妻が反対しておりますので
「夫が、私の名を使っているようなのです」
王都の外れにある、小さな喫茶店。
その二階の個室で、リディア・ハルフォード伯爵夫人はそう切り出した。栗色の髪と瞳を持つ、小柄な女性だ。
向かいに座る女性は、静かに紅茶を口へ運んでいる。
艶やかな黒髪に、涼しげな紫の瞳。身につけているドレスは質がいいが、貴族らしい華美さはない。
フェリシテ・クローヴェル。
困っている女性を助けているらしい――。
リディアが知っているのは、それだけだった。
「お名前を、使っている?」
「はい。……正確には、私の返答を勝手に使っている、と申しますか」
「まあ」
フェリシテがカップを置く。
「詳しく伺っても?」
リディアは小さく頷いた。
発端は、半月前だった。
◇
王都の仕立屋で、リディアは結婚前に親しくしていた友人、マリアンヌと偶然再会した。
二人は同じ年に社交界へ出た。
リディアはもともと、大勢の人間と賑やかに付き合うことが得意ではない。けれど、人と話すことそのものが嫌いなわけではなかった。むしろ、仲のいい少人数同士で話をするのは好きだった。
そしてマリアンヌとなら、何時間でも話すことができた。
結婚してからもしばらくの間、二人は手紙を交わしていた。
だが、二年ほど前から徐々に返事が少なくなり、やがて完全に途絶えた。
マリアンヌにも新しい付き合いができたのだろう。
少し寂しかったが、リディアはそう納得していた。
思えば結婚してからというもの、なぜか人から距離を置かれることが増えていた。
それも、自分が人付き合いを苦手としているせいなのだろうと、リディアは考えていた。
だからマリアンヌと再会したことは、素直に嬉しかった。
「マリアンヌ。お久しぶりね」
声をかけると、相手は目を見開いた。
「……リディア?」
「ええ。会えて嬉しいわ」
ところがマリアンヌは喜ぶより先に、困惑したような顔をした。
「あの……私と話して、大丈夫なの?」
「どういうこと?」
マリアンヌはしばらく迷う様子を見せた末、声を落とした。
「二年前のこと、まだ気にしているのかと思っていたの」
「二年前?」
「領地の別荘へお誘いしたでしょう?」
リディアは記憶を手繰る。確かに、そんな話があった。
マリアンヌが初夏に領地の別荘で過ごすので、数日遊びに来ないかと誘ってくれた。
リディアも楽しみにしていた。
だが後になって、マリアンヌ側の都合で話がなくなった。――そう、夫から聞かされていた。
「あの時は……確か、あなたの旦那様のご都合が悪くなったのでしたよね。そんなこと、私は気にしていないのに」
「え?」
マリアンヌが目を丸くした。
「あなたが、私の別荘に来るのが嫌だったのではなくて?」
「……どういう事?」
「レオナール様からお手紙をいただいたの。リディアはあなたたち夫妻の別荘に本当は行きたくないと言っている。無理に誘わないでやってほしい、って」
レオナール・ハルフォード。リディアの夫である。彼が、マリアンヌとその夫宛に手紙を送ったということだ。
しかしリディアには、まったく覚えがない話だった。
「私、あなたに嫌われたのだと思ってた」
マリアンヌが寂しそうに笑った。
「だから、その後はあまりお誘いしない方がいいのだろうと思って……」
リディアは言葉を失った。いったい何がどうなっているのか、訳が分からなかった。
ひとまずマリアンヌには、何か誤解があるのだとだけ伝え急いで帰宅した。そして、そのまま夫の書斎へ向かう。
レオナールは机に向かい、手紙を書いていた。
「あなた。二年前、マリアンヌに、私が別荘へ行きたくないと仰ったの?」
レオナールは一瞬だけ手を止めた。
「ああ」
あまりにもあっさりした返事だった。
「そんなこともあったかな」
「私は楽しみにしておりました」
「そうみたいだね」
「では、なぜ?」
「ちょうど同じ頃に、うちで晩餐会を開くことになっただろう?」
リディアは思い出した。
確かに、あの頃、夫が何人もの客を招いたことがあった。
「妻である君がいなければ、晩餐会の体裁がつかないだろう。困るじゃないか」
「でしたら、そう仰ってくだされば――」
「たった数日の旅行だろう?」
レオナールは肩をすくめた。
「別に大したことではないと思ったんだ」
「では、なぜマリアンヌに、『私が行きたくない』と伝えたのですか? どうして、晩餐会があるからと本当の事を伝えなかったの?」
「僕の都合で断ったと言えば、角が立つだろう」
そう言って、夫は笑った。
周囲から好かれる、いつもの穏やかな笑顔だった。
「まあ、こらえてくれよ。リディア」
その言葉で、夫の中では話は終わったらしい。
だが、リディアの中では終わらなかった。不信感が、胸の内で暗雲のように徐々に広がっていく。
翌日。
リディアは、マリアンヌのもとを訪れた。
「私について、何か悪い噂を聞いたことがあれば教えてくださらない?」
最初、マリアンヌは答えるのをためらっている様子だった。それでも懇願すると、彼女は口を開いた。
気難しい。
他人を屋敷へ入れたがらない。
家格にうるさい。
夫の交友関係にも口を出す。
金銭に細かく、夫が知人を助けようとしても反対する。
それが、社交界におけるリディアの評判だということだった。
「どうして、そんな噂が……?」
リディアは、夫の交友関係に口を出したことや、金銭について夫に何か言ったことなど一度もなかった。
マリアンヌが、言いにくそうに答えた。
「レオナール様が何かをお断りになる時、あなたが反対しているから、と仰ることがあるみたいなの」
「私が?」
「ええ。私も詳しいことまでは知らないけれど、そういう話を何度か聞いたことがあるわ」
マリアンヌとの別荘の件だけではない。
夫は以前から、自分の名を使っている。
そう思うと、確かめずにはいられなかった。
社交界で交わされている話を辿ってみると、レオナールはリディアが想像していた以上に妻の名を便利に使っていた。
レオナールは、人から頼られることが好きな男だった。
気前よく頼みを引き受けた時に向けられる感謝が、彼には心地よかったのだろう。
ある子爵夫妻から、娘を一社交期だけハルフォード家の王都邸で預かってほしいと頼まれた時。
レオナールはその場では、
「もちろんです。我が家を自分の家だと思ってください」
と笑った。
ところが後になって、
「――妻が、他家の令嬢を長く屋敷へ置くことを嫌がっておりまして」
そう言って、申し出を断ったという。
知人の男爵から新事業への出資を持ちかけられた時も。
「承知した。力になろう」
そう答えたくせに、いざ金を出す段階になると、
「――私は乗り気なのですが、妻が家の金を動かすことに厳しくて」
それが断りの口上だった。
そして、一年前。
ベルモントという名の伯爵が次男を王宮へ出仕させるにあたり、顔の広いレオナールへ口添えを頼んだ。
「もちろんです。私から話してみましょう」
レオナールはその場で快諾した。
だが、その後、話は断られた。
理由は、やはりリディアだった。
『――妻ともよく話し合ったのですが、彼女がどうしても反対しておりまして』
そんな内容の手紙を、レオナールから送られたのだという。
リディアは何も知らなかった。
一度たりとも、夫から相談されたことはない。
それなのにレオナールの口を通せば、いつの間にかリディアがすべてを拒んだことになっていた。
頼まれた時には快く引き受け、感謝される。
だが、後になって、妻の名を出して断る。
好かれるのは夫。
嫌われるのは妻。
リディアは知らなかった。
夫が人から好かれるために、自分が代わりに嫌われていたことを。
◇
「……それで、怖くなったのです」
王都の外れにある、小さな喫茶店。
その二階の個室で、リディアは両手でカップを包んでいた。
向かいに座るフェリシテは、黙って話を聞いている。
「私は確かに、社交が得意ではありません。大勢の方とお話しすると疲れますし、知らない方の輪へ入っていくのも苦手です。ですから、皆様から距離を置かれることが多いのは自分のせいだと思っていました」
マリアンヌが離れていったのも。
自分に、至らないことがあったのだと。
「でも、違ったのです」
リディアは視線を落とした。
「夫は私の知らないところで、私が言ってもいないことを何度も人へ伝えていました。私が嫌がっている。私が反対している。私が許さない、と」
自分の知らないところに、自分の知らない自分がいる。
その女は気難しく、人付き合いを嫌い、家格にうるさく、夫の交友関係に口を出し、金銭に細かい。
「夫が誰かから好かれるたびに、私は知らないところで誰かに嫌われていたのかもしれません」
フェリシテの紫の瞳が、わずかに細められる。
「かわいそうな旦那様ですね」
「……かわいそう?」
思わず聞き返した。
フェリシテは微笑んだ。
「ええ。とても大切なものを、何年も奥様に預けていらっしゃるのですから」
リディアの瞳が瞬く。
フェリシテが何を言っているか、よく理解できなかった。
「でも、そろそろ……旦那様へ、お返ししましょう。ずっと預かってばかりでは、申し訳ないですからね」
紫の瞳が、楽しげに輝いた。
◇
フェリシテへ相談を持ち掛けてからしばらくの後、レオナールの誕生日を祝う晩餐会の日が来た。
ハルフォード伯爵邸の大広間には、大勢の客が集まっていた。
中央にいるレオナールは、いつにも増して上機嫌だ。
「いやいや、私は大したことはしていませんよ。困った時はお互い様でしょう?」
そう言いながら、嬉しそうに笑っている。
リディアは少し離れたところから夫を見ていた。
「奥様」
隣から小さく声をかけられた。
リディアが今日の晩餐会に招いた、フェリシテだった。
今日は濃紺のドレスを身につけている。
「エルフリーデ子爵夫人がお見えですわ」
「ええ」
リディアは一度、息を整えた。
そして、歩き出す。
レオナールの近くに、エルフリーデ子爵夫人の姿があった。
「エルフリーデ様」
リディアが声をかけると、子爵夫人が振り向いた。
「まあ、リディア様」
「以前、お嬢様を一社交期、我が家でお預かりするお話がありましたね」
子爵夫人の顔が、わずかに曇った。
「え、ええ……」
「実は私、そのお話がなぜ立ち消えになったのか、つい先日初めて知りましたの」
近くにいたレオナールが、二人の会話に気づいて顔を向けた。
何の話をしているのか分かったのだろう。
その表情が固まる。
「リディア、今はその話は――」
「あなた」
リディアは緊張を押し隠し、夫を見た。
「家同士のお話ですもの。誤解があるなら、きちんとしておかなければ」
そして子爵夫人へ向き直る。
「私は、お嬢様に来ていただけるものと思っておりました」
「……え?」
「そのために、客間も整えておりました。ところが夫から、先方の事情で話がなくなったと聞きまして」
子爵夫人の目がゆっくりとレオナールへ向いた。
「わたくしは……リディア様がお嫌がりなのだと伺いました」
「まあ」
リディアは首を振った。
「私は一度もそのようなことを申し上げておりませんわ」
「では」
子爵夫人の声が冷たくなる。
「断ったのは、あなたでしたの? レオナール様」
「いや、待ってくれ」
レオナールが苦笑した。
「昔の話だ。リディアが勘違いしているだけじゃないのか?」
「私が?」
「ああ」
「そうですか」
リディアはそれ以上反論せず、近くにいた男へ視線を向けた。
「ロッシュ男爵様」
「私ですか?」
若い男爵が振り返る。
「二年前、新しい交易事業への出資を夫へお持ちかけになったそうですね」
男爵は戸惑いながら頷いた。
「ええ。レオナール殿は非常に興味を持ってくださったのですが……」
「私が反対したと?」
男爵が黙る。
そして、少し気まずそうに頷いた。
「はい。奥方が、家の金を動かすことに厳しいと……レオナール殿に言われまして」
「申し訳ございません。その事業のお話自体、私は存じませんでした」
話を聞いていた周囲がざわめき始めた。
「リディア」
レオナールの声が低くなる。
「君は何がしたいんだ?」
「確認しているだけですわ」
「わざわざ昔の話を蒸し返す必要なんてないだろう!」
周囲から向けられる視線に気づいたのか、レオナールはすぐに声を和らげた。
「そ、それに……人の記憶なんて曖昧なものだ。話しているうちに意味が変わって伝わっただけかもしれないだろう」
ロッシュ男爵が眉を寄せる。
「しかし私は、確かに――」
「いえいえ、あなたを嘘つきだと言っているわけじゃない。ただ、二年も前の会話を一字一句覚えているわけではないという話ですよ」
レオナールはいつもの穏やかな笑みを浮かべた。
「リディアだって、何年も前に自分が何を言ったか、すべて覚えているわけではないだろう?」
「なるほど、忘れている……ですか」
リディアは小さく頷いた。
「では、ベルモント伯爵様」
「何でしょう」
少し離れたところにいた、中年の紳士――ベルモント伯爵が歩み寄ってきた。
「昨年、ご次男を王宮へ出仕させるにあたり、夫へ口添えをお願いなさいましたね」
「ええ」
「しかしその後、夫からお断りのお手紙を受け取ったと伺いました」
「その通りです」
「今、お持ちでしょうか」
「持って来ていますよ。あそこにいるフェリシテ嬢から、もし残っているなら今日持参してほしいと言われていましたからね」
ベルモント伯爵は、離れた場所にいるフェリシテに一瞬視線を向けた後、懐から一通の手紙を取り出した。
「これで、良かったですかな」
「ありがとうございます」
リディアは受け取った。
「中身を改めさせていただいても?」
「むろん、構いませんよ。隠すような内容でもありませんから」
リディアは手紙を開き、一節を読み上げた。
「『ご令息の件については、残念ながら見送らせていただきたい。昨夜、妻ともよく話し合ったのですが、私としては是非ともお力になりたいものの、妻のリディアがどうしても反対しておりまして。彼女が言うには、口添えするのならば、まず我が一族の者を優先するべきであると――』」
そして付け加える。
「この手紙の日付は、昨年の六月十二日です」
さらにリディアは、もう一通の手紙を取り出した。
「こちらは、同じ六月十二日付で、夫から私へ送られた手紙です」
レオナールの顔色が変わった。
「それは――」
「この日、私は王都におりませんでした。母が病に倒れたため、実家へ戻っておりました。ここから馬車で五日かかる場所です。この手紙を見れば、それが分かっていただけるはずですわ」
ベルモント伯爵が、新たに取り出された手紙を受け取る。
冒頭には、
『――ご実家にいるお母上のご様子はいかがだろう。いつになったらこちらに帰れるか、目途がついたら教えてもらいたい』
とある。
リディアは夫を見た。
「先ほど、私が勘違いしている、忘れていると仰いましたね。しかし、記憶と違い手紙の内容が後から変わることはありません」
「リディア……」
「そしてあなたがベルモント伯爵様に出した手紙には、『昨夜、妻と話し合った』と書いてあります」
リディアは静かに問いかけた。
「どうやって、馬車で五日も離れた場所にいた私と、お話しになったのですか?」
「ぐっ……」
レオナールは苦い顔で押し黙る。
リディアはベルモント伯爵へ向き直る。
「申し訳ございません。ご令息の件について、私は一度も反対しておりません。そもそも、そのお話自体をつい先日まで存じませんでした」
「……待ってくれ」
周囲から声が上がった。
「では……先日、うちの甥をそちらの晩餐会へ招いてほしいと頼んだ時も?」
リディアが振り返る。
「何のお話でしょう?」
「レオナール殿から、奥方が家格を気にしているから難しいと言われたんですよ」
「私は存じませんわ」
「私もだ」
今度は別の声。
「冬の狩猟会への参加を断られた時、奥方が危険な催しを嫌うと」
「それも初耳です」
「おいおい、待ってくれ。なら、うちの時も……?」
ざわめきが、一気に広がった。
最初は遠巻きに見ていただけの者まで、自分の記憶を確かめ始める。
「では、あれも?」
「申し訳ございません。存じません」
「私も奥方が嫌がっていると――」
「それも私は聞いておりませんわ」
「では、あの件も……?」
「まあ……そんなことまで私でしたの?」
数が増えるにつれ、リディア自身も呆れてきた。
自分はいったい、何人に、夫の代わりに嫌われていたのだろう。
「やめろ!」
とうとうレオナールが叫んだ。
広間が静まり返る。
「もう十分だ、リディア!」
「ですが、まだ――」
「こんな大勢の前で、一つ一つ持ち出して何がしたい! だいたい、僕にだって事情があったんだ!」
レオナールは、わなわなと拳を握りしめる。
「他家の娘を何か月も預かるのが、どれだけ大変だと思っている! 何かあれば、責任を負うのはこちらなんだぞ!」
「そうかもしれませんね」
「出資だってそうだ! 儲かるかどうかも分からないものに、大金を出せるか!」
「ええ」
「ベルモント伯爵のご令息のことだって……僕は彼の人となりをほとんど知らないんだ! そんな相手のために、軽々しく王宮へ口添えなどできるか!」
「そうですか」
リディアは静かに頷いた。
「でしたら、そのように仰ればよかったではありませんか」
レオナールの息が詰まる。
「お嬢様をお預かりする責任は負いたくない、と」
「……」
「その事業へお金を出すのは不安だ、と」
「……」
「お人柄を存じ上げないご令息のために口添えすることはできない、と。正直に――仰ればよかったのに」
「簡単に言うな!」
レオナールの顔が歪んだ。
「そんなことを本人に言えば、僕が嫌われるだろう! それくらいなら、君が嫌われてくれれば――」
ハッとした様子で、レオナールは自身の口元を押さえた。
リディアは夫を見つめた。
この人の妻として生きてきた。
人付き合いが下手な自分を、夫が補ってくれているのだと思っていた。
人から距離を置かれるのは、自分が不器用だからだと思っていた。
友人が離れたのも。
自分が社交界で好かれないのも。
自分のせいなのだと。――けれど。
「……そうですか」
「リディア」
「ようやく分かりましたわ」
「違う。今のは――」
「あなたは、ご自分が嫌われるのは嫌だった。でも」
リディアは静かに続けた。
「私が嫌われるのなら、構わなかったのですね」
◇
その夜。
最後の客が帰った後、リディアは夫の書斎へ呼ばれた。
レオナールは椅子に座り、額を押さえていた。
「やってくれたな……リディア」
その声は怒りに震えていた。
けれど、リディアは不思議と怖くなかった。
レオナールは決して自分に手を上げるようなことはしない。
『妻に暴力を振るう男』だと周囲に思われることの方が、彼には耐えられないのだから。
「……何か、僕に言うことはないのか、リディア」
「あります」
リディアは告げる。
「離縁をお願いいたします」
レオナールの顔から表情が消えた。
「な……何を言っている」
「離縁してください」
「馬鹿な」
乾いた笑いが漏れた。
「お、怒っているのか? リディア。だが、僕は――」
「あなたは今まで、私の知らないところで別の私を作っていましたね。気難しい女。家格にうるさい女。金に細かい女。夫の交友関係に口を出す女」
そしてその噂が――彼女を、孤立させていた。
「私はこれから確かめたいのです」
「た、確かめる? なにを?」
「夫の口を通さない私は、どんな人間なのか。あなたの妻でない私は、誰と親しくなり、誰に嫌われ、誰を好きになるのか」
「待て。冷静になれ」
「冷静ですわ」
「冷静じゃない! もしも離縁などという事になったら、社交界で僕がどんな目で見られるか! 君は考えたことがあるのか!?」
「あなたは、こんな時も――」
リディアは、少しだけ寂しそうに言った。
「ご自分が失うもののお話しかなさらないのですね」
レオナールは何も言えなかった。
翌朝。
リディアは実家へと戻った。
正式な離縁が受理されたのは、それから間もなくのことだった。
◇
春が終わる頃、リディアは小さな茶会に招かれていた。
主催者はマリアンヌだった。
参加者は五人。
以前のリディアなら、それでも少し緊張しただろう。
だが不思議と、今日は息苦しくなかった。
「マリアンヌ」
彼女の隣へ座る。
「改めて、ごめんなさい」
「何が?」
「私、あなたに嫌われたと思っていたから」
「私は、あなたが私を嫌ったのだと思っていたわ」
二人で顔を見合わせる。
そして、どちらからともなく笑った。
「私たち、二年間も何をしていたのかしら」
「本当に」
向かいに座っていた令嬢が、おずおずと口を開いた。
「こんなことを申し上げるのは失礼かもしれませんけれど」
「なんでしょう?」
「わたくし、リディア様はもっと……怖い方だと思っておりました」
「あら」
「ごめんなさい」
「いいえ」
リディアは少し考えた。
そして、笑みを作った。
「私も、ひょっとして自分はそういう人間なのかもしれないと思い込むところでした」
今度は皆が笑った。
それから話は続いた。
花のこと。
芝居のこと。
王都で新しく開いた菓子店のこと。
大した話ではない。
ただ、自分の口で話して。
自分の言葉を聞いてもらう。
それだけのことが、妙に嬉しかった。
その日の帰り際だった。
「リディア様」
玄関へ向かおうとしたところで、声をかけられた。
振り返ると、一人の青年が立っている。
マリアンヌの従兄弟だった。外務局で参事官を務めており、以前にも何度かマリアンヌを通じて顔を合わせたことがある。
「来週、王立劇場へ新しい芝居を観に行くのですが」
少し恥ずかしそうに笑う。
「もしご迷惑でなければ、ご一緒しませんか?」
リディアは目を瞬かせた。
青年は慌てて続けた。
「もちろん、ご都合が悪ければ遠慮なく断ってください」
彼女は迷わなかった。
「喜んで」
誰にも代わりに言われていない。
誰かの都合で変えられてもいない。
自分だけの返事を、口にした。
◇
しばらく後。
晩餐会におけるレオナールの一件は、王宮にも伝わることとなった。
そして妻の名を使った数々の嘘が知られるにつれ、ある過去の出来事にも疑いの目が向けられた。
一年前。
北方で隣国との緊張状態が高まり、国王から諸侯へ従軍の命が下った時のことである。
レオナールは一通の嘆願書を王宮へ提出していた。
『妻リディアが病に伏しており、容体はいまだ予断を許しません。本人も、もしこのまま私が戦地へ赴けば心細さに耐えられないと訴えております』
国王は、その願いを聞き入れた。
病に伏した妻を残して戦地へ赴かせるのは酷であろうと、従軍を免除したのである。
しかし晩餐会での一件を受け、当時の事情について改めて調べが行われた。
その結果、リディアが病に伏していたという事実はどこにもなく、当時の屋敷の者たちの証言からも、レオナールの嘆願が虚偽であったことが明らかになった。
当時、リディアは所用で王都を離れていた。それをいいことにレオナールは、妻の病をでっち上げていたのだ。
自らに課せられた従軍の義務から逃れるために。
恩情を利用されたと知った国王の怒りは大きかった。
処分は、ほどなく下された。
爵位の剥奪である。
◇
数か月後。
王都にある貴族御用達の喫茶店でフェリシテは一人、紅茶を飲んでいた。
「ようやく見つけたぞ、フェリシテ・クローヴェル!」
声を上げて近付いてきた男を見て、フェリシテは顔を上げる。
彼の頬は痩せ、髪は乱れていた。
かつて、人好きのする笑顔で大勢の貴族に囲まれていた男。
レオナール・ハルフォードだった。
「よくもやってくれたな!」
レオナールの声が店中に響く。
「お前がリディアをそそのかしたことは分かっている! あれから、僕は全て失った! 妻も、人望も、爵位まで――!」
「まあ」
フェリシテは、目の前の相手を慈しむように微笑んだ。
「ああ……良かったですわ。あなたに、お返しすることができたみたいで」
「なに!?」
「あなたは、奥様にずっと預けていたんですものね。『嫌われる』という役割を」
フェリシテは、むしろ気の毒そうにレオナールを見つめた。
「けれど、それではあなたのためになりませんもの」
「僕の……ためだと!?」
「ええ」
フェリシテはにこやかに頷いた。
「嫌われて傷つくことだって、きっと無駄ではありませんわ。その痛みがあれば、自分が誰かにしてきたことを振り返ることができます。そうやって人は学んで、少しずつ素敵な人になっていく――わたくしは、そう思っています」
紫の瞳が、優しく細められる。
「そんな大切な機会を、ずっと奥様に譲っていらしたなんて。わたくし、あなたのことがとてもかわいそうだと思っていましたの」
「お、お前……なんだ!? 何を、言って……」
「でも、もう大丈夫」
フェリシテは、心から彼を祝福するように笑った。
「その大切なものはちゃんと、あなたのもとへ帰ってきましたから。本当に――良かった」
「ふ……ふざけるな!」
レオナールは周囲を見回した。周りの席には、見知った貴族たちが何人もいる。かつて、自分が笑顔を振りまいていた相手だ。
「みんな聞いてくれ! こいつがリディアをそそのかしたんだ! こいつさえいなければ、僕は妻を失わずに済んだ!」
一瞬、貴族たちは白けたような表情を浮かべる。
だが、そのうちの一人が口を開いた。
「……つまりレオナール殿の奥方が離縁を望んだのは、そこにいるフェリシテ・クローヴェル嬢のせいだと?」
「そうだ!」
「なるほど。相変わらずのようだな」
「ど、どういう意味だ!?」
「いや。何も変わっていないのだと思ってな。以前は、自分が断ったことを奥方のせいにしていた。そして今度は、自分が妻を失ったことをクローヴェル嬢のせいにする――と」
「ち、違う! 本当にこいつが――」
「悪いが、誰もあなたの言葉になんて耳を貸しませんよ」
別の男が冷たく言った。
「だって、何かあればまた誰かのせいにするんでしょう?」
「違うと言っている!」
その時。店員が二人、レオナールの両脇に立った。
「お引き取りください。他のお客様の、ご迷惑になるので」
「なっ……触るな! 僕は――」
両腕を掴まれる。
「離せ! 離せと言っている!」
喚きながら抵抗するレオナールを、助けようとする者はいない。
「おい! 誰か何とか言え! 僕は――!」
そのまま店の外へと引きずり出され、レオナールは路上へ放り出された。
「な、なんだ?」
騒ぎに気づいた通行人たちが、足を止める。
「レオナール・ハルフォード伯爵、か……?」
「違う。『元伯爵』さ」
「国王陛下のお怒りを買ったんだってな」
「奥様を嫌われ役にしていたんですもの。当然よ」
彼へ向けられるのは、侮蔑の眼差しばかりだった。
「うう……」
レオナールの喉の奥から、苦悶の呻きが漏れる。
妻に預け続けていた『嫌われる』という痛み。
それは今、全て彼のもとへ帰ってきていた。
ようやく自分のものとなったその痛みとともに、レオナールはいつまでも路上にうずくまっていた。




