第2話 社交界という名の戦場
「お嬢様、本日は大切な日でございます。完璧な装いで臨みましょう」
マルタの言葉に、私は鏡の前で深呼吸した。
七歳になった今日。貴族の子女が集まる、社交界デビュー準備パーティーに初めて参加する。
そして――運命の婚約者、レオン・エーデル公爵と初めて顔を合わせる日でもある。
「緊張していますか、お嬢様?」
「いいえ、大丈夫よ」
嘘だ。めちゃくちゃ緊張している。
この二年間、私は必死に完璧令嬢を演じてきた。礼儀作法、ダンス、音楽、刺繍。全てを完璧にこなすために、影で血の滲むような努力をしてきた。
昨夜も、部屋で一人でダンスの練習をしていて、三回も転びそうになった。
『お、落ち着いて……!明日は絶対に転ばない……!』
鏡の前で何度も確認する。
ドレスはよし。髪型もよし。姿勢もよし。
そして何より――笑顔。
口角を上げて、目元を柔らかく。完璧な令嬢の微笑みを。
「お嬢様、お美しいですわ」
「ありがとう、マルタ」
さあ、行きましょう。戦場へ。
会場に到着すると、そこには既に多くの貴族の子女が集まっていた。
煌びやかなドレスに身を包んだ少女たち。礼儀正しく談笑する少年たち。
そして――
「エリアナ様、ようこそお越しくださいました」
主催者の伯爵夫人が笑顔で迎えてくれる。
「お招きいただき、ありがとうございます」
優雅にお辞儀をする。よし、完璧。
「まあ、なんて美しい所作。さすがローゼン侯爵家のお嬢様ですわ」
周囲からも称賛の声が上がる。
内心では『やったー!』とガッツポーズしたいところだが、表情は崩さない。
「お褒めいただき光栄です」
そう言って微笑む私の視線の先に――いた。
銀色の髪と、氷のように冷たい青い瞳。整った顔立ちに、どこか近寄りがたい雰囲気を纏った少年。
レオン・エーデル。
私の、婚約者。
「……」
レオンはこちらをちらりと見たが、すぐに視線を逸らした。
ああ、原作通りだ。この時期のレオンは、誰にも心を開いていない。冷たくて、孤独な少年。
でも、原作では主人公に出会って変わっていくんだよね……。
『私は悪役令嬢だから、レオンとは距離を置いた方がいいのかな?でも婚約者だし……』
考えている間に、三人の少女が近づいてきた。
「初めまして!私、マリア・ヴェルナーと申します」
明るい笑顔の金髪の少女。原作ゲームでの知識が頭をよぎる。
――マリア。表向きは親友だが、実は主人公の完璧さに嫉妬し、蹴落とそうと画策する人物。
「私はセシル・モンフォールですわ」
おっとりとした雰囲気の黒髪の少女。
――セシル。おっとりお嬢様風だが、情報収集が趣味で他人の秘密を握って楽しむタイプ。
「ロザリー・フィッツロイです。お会いできて嬉しいですわ」
凛とした雰囲気の赤毛の少女。
――ロザリー。正義感が強い風を装うが、実は自分が一番になりたいだけ。
この三人が、原作でエリアナを陥れる令嬢たちだ。
「初めまして。エリアナ・ローゼンと申します」
完璧な微笑みで応じる。
内心では『うわあああ、来た来た!この三人だ!』と叫んでいるが。
「エリアナ様の噂はかねがね伺っておりましたわ。完璧な令嬢だと」
マリアが人懐っこく笑う。
でも、原作知識があるからわかる。この笑顔の裏で、もう値踏みされているんだ。
「そんな、過分なお言葉です」
謙虚に返す。目立ちすぎるのは危険だ。
「ねえ、エリアナ様。レオン様とはもうお話しされましたの?」
セシルがおっとりとした口調で聞いてくる。
――来た!情報収集!
「いいえ、まだ正式なご挨拶は」
「まあ。婚約者なのに?」
ロザリーが少し驚いたように言う。
「幼い頃の婚約ですから。これから少しずつお互いを知っていければと」
完璧な回答。よし。
「素敵ですわ。エリアナ様は本当に賢明な方なのですね」
マリアが笑う。
でも、その目は笑っていない――ような気がする。
『うわあ、これが社交界……!表面上はニコニコしてるけど、腹の探り合い……!』
前世の私には絶対無理な世界だ。でも、今は演じなければならない。
「皆様とお友達になれたら嬉しいですわ」
そう言って微笑む。
三人も笑顔を返す。
これが、社交界という名の戦場。
そして、私の長い戦いの始まり。
パーティーが進み、ダンスの時間になった。
「エリアナ様」
低い声に振り向くと、レオンが手を差し出していた。
「……ダンスを」
無表情で、事務的な口調。
『き、来た!婚約者との初ダンス!』
内心パニックだが、表情は崩さない。
「光栄ですわ、レオン様」
手を取る。レオンの手は大きくて、少し冷たかった。
音楽が始まり、ダンスが始まる。
『落ち着いて、落ち着いて。練習通りに。一、二、三、一、二、三……』
心の中でカウントを取りながら、慎重にステップを踏む。
レオンは完璧にリードしてくれる。さすが公爵家の御曹司だ。
「……上手ですね」
レオンがぽつりと言った。
「あ、ありがとうございます」
『やった!褒められた!』
でも、次の瞬間――
「あ」
ステップを間違えそうになった。
『まずい!』
必死にバランスを取る。レオンが素早くサポートしてくれて、なんとか転ばずに済んだ。
「……大丈夫ですか」
「は、はい。失礼いたしました」
顔が熱い。恥ずかしい。
でも、レオンは――少しだけ、柔らかい表情をしていた。
「……完璧じゃなくても、いいんです」
「え?」
「あなたは、十分頑張っていると思います」
そう言って、レオンは小さく微笑んだ。
初めて見る、彼の笑顔。
『……え、なに、この展開』
原作ではもっと冷たかったはずなのに。
ダンスが終わり、レオンは一礼して去っていった。
私は、呆然とその背中を見送った。
『どういうこと……?』
そして、少し離れた場所から、三人の令嬢たちがこちらを見ていた。
マリアは笑顔だったが、その目は――冷たかった。
『……やばい。目をつけられた?』
社交界デビュー初日。
私は、様々な思惑が渦巻く世界に足を踏み入れてしまった。
次回予告:
レオンとの距離が少しずつ縮まる一方で、令嬢たちの監視の目は厳しくなっていく。そんな中、エリアナは初めて公爵家を訪問することに。そこで待っていたのは、レオンの弟と、複雑な家族関係で――




