第四話:生き残った側の時間
帰還は、驚くほど事務的だった。
ステーションを離れ、輸送艇に乗り換え、減速して、大気圏に入る。
誰も、古賀の名前を口にしなかった。
水野は端末を見つめていた。
大庭は操縦席で目を閉じていた。
俺は、窓の外を見ていた。
言えば、何かが壊れる気がした。
地球に降りた瞬間、重力が、急に主張してきた。
足が重い。
肺が、ちゃんと膨らむ。
「……生きてるな」
大庭が、ぽつりと言った。
それが、帰還後に聞いた最初の感想だった。
医療チェック。
隔離室。
簡易カウンセリング。
「ショック症状はありますか」
「ありません」
「睡眠は?」
「普通です」
水野は、すべて即答した。
あまりにも、きれいだった。
俺は、その横顔を見ていて、これはあとで崩れるやつだ、と思った。
大学に戻ると、世界は何も変わっていなかった。
講義。
レポート。
昼休みの雑談。
法学部の教室で、俺は刑法のページをめくる。
緊急避難。
──定義: 自己または他人の生命・身体・自由・財産に対する現在の危難を避けるため、やむを得ずにした行為が、発生した害が避けようとした害の程度を超えなかった場合に、処罰されない制度──
どこを読んでも、古賀の名前は出てこない。
水野は、大学に来なくなった。
最初は、体調不良。
次に、研究室に籠もっていると聞いた。
連絡しても、既読がつくだけだった。
三週間後、深夜に電話が鳴った。
『……三枝?』
水野の声だった。
かすれて、低い。
「どうした」
『計算したの』
唐突だった。
「何を?」
『あのときの確率』
沈黙があった。
『古賀が、南側にいた確率』
『デブリの密度』
『衝突角度』
『推進剤の爆発条件』
彼女は、淡々と並べる。
『何度やっても、答えは同じなの』
「……そうか」
『でもね』
そこで、声が揺れた。
『計算が正しいって、誰が決めたの?』
俺は、答えられなかった。
『私、正しい判断をした』
『でも、それを証明するために』
『何度も、古賀を殺してる』
電話の向こうで、水野が泣いている音がした。
翌日、彼女に会いに行った。
研究室は、散らかっていた。
ホワイトボードに、無数の数式。
空のコーヒーカップが、机に並んでいる。
水野は、椅子に座ったまま動かなかった。
髪は乱れ、目の下にクマがある。
「……おかしいよね」
水野は言った。
「正解がある問題なのに、こんなに苦しい」
「正解だったからじゃないか」
俺は言った。
「間違ってたら、怒る相手がいた」
水野は、しばらく黙っていた。
その後、裁判の話が来た。
刑事は、起訴見送り。
民事は、会社が訴えられた。
俺は、証人として呼ばれた。
法廷で、古賀の名前が出る。
フルネームで。
はっきりと。
それだけで、胸が痛んだ。
「彼は、どんな人物でしたか」
そう聞かれて、少し考えた。
「……普通の学生です」
「普通、とは?」
俺は、言葉を探した。
「バイトして」
「妹の受験を気にして」
「焼肉の話をして」
法廷が、静かになる。
そのあと、古賀の妹と会った。
駅前の喫茶店だった。
「兄が、お世話になりました」
彼女は、深く頭を下げた。
俺は、何も言えなかった。
「兄、宇宙の話ばっかりしてて──正直、バカだと思ってました」
少し笑ってから、彼女は言った。
「でも……楽しかったんだと思います」
俺は、頷いた。
「そうだと思います」
彼女は、紅茶を一口飲んだ。
「あの、三枝さん」
「はい」
「兄は……後悔してたと思いますか」
その質問に、俺は少し考えた。
「わかりません」
「……そうですよね」
彼女は、少しだけ笑った。
「でも、たぶん、してないと思うんです」
「どうしてですか」
「いつも、誰かのために損する方を選ぶ人だったから」
その言葉が、胸に刺さった。
帰り道、空を見上げた。
星は、見えなかった。
それでも、そこにあるのは、わかる。
古賀は、どこかにいる。
数式にも、法律にもならない形で。
刑法第37条 緊急避難
生命・身体・財産などの現在の危険を避けるため、やむを得ず行った行為が、結果として生じた害が避けようとした害の程度を超えなければ、罰せられない。
ただし、その程度を超えた行為は、情状により、その刑を減軽し、又は免除することができる。
成立要件
①現在の危難があること
②避難の意思があること
③補充性の要件(やむを得ずにした行為であること)
④法益権衡(生じた害が避けようとした害の程度を超えないこと)
正当防衛が「不正×正」なのに対し、
緊急避難は「正×正」の場合です。




