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最終勤務報告

 午後十時、オフィスの蛍光灯はまだ点いていた。

 最原慎一は、画面の前で指を止めた。カーソルが一行の空白を点滅させる。

 メールの件名はいつも通り「至急」。本文の末尾には「よろしく頼む」。署名も敬語もない。

 送信者は、課長の古田。今日だけで七通目だ。

 机の端には、飲みかけのエナジードリンクが二本並んでいる。ひとつは昼過ぎ、もうひとつは数時間前に開けたばかり。味の違いはもうわからなかった。

 プリンタがうなりを上げる。紙の匂いとトナーの粉が鼻に刺さる。

 ふと時計を見る。

 22時13分。終電までもう2時間もない。

 エアコンの音に紛れて、背後で椅子の軋む音がした。

 「おい、最原。あの件、資料まとめたか?」

 声だけで胃が縮む。課長の古田だ。

 慎一は振り返らず、淡々と答える。

 「はい。一次データは揃いました。グラフ化して、報告書に落とし込んでます」

 「落とし込んで“ます”じゃなくて、“落とし込め”だ。明日会議だぞ。」

 課長は笑う。その笑いは、怒鳴り声より質が悪い。

 「若いんだから、寝なくても平気だろ?」

 「ええ、まぁ」

 喉の奥が焼ける。

 “平気じゃないです”と言ったところで、何も変わらない。

 同僚たちはすでに帰った。

 オフィスの窓には、外の街明かりが映っている。雨が降っているのか、ガラスに滲むネオンがゆらいでいた。

 この街の灯りのどれか一つが消えても、誰も気づかない。

 ――俺が消えても、同じだな。

 そんな考えが、一瞬だけ脳裏をかすめた。

 メールの受信音。

 件名:「明朝までに修正」

 本文:「クライアントの指摘事項を反映。あと原因分析を追記」

 時刻は22時47分。

 慎一は、キーボードに手を戻す。

 数字を打ち込み、表を並べ替える。

 関数が狂っても、誰も気づかない。最終的に「体裁」が整っていればそれでいい。

 会社は勝ち負けのゲームで、正しさより速さを選ぶ。

 ――勝てば正義。

 中学の頃、ゲーム仲間に教わった言葉を、彼は今でも口癖のように反芻していた。

 

 日付をまたいでようやく仕事を終え、慎一は肩を回す。関節が音を立てる。

 視界の端で、モニターの光がぼやけた。

 眠気と疲労と虚無。そのすべてが血の味と混ざって、舌に残る。

 冷蔵庫からペットボトルの水を取り出し、口に含む。ぬるい。

 机の上の資料を軽く揃えて鞄に入れた。

 退室カードを通すと、無機質な電子音が鳴った。

 ビルを出る。夜の空気。

 新宿の高層街は、ビル風のせいで寒い。

 スーツの上着を直しながら歩く。歩くたびに靴底が水を吸い上げ、ぐしゅりと鳴る。

 ネオンは消えかけていた。コンビニだけが明るい。

 店の前では、配送トラックが荷台を開けている。

 白い蒸気が、排気口から漂っていた。

 ――疲れた。

 けれど、疲労よりも先に来るのは“空白”だった。

 怒る元気も、嘆く余裕もない。ただ、何も感じない時間。

 まるで誰かが感情を削除したみたいに。

 彼はその状態を“社会人”と呼んでいた。

 スマホを取り出し、画面を開く。

 通知が山のように積もっている。ほとんどが業務連絡。

 その中に、一件だけ違うアイコンがあった。

 オンラインゲームのフレンドチャット。

 『お前、最近インしてないな。生きてる?』

 たった一行。

 そのメッセージを見て、少し笑った。

 “生きてるか”――その質問に、答える資格が自分にあるのかも分からない。

 ゲーム内での彼は“最終更新者”という名前を使っていた。

 ルールを壊す側。勝つためなら、何でもやる。

 バグもチートも使う。文句を言われれば、「勝てば正義だろ」と返すだけ。

 現実では叱られ、ゲームでは恐れられる。

 そのバランスが、唯一の生きる証だった。

 道の端を歩きながら、考える。

 ――どうしてこんなに働いているんだろう。

 ――誰のために。

 ――何のために。

 答えは、出ない。

 会社は「努力」を評価しない。「成果」と「従順」だけを見る。

 従順な努力は、最も都合のいい奴隷だ。

 彼は自分がその代表だと知っていた。


 信号が赤に変わる。

 交差点の角で立ち止まる。

 目の前を、朝刊を積んだトラックが通り過ぎる。

 運転席の男は、口に煙草を咥えたまま無表情だった。

 同じ顔を、どこかで何度も見た気がする。

 眠らずに働く人間の顔。

 生きるために、死にかけている顔。

 鏡に映った自分と、区別がつかない。

 青に変わる。

 足が前に出る。

 雨が再び落ち始めた。

 傘を持っていない。

 鞄の中の書類が、じわじわと湿っていくのを感じる。

 タクシーアプリを開くが、空車はゼロ。

 画面を閉じてポケットにしまう。

 その瞬間、背後で何かがきしんだ。

 ――ブレーキ音。

 金属の悲鳴のような音が、世界を切り裂いた。

 振り返るより早く、光が視界を埋めた。

 白い光。

 雨の粒が一瞬で凍るかのような衝撃。

 世界がスローモーションになる。

 時間が引き延ばされる。

 音が消える。

 心臓の鼓動だけが、やけに鮮明に響く。

 (ああ、そうか...)

 思考は、驚くほど静かだった。

 人生の締めくくりとして、特別な感情はなかった。

 ただ一つだけ――

 「次は、もう少しマシであってくれ」

 そう呟いた瞬間、視界の縁が反転した。

 光が黒に変わり、黒が音を飲み込み、

 最原慎一という名は、世界のリストから削除された。



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