マシューズは暗い夜道を全力で走っていた。
つい先程まで、唯一の友人であるユアン・ブルーイットの誕生日パーティに出席していたのだが、いざプレゼントを渡そうという段階になってようやく、ケリィは自分が手ぶらでこの場に参加していたことに気づいたのだ。
イトゥリープ島には中等学校以上の設備がない為、十歳を越える子供の数が非常に少ない。どこかの誰かが騒ぎ起こした学歴至上主義の波は、今ではこんな小さな島にまで流れ着いていて、世の親はこぞって、我が子を大陸の学校に通わせたがる。
故に、この島では十歳を越える子供は貴重で、今日で十二歳になるユアンなどは、彼と同じ年齢の友人であるケリィを大のお気に入りにしていた。
そのケリィがこの日、プレゼントを持ち合わせなかった事実が知れ渡れば、ユアンに恥ずかしい思いをさせてしまうだろう。
「…しまった。忘れてきちゃったんだ」
元から白い肌を、より一層青白くし、ケリィは消え入りそうな声で呟いた。
先程、慌てて家を出てきたのがいけなかったらしい。義母がこの日の為に気合を入れて作ってくれた糖蜜林檎のパイを、恐らく居間のテーブルあたりに置き忘れてきてしまったようだ。
「取りに帰らないと…」
ちらりと視線を遣れば、ユアンは今、彼の誕生日を祝う人々の中。プレゼントのお礼を言うのに夢中で、ケリィの様子に気づく素振りはない。抜け出すなら今のうちだろう。
幸い、ケリィは足の速さに自信があった。のっぽな体格が幸いしてか、島の子供たちの中では誰よりも速い。ブルーイット宅を一旦出たなら、後は街道を使わず、裏山の小道を一直線に突っ切れば良い。ケリィの家には一分足らずで着く筈だ。
仮に誰かがケリィの不在に気づいたとしても、その程度の時間であれば、ユアンの機嫌を損ねることはないだろう。ケリィは走り出した。
家に戻り、パイの入ったバスケットを掴み取って、また走って…そして今に至る。
夜空に浮かぶ三日月の、その剥き出しの視線は妙に冷たく感じられ、足元の草薮からは湿った土の香りが立ち昇ってくる。切れる息の狭間で僅かな唾液を嚥下した。見慣れた道なりも、月影に覆われてしまえば、妙に薄気味悪い。明るい光と、賑やかな笑い声で包まれたブルーイット宅が恋しくて、ケリィはよりいっそう 足を速める。
…そしてそれがいけなかったらしい。地面に転がる何かに足を取られたケリィは派手にすっ転び、傾斜に身体を持って行かれ一回転。次の瞬間、星の輝く夜空を眺めていた。
「…はぁ」
痛い、後頭部が。悲鳴をあげたいところだったが、何故かその時、真っ先にケリィの口からこぼれ出たのは、気の抜けた溜息だった。
「パイが…落ちちゃった」
まさに、踏んだり蹴ったりである。転んだ拍子にバスケットから飛び出したパイが今、ケリィの背中にある。ゆっくりと上半身を起こし、潰れたパイと対面すれば、胸に溢れる後悔の嵐。地面に生えている羊歯の群れを両手で握り締め、ケリィは項垂れた。
この時、握り締めた拳の中に、一本だけ四つ葉のクローバーが混ざっていることに気づいたが、今のケリィにとっては焼け石に水である。ショックで霞むケリィの視界の隅で、一つの星が瞬いて流れた。
「ああ。あの星の中から一つだけでも、ユアンにあげることが出来たら良いのに」
もしそれが出来たなら素敵である。ロマンチストなユアンのことだ、きっと心から喜んでくれるに違いない。…と、思わずそんな空想に浸ってしまうケリィだが、そんな事をしたところで、この惨めな状況が変わるわけがない。とにかく早くブルーイット宅に戻って、そしてユアンに謝らなくてはいけないだろう。
深呼吸一つの後、ケリィは立ち上がる。吊ズボンのポケットに両手を突っ込み、自分を転ばせた元凶を睨み遣れば、そこに土を被った奇妙な箱を発見した。
貨物運びの馬車が落として行ったのか、一抱えはある大きさの白銀色の箱である。そして、その表面には、黄金色の刻印があった。
『希望は常に、ここに眠る』
…なにが希望だよ。と、ケリィは溜息を零す。こんな物に躓いてしまうなんて、なんという不運だろうか。悔しさに唇を噛み締めるが、ケリィも一度躓いてしまった手前、このまま放置していくのは気が引ける。次に道行く誰かの為に脇に除けておくのが良いだろう。
そう判断し、ケリィは箱に手をかけた。…頭上から聞こえる奇妙な音に気づいたのは、その時だった。
――ミシ…ッミシッ…バキッ
今の今まで視界を覆っていたポプラの枝が、見る見るうちに裂けて地面に散らばっていく。
そしてその次の瞬間には、ケリィの白い肌が裂けていた。
夜風で冷えたその頬には深い一文字の傷が浮き上がり、真新しい血は傷口から顎へと幾重もの筋を作って垂れていく。不可視の爪により傷つけられたケリィが感じるのは痛み、そしてそれ以上の驚愕である。
「…は?」
自分の身に起きていることが、全く理解できない。ただでさえ大きい黒い瞳を、今ではこれ以上もないくらい大きく見開き、身体を凍りつかせたケリィは、信じられない気持ちで自分から流れ出る血液に触れる。
…どこからか、低く唸る獣の声が聞こえた。
息を飲む。その一瞬のうちに、ケリィの隣に聳えていたポプラの幹が一本折れたのがわかった。反射的に、持っていた木箱を頭上に掲げる。自分の方に倒れる重量級の幹をこれで辛うじて制するが、保って一瞬。十二歳の子供にとって、耐え切れる重さではないのだ。箱を支える両腕は見る見るうちに震え、ケリィの 額に脂汗が滲び始める。
――なんで?僕はどうなっちゃってるの?
恐怖のあまり、ケリィの思考は乱れた。頬の傷口で、ぬるりと蠢く舌の感触があり、耳元で、荒い息遣いが聞こえる。獲物を捕らえた肉食獣の息遣い。皮膚を溶かす唾液の感触に、ケリィは短く悲鳴を上げた。
――僕は死ぬの?
死んで、この見えない何かに食べられてしまうのだろうか。だとしたら、そんな恐ろしい事はない。
ケリィは八歳の時に実の両親を失っていたが、その原因は、遠くの空で起きた飛行船の事故だった。新聞での報道でしか知る事のできなかった“死”は、遺体も遺品も残さない形だけのものに過ぎず、幼いケリィに与えられたのは、漠然とした喪失感だけだった。
その事を思い出し、ケリィはただ理解する。
――死ぬって…やっぱりこういう事なんだね。
きっと自分も、こうして何も理解できないし、何も残せない。薄まっていく意識の淵で、ケリィは覚悟を決めた。
ミシリと、腕の中にある箱に皹が入る。この箱が潰れた時、それがきっと命の終わりなのだろう。目の前に迫る黒い幹を虚ろな瞳で見つめる。辛うじて巨木を支えていたケリィの両腕は既に感覚を失っており、自由が利かない。
…そうしてゆっくりと身体を離れようとした意識。だが次の瞬間、激しい光の渦に包まれたケリィは、驚愕のあまり我に返っていた。
「…っ!?」
ケリィの腕の中で、箱が炎を噴出している。それもただの炎ではない、見た事もないような、真っ黒な炎だ。
『…ニげろ…』
声が聞こえた。黒い炎は見る見るうちに辺りに広がり、木を、地面を埋め尽くしていった。
炎に包まれた木箱が砕け、続いて倒れ掛かっていたポプラの幹が吹き飛ぶ。
『ハヤく…ニげるのだ』
凄まじい勢いの炎に、先程まで血肉を貪っていた不可視の獣が、怯えたように離れていくのがわかる。黒い炎はケリィ自身にまで及んでいたが、不思議と、当人に熱さや痛みなどの苦痛はなかった。むしろ、炎に触れた箇所から痛みが引いていくのを感じる。
ふと自身の頬に手を添える。そこにあった筈の傷が、綺麗に消えている事に気づいた。
『ニげろ…ケリィ!』
名を呼ばれ、弾かれたようにケリィは走り出す。
息を切らせて振り返ると、既にそこに地面を覆いつくすような炎はない。
あるのは背の高い一人の男の姿。黒い炎を衣のように頭まですっぽりと被り、黄金色の瞳に灰色の影を躍らせた、恐ろしく美しい顔の男。
――…悪魔?
禍々しさすら感じるその美貌に、ケリィはそう勘繰らずにはいられない。だがしかし、それが本当に悪魔だとして、ケリィに一体何ができるだろう。今はただ、一心に逃げる事しか思い浮かばない。ケリィは再度炎に背を向け、今度は振り返ることなく走り出した。
無我夢中でポプラの並木を抜け、多くの羊歯と、山吹色の花を付けた釣浮草に囲まれた坂道を駆け下りる。気がつけば目の前に、ブルーイット宅の賑やかな灯りが見えていた。
「どこに行ってたの?心配したじゃないか」
わざわざ庭先にまで出て、そうケリィを迎えてくれたユアンは、友人の只ならぬ様子に僅かに眉を潜める。半ば倒れこむようにしてユアンの差し出した手を掴んだケリィを、そっと抱き寄せ、ユアンは問いかけた。
「どうしたの?まるで泣き出しそうな顔をしてるけど…
身体もこんなに冷たいし、何かあった?」
「…何でもない」
友人の優しい言葉に魂の底から安堵の息を吐く。だがしかし、この穏やかな人物に、事の真実を話す気力は、今のケリィにはなかった。
「ごめんね。勝手に抜け出して…ごめん」
震える声でそう呟き、目の前の小柄な少年の肩にだらしなく顔を埋める。困ったように首を傾げ、それでも優しくケリィの肩を撫ぜてくれるユアンの手が温かかった。
…ふと気がつけば、そんなユアンの背後から近づいてくる足音がある。それも一人や二人ではない。多くの子供のざわめき声と共に、その群れはやってきた。
「あ。ケリィだ。どこ行ってたんだよお前」
「皆、お前待ちしてたんだぞ」
「ケリィがプレゼント出すまで、ケーキはお預けなんだから。早くしてよね」
わいわいと集まってくるのは、今日の為に綺麗に着飾った子供たちの群れだ。
…ケリィは、ここでようやく、泥と汗にまみれた自分のみすぼらしさと、誕生日プレゼントを用意できていない事実を思い出した。
「う…あ…」
羞恥に頬を染め、ケリィは慌ててユアンから身体を離す。
とにかく、まずは謝らなくては。ポケットの中に突っ込んだ右手を強く握り締め、勇気を振り絞る。…途端、記憶の端から蘇るものがあった。
「あ…あの、これ…」
情けない気持ちで、ケリィはポケットから右拳を抜き、そのままユアンに捧げ出した。
ケリィが握っているのはポケットの中で圧迫され、クタクタに成り果てた四葉のクローバーである。先程たまたま摘み取ったアレだ。
「…なに。これ?」
不思議そうに眉を潜め、クローバーを受け取るユアン。当然だ、皆から豪華なプレゼントを贈られていたユアンが、こんな雑草で満足する筈はない。しょんぼりと項垂れ、ケリィは懺悔した。
「実は…ユアンへのプレゼント、地面に落として駄目にしちゃったんだ。
だからせめて…これ」
情けなくて震える唇で、ケリィは言う。
「…本当、僕って駄目だよね。いっその事、僕が君の為の流れ星になれたら良かったんだ。
そしたらユアンの願い事を叶えてから、消える事もできたのにね…」
結局、何の価値もないプレゼントをしてしまった事が最悪だ。ケリィはそう、溜息を零す。幻滅したユアンの表情を見るのが怖くて、恐る恐る顔を上げたケリィはその時、信じられないくらい頬を紅潮させた友人の顔を見た。
「…キザ!」
数瞬の間の後、そう野次を飛ばす奴が現れる。その意味がわからず、ケリィは首を傾げてしまった。そして、野次の主を問いただそうと身を乗り出したその身体は、気がつけばユアンに抱きしめられていたのだ。
「き…消えちゃうなんて悲しい事言わないでよ。
僕、ケリィにお祝いして貰えるだけですごく嬉しいんだから!」
何が起きたか理解できず、戸惑うケリィにギュっと抱きついたまま、ユアンは潤んだ瞳を持ち上げた。
「僕、このクローバーに一番大切な願い事かけるよ。
どんな願い事するか決まったら、真っ先にケリィに教えてあげるから…」
「…えっ!?」
目の前の友人の興奮が理解できず、ケリィは挙動不審に視線を泳がせる。
…そして、そんな二人の様子を前に、一人の男の子がニヤけ顔で呟いた。
「…さすが、ユアンの王子様だなぁ」
その言葉に、ようやく事態を把握したケリィは、もうは赤面するしかない。
ケリィとユアンは親友だが、余りにも仲が良いので、二人はデキていると噂を立てる輩が居るのだ。勿論、その噂に根拠などない。
「馬鹿か!僕は別にそんなつもりでやったんじゃない!」
そう怒鳴るケリィの様子に、ユアンはカラカラと笑い声を上げ、ようやく身体を離す。
「そうだよ。ケリィはいつだって、僕の王子様だからね」
ケリィの恥じらいを無視して、ユアンまでもが悪ノリをしてしまうのだから始末がつかない。がっくりと肩を落としたケリィはこの時、その長い前髪で表情を隠しつつも、実は安堵の笑みを浮かべていた。
――何はともあれ、ユアンが喜んでくれてよかった。
大層恐ろしい目には遭ってしまったが、夢でも見ていたのだと思えば済む問題だし、結果オーライである。もうこの際、あの悪魔のことは忘れよう。そして素直にこのパーティを楽しもう。そう決めて、ケリィは自らの恐怖を振り切った。
実際、その後ケリィは他の子供たちと同じように、楽しく食事を進めていたし、ユアンから提案されるゲームにも参加した。会の最後に撮影した記念写真の中でも、いつも通りの笑顔を作る事だって出来ていたのだ。そう、このまま何事もなければ、ケリィはこの日の出来事を綺麗に忘れる事が出来たに違いない。だがしかし、それは上手く行かなかった。
翌々日、つまりこの日の記念写真が焼き上がった当日の朝である。ケリィは、自身に起きた災難を白状せねばならない事態に陥っていた。
「ぎゃああああ!」
「ひぃやあああー!!」
学校の教室で、出来立ての写真を囲むのは、件の会の参加者達。彼らが次々と卒倒していくその原因は、勿論この写真にあった。
「…なんで」
呆然と呟いたのはケリィ。
「ね。これってやっぱり、お祓いとかしてもらったほうがいいのかな?」
そう不安げに言うのはユアン。二人とも視線の先は一つである。
写真の中心、ユアンと並んで微笑んでいるケリィの背後に、会場に居なかった筈の奇妙な男の影が写っている。つまりこれは、心霊写真なのだ。
…しかもただの心霊写真ではない。痛む額を押さえつつ、ケリィは呻き声を上げた。
「なんで…あの時の悪魔が」
写真の中にいるのはあの日見た悪夢の主人公。黒い炎に身を包んだ見目麗しい男性である。
悪魔が写りこんでいるという事だけでも恐ろしいのに、更なる問題は、その悪魔のとっているポーズについてだった。
――なぜ、悪魔がピースサインをしているんだ?
しかも最高の笑顔で。完全に理解不能である。
こうしてケリィは、皆に例の災難を皆に語る羽目になり、その話は、謎の心霊写真の件と共に島中に広まった。以上が、このイトゥリープ島を恐怖に陥れる噂話の全貌…と、言ってしまうと若干の語弊があるので、ここで一つだけ補足させてもらう。
この事件からニ年経った今に至り、同様の心霊写真の数は十五枚に達している。
…そう。島民の恐怖の対象は、既に心霊写真や謎の悪魔に留まらなかった。
真の恐怖は、あの日以来、写真を撮れば必ず悪魔が写るといわくが付いた
ケリィ・マシューズの存在にあったのだ。