第二話:訓練は安全を保証しない
地球を離れるとき、思ったより感動はなかった。
輸送艇の窓から見える地球は、青くて丸くて、教科書どおりだった。
「写真と一緒だな」
古賀が言った。
「もっと感動すると思ってた」
「たぶん、あとから来るわ」
水野が言う。
「脳が処理しきれてないだけ」
大庭は何も言わない。
操縦席で、計器を見つめている。
無重力に入ると、体が少しだけ浮いた。
胃が、行き場を失ったみたいに落ち着かない。
「これ、慣れる?」
古賀が聞く。
「慣れる」
水野が即答する。
「慣れなかったら、仕事にならない」
ステーション〈レムニスカート7〉は、地球で見た写真より、さらに古く見えた。
近づくにつれて、外壁の補修跡や、色あせたパネルが目につく。
「思ったより、生活感あるな」
古賀が言った。
「人が何十年も触ってるからでしょ」
水野が答える。
「完全な機械じゃない」
ドッキング後、空気が変わった。
金属と、古いフィルターと、かすかに焦げた匂い。
「人の匂いだな」
古賀が言った。
「宇宙なのに」
一日目。最初の仕事は、外壁点検だった。
宇宙服を着る。
訓練どおりに、確認を繰り返す。
「ロック、確認」
「通信、正常」
「酸素、問題なし」
古賀は、いつも声が大きかった。
「よし、完璧!」
「声、大き過ぎ」
水野が言う。
「通信が割れる」
「テンション上がると、声でかくなるんだよ」
外に出ると、音が消えた。
正確には、音が“体の中だけ”に残った。
自分の呼吸。
スーツの内部音。
心臓の鼓動。
それ以外は、何もない。
「……静かすぎるな」
古賀が言った。
「そのうち気にならなくなるわ」
水野が言う。
仕事は、本当に地味だった。
小さな亀裂を探す。
マーカーを付ける。
写真を撮る。
「これ、意味あるのか?」
古賀が言った。
「ある」
水野は即答する。
「積み重なると、ある」
一日の作業が終わると、
ステーション内で簡単な食事をとる。
味のしないペースト。
温度も、だいたい曖昧。飲み込む感覚も曖昧だった。
重力がないと、食べ物も迷う。
どっちが喉で、どっちが上なのか。
「地球戻ったらさ」
古賀が言う。
「ラーメン食う」
「焼肉じゃなかった?」
「両方だ」
その話を、彼は何度もした。
妹の話も、何度もした。
同じ話を、同じ調子で。
それが、安心だった。
数日経つと、管制との通信が当たり前になった。
「管制、こちら外壁南側」
『了解。作業続行』
判断は、常に向こうだった。
それが、心地よかった。
自分たちは、考えなくていい。
言われたことをやればいい。
ある晩、消灯後に、古賀が言った。
「なあ三枝」
「なに」
「もしさ」
「うん」
「何かあったら、ちゃんと指示出るよな」
俺は少し考えた。
マニュアルには、そう書いてあった。
でも、"はずだ"と"出る"の間には、距離がある。
「……出るはずだ」
「だよな」
古賀は、安心したように息をついた。
俺は、自分の返事が嘘じゃないことを祈った。
水野は、その会話を聞いていた。
何も言わなかった。
彼女は端末に向かい、システムのログを見返していた。
応答時間。
通信の遅延。
管制からの指示が届くまでの、わずかな空白。
彼女は、何かを確認していた。
そして、何も言わなかった。
大庭は、操縦席で目を閉じている。
だが、その手は、常に操縦桿の近くにあった。
何かあれば、すぐに動ける姿勢。
彼は、一度も油断しなかった。
そのときは、誰も疑っていなかった。
指示が出ない状況が、あり得るなんて。
宇宙の日常は、退屈で、単調で、だからこそ、油断を育てる。
事故は、その油断の隙間に、静かに入り込んでくる。




