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三十秒の沈黙

作者: 夜村凪
掲載日:2026/04/13

 今日も疲れた。

 蝉の声もすっかり聞こえなくなった午後九時、僕は自宅のあるマンションに着いた。

 新卒五年目で引っ越した十階建てのマンションは、駅から少し外れた住宅街にある。築八年と比較的築浅な物件だが、立地もあるのかあまり住人と顔を合わせたことはない。たまに管理人と思われるお爺さんが一人、ゴミ集積場を整理しているのを見かけるくらいだ。

 仕事用のPCが入って少し重くなったリュックサックを前に抱えなおし、オートロックの鍵を取り出す。一度この鍵をなくしてから手続きが非常に面倒だったことを思い出し、取り出す手が無意味に慎重さを見せた。

 エントランスをくぐると、右手にあるエレベーターの前に一人の女性の後ろ姿をとらえた。

 思わず声が漏れそうになる。何も悪いことをしていないはずなのに、鼓動が少し早くなる。まずい、という感情に一時的に支配されるが、それもよくわからない。マンションの住人がエレベーターを待っている、ただそれだけなのに。彼女もどこかの階の住人なのだろう。

 ただ、このままではエレベーターに乗り合わせてしまう。正直それは避けたい。どうにもあの狭い箱の中で他人と過ごす時間が苦手なのだ。

 一旦、郵便受けを確認しに行く。できるだけゆっくりと近づいた郵便受けの中には水道料金の支払い用紙が一通。封筒の表裏を念入りに読み込む。おっと、先月の支払いがまだだったようだ。督促状の赤い文字が責め立ててくる。というか、水道局って意外と近所にあるんだな。引っ越して間もないので知らなかった。

 しばらく普段読まない部分まで封筒を眺めてから、そろそろかと視線をエレベーターのほうへ移す。ダメだ、まだ来ていない。女性はイヤホンをしてスマートフォンを眺めているが、こちらの存在には気づいているようだ。このまま僕がここで立ち尽くしていると、怪しい男と思われるに違いない。それは困る。

 観念して僕はエレベーターの前へ歩き出した。封筒を半分に折りたたんだり、端の部分だけ少し開けてみたり。ちょうどそのタイミングでチンと、電子音が響く。なんて間の悪い。

 扉が開くと女性が乗り込み、ボタンを押した。僕も足取り重く、エレベーターに入っていく。操作盤では『7』の数字が光っている。よりにもよって僕の部屋のある階の下だ。仕方なく八階のボタンを押し、操作盤の前に陣取る。

 エレベーターの駆動音とともに、浮遊感が僕の体を包んだ。


 ブ――――ンと、低い音がかすかに響く。背後からはイヤホンから少しだけ漏れている流行りのポップスが聞こえてくる。

 なんだか背中がむずがゆい。足先の向きまで気にしてしまい、ゆっくりと外開きになっていく。同乗者は微塵も僕のことなど気に留めていないとわかっていても、見られているような、まとわりつくような感覚。沈黙が重い。何か喋ったほうがいいか?いや、それなら乗り込むときに挨拶をしておくべきだった。今話しかけたら不審者確定だ。

 身動きも取りにくい空気の中、視線の先をどこに持っていくかさえ迷ってしまう。扉のガラス越しに反射する同乗者を見るのもなんだか悪い気がして、とりあえずは上の階層表示を見つめることにした。ランプが表示する数字はまだ2を指している。あと五階。

 腕を組んでみたり、口を少し曲げてみたりしていると、コーヒーの香りが室内に漂っていることに気付く。おそらく同乗者のものだろう。この香りを嗅ぐと職場のオフィスを想起させる。脳裏に響きだす、コピー機のガーっという音、キーボードのタイプ音、同僚たちの話し声――。

 そして、僕は今日起きた上司との些細なやり取りを思い出し、さらに背中をかきむしりたいような衝動に駆られていた。

 

 きっかけは上司に提出した顧客提案資料だった。自社で取り扱う製品のコストや特徴、導入した際のメリット・デメリットをグラフや表で示した資料。

 僕が作成した資料を上司に提出した際、上司から商品仕様の説明文の間違いを指摘された。だが、その箇所については商品開発部から事前に訂正のあった部分だったため、そのことを失念している上司側のミスであることは明白だったのだ。それをそのまま上司に伝えれば、問題なく事は進むはずだった。

 しかし、僕はそれを言い出せなかった。何か言い返されたらどうしようだとか、そもそも商品開発部からの訂正は本当にこれで合っていただろうかだとか、そんな言葉で頭を埋め尽くされていた。自信が持てなかったのだ。

 そのまま僕は席に帰りどうしようかと考えている間に、同僚から上司に件の訂正について伝えられているのが聞こえた。それをもって再度資料を提出すると、上司からは「知っていたなら先に言いなさい」と小言を受けたのだった。

 

 いつも何かを言い出せない。言うべきことはしっかりと浮かんでくるのだが、それを言い出そうとすると喉が閉まって音が出ない。唾液とともに飲み込んで、頭の中で言葉の再構築が始まる。

 そんな自分を省みてみぞおちのあたりが熱くなるのを感じていると、エレベーターの扉越しに4の数字とスウェット姿の男性が見えた。もうすぐこの気まずさからも解放されると思うと、先ほどまでの背中のかゆみも引いてきた。視線を改めて階層表示に移す。

 五階、六階……。

 そして七階に到着し、エレベーターの扉がゆっくりと開く。パネルの「開」ボタンを押して女性が外に出るのを促す。

 

 女性がいざ廊下へと歩き出し、パネルのボタンから指を離したその時、チャリンという音が響いた。音の主を確認すると、エレベーターを出てすぐのところに可愛らしいキャラクターのキーホルダーが落ちている。女性のポケットから落ちていったようだ。女性はイヤホンをしたまま、廊下を歩いていく。

 目の前の扉が閉まりつつある中、また自分の喉も閉まる感覚を覚えた。鍵を落としたのであれば声をかけた方がいいのは明白。だが急に声をかけて不審者だと思われたらどうしよう。イヤホンをした相手に声をかけるのはハードルが高い。そもそも廊下に落ちたのであれば玄関でないことに気づいて引き返した時にすぐ気づくだろう。

 ああ、またいつもの癖だ。だが、今日一日の後悔を取り戻すなら今しかない。でもどうしよう……。

 そう考えていると、無意識で指が再度「開」ボタンに伸びていた。開く扉、角を曲がっていく背中。こうなったら行くしかない。

 そうして僕はキーホルダーを拾い、歩き出した。先ほどまでとは違うみぞおちの熱さを感じる。歩く時の足の出し方まであやふやだ。女性の背中が近づいている。なんて声をかけようかと、そんなことを考える間も無く近づいてしまい、もう肩を叩くことができる位置まできた。

 恐る恐る、女性の肩を叩く。振り向いたその顔は少し驚きと、警戒心を見せている。一瞬また喉が閉まる感覚があったが、女性がイヤホンを外したのを見て精一杯喉を開いた。

 「あの、これ……落としましたよ」

 キーホルダーを差し出すと、女性の視線が僕の手元へ落ちる。再度怪訝な表情でこちらを見た。

 「あ、ありがとうございます……。」

 そう伝えると、女性はキーホルダーを受け取り小さくお辞儀をして、振り返り廊下を歩いていった。僕もすぐに振り返りエレベーターへと戻っていく。廊下は追いかけるときよりも短く、明るかった。足も自然に左、右と出ていく。でも少し、背中が痒い。

 エレベーターが上から下へと戻ってくる。扉をくぐり八階のボタンをそっと押す。すぐにエレベーターは停止して、いつもの廊下が見えた。

 扉が開いて、一歩踏み出す。廊下に足音が響く。昨日まで切れかかっていた電球も、管理人が変えてくれたようで煌々と灯っている。

 玄関の鍵を開け、ドアノブに手をかける。扉は、簡単に開いた。

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