勝利至上主義
終電の一本前を逃した。
最原慎一は、オフィスの窓に映る自分の姿を見た。青白い蛍光灯に、肩の落ちた男が二重に重なる。
プリンタは唸り続け、PDFはいつまでも「処理中」をやめない。メールの件名は至急、至急、至急。中身はどれも曖昧で、責任の所在だけが慎重にぼかされている。
「最原、まだいたか」
課長の古田が、コートの襟を立てたまま戻ってきた。タイピンがライトを反射する。
「これ、明朝までに。クライアントの“意向”だから」
「意向の根拠は?」
「空気読め」
短い会話が、胃に直接落ちる。
――空気。空気がルールになる職場。
ここでは、仕様よりも気分が優先される。勝ち負けはない。ただ、消耗があるだけだ。
午前一時四十分。
ファイル送信を終え、肩を回すと関節が砂のように鳴った。
帰るのは今だ。これを逃すと始発まで捕まる。
勝ちを選べ、慎一。
心のどこかで、自分の声がした。
部屋に着くと、まず椅子に沈む。
六畳のワンルーム。机の上にはモニター二枚、ゲーミングキーボード、古びたマウス。壁側には乾いた洗濯物がぶらさがっている。
カップ麺に湯を注ぎ、待つ間の三分でPCの電源を入れた。ファンの回転が少し重い。
ログイン画面。MMO《Epitaph//Realm》。
彼のキャラクター名は「LastUpdater(最終更新者)」。
ギルドは無所属。フレンドは少数。
チャットのログには、固定の挨拶が流れている。
『よう、LU。今日は?』
『地雷PKきたら呼ぶわ』
『深夜の狩場、空いてる』
カップ麺のスープを一口すすり、マウスを握る。
ログイン。
夜の森が広がる。月は薄く、地面の苔が微かに光る。
彼のアバターは黒い外套。フードは浅い。武器は小型ダガーと短杖。ビルドは“ハイブリッド”。戦士にも魔法にもなりきらない、器用貧乏。だが、穴がある。
穴はルールの継ぎ目にできやすい。
/whisper:『沼地北、BOT狩りが沸いてる。いける?』
フレンドのピンがミニマップに点滅する。
『行く。2分』
移動しながら、彼は裏ウィンドウを立ち上げる。
コミュニティWiki、海外フォーラム、未修正の不具合リスト、パケットログの簡易ビュー。
最近見つけたバフ・スナップのバグがまだ生きているはずだ。
BuffA(防御+30%)とBuffB(毒耐性+80%)を同ティックで重ねると、食い違いで毒DoTが防御に変換される。ゲームの数値処理の優先順位ミス。
開発が気づくまでの猶予は、数日。
勝つやつは、その猶予で刈る。
沼地北。
夜霧が濃い。水面に月が割れて、藻がひしめく。
狩場の真ん中に、規則正しく動く三人組がいた。
装備は高価、動きは雑。中国系業者の金策パーティか、BOTだ。
オート回復が強力で、正面から削ると赤字になる。普通は避ける。
慎一は挨拶を打つ。
/ say:『Hello. Peace?(こんちゃー)』
反応はない。
/ say:『I’m just passing thru.(ちょっと通りますよー)』
業者のキャラが一瞬だけこちらに向き、また同じルートに戻る。
脳が「良い」と告げる。
無視は、油断だ。
慎一はスキルバーを組み替える。
囮(死んだフリ)→短剣の投げ→毒霧→クイックセーブ(影残し)→ロールバック(影へ後退)
画面右上で、サーバーの遅延がわずかに跳ねた。
今だ。
まず、囮。
足元に死体の模型のようなアセットが瞬間生成され、彼のキャラはHP1で倒れたように見える。
BOTは死体に近づく。
死体=ルート対象という仕様のせいで、優先行動が切り替わる。
その瞬間、彼は短剣を投げ、毒霧を重ねる。
通常なら、相手は高耐性で毒を無効化し、自己回復でプラマイゼロ。
だが今回はBuffAとBuffBを同ティックで上書きした。
毒ダメージが防御上昇に変換され、その防御上昇がDoTとして適用される。
ゲームは混乱する。
「毒のダメージを減らすための防御上昇」→「防御上昇の数値を継続的に削るDoT」
計算順序の逆転で、相手の防御がマイナスになった。
チャット欄に誰かの笑いが走る。
/ local:『は? なんで紙装甲になってる』
/ local:『LU、またやってる』
彼は、淡々と止めを刺す。
BOTは倒れ、所持金と素材が地面に散る。
ログに、レポートのシステムメッセージが点った。
誰かが通報した。
想定内。
『今の何?』
さっきピンを打ったフレがwhisperを送ってくる。
『DoT優先度の崩れ。あと死体ルート優先の誘導』
『修正入るぞ』
『入る前に稼ぐ』
短い返事。
勝つとは、正しさと関係ない。
勝つとは、期限内に利益を最大化し、不利益を最小化する選択の連続だ。
業者の再ログインが確認できた。
復帰地点へ向かう。
殺すのが目的ではない。
学習させる。
「このチャンネルでは稼げない」と。
復帰直後の無敵時間が切れる0.2秒前に挑発を入れ、位置ずらしで水辺に押し、スタンを同期ズレで二重に重ねる。
規約の穴、通信の穴、人間の穴。
どれも、穴は勝利への入口だ。
/ local:『お前、性格悪いよな』
/ local:『いいぞもっとやれ』
/ whisper:『今日の取り分、半分渡す』
『いらない。情報だけくれ』
『明日のアプデで“毒→防御”修正。運営フォーラムに出た』
『了解。じゃ、次の穴探す』
彼は、ミニマップを拡大する。
橋のアイコン。
橋の上に赤点。PvPフラグ。
派手な装備のプレイヤーが一人、エモートを繰り返している。決闘厨だ。
/ say:『1v1?』
/ say:『条件は?』
/ say:『回復禁止。割り込み禁止。正面から』
/ say:『了解』
了解しながら、彼の頭は別のルールで動いている。
“正面から”の定義は曖昧。
ゲームの判定は向きではなくベクトルと当たり判定で決まる。
「正面から」がチャットの言葉の約束であっても、システムは別の言語を話す。
決闘が始まる。
相手は槍。中距離の牽制とカウンターが強い。
通常、短剣は分が悪い。
彼はロールで間合いを詰め、相手のカウンターの受付フレームにフェイントを滑り込ませる。
ゲームの守備範囲は、人間の反応時間より速い。
だが、“速い”は勝てるを意味しない。
勝たせるのは、ズレだ。
橋の欄干に影を置く。
影は環境オブジェクト扱いで、押し出し判定が生まれる。
カウンターで弾かれた瞬間、彼は影に位置を譲る。
相手の槍の当たり判定が欄干に吸われ、ノーダメージ。
チャットがざわめく。
/ local:『おいそれ反則じゃね?』
/ say:『ルール通りに“正面から”だ』
言葉のルールと機械のルール。
機械が勝敗をつける。
彼は、機械の側に立つ。
相手は苛立ち、オーバーエクステンドする。
槍が伸びた瞬間、彼は回線の遅延の谷でパリィを差し込み、槍を落とすデバフを通す。
拾い直す動作の無敵に合わせて、投げ短剣を地面に刺す。
視覚的には攻撃にならないが、ヒットボックスが残り、拾い直しの当たり判定を遮断する。
相手は武器を拾えず、素手になる。
/ local:『は????』
数秒で決着した。
/ local:『クズ』
/ say:『勝てば正義だろ』
/ local:『覚えたからな』
/ say:『覚えるやつは好きだ。次はもっと強く来い』
橋の下へ離れると、フレからwhisper。
『晒し板いったぞ。SS載ってる』
『構わん。次は“取引詐欺”も警戒される。別の穴に行く』
『どこ』
『仕様通りだが、誰も見てない場所』
/ whisper:『つまり?』
『説明文』
彼はアイテム図鑑を開き、説明文を流し読みする。
たとえば“火薬”。
説明には「湿度に弱い」とあるが、ゲーム内部では湿度は水属性DoTに過ぎない。
火薬樽を水属性DoTで常時チリチリさせた状態で爆発判定を起こすと、爆発半径がDoTのスタック数に比例して上振れする。
運営は湿度を見た目の演出だと考えている。
だが、内部数値は真実だ。
橋の下に火薬樽を並べ、小雨のエフェクトを召喚アイテムで維持する。
上を通る大手ギルドのキャラバンの足元で、彼は樽を蹴った。
バフ+DoT+爆発。
仕様通り。
想定外。
画面が白くフラッシュし、騎獣が次々とはじけ飛ぶ。
/ local:『はあああああ???』
/ local:『この時間にキャラバン潰すなよ!!』
/ local:『LMFAO』
/ say:『湿度に弱いって書いてあるだろ? 説明は正しく読め』
読み方で、世界はこちらに傾く**。
怒ったギルドが討伐隊を組み、彼を追う。
追手は人数で勝つと思っている。
彼は地形を選び、ログアウト座標をずらし安全地帯の縁を渡る。
/ local:『逃げるなよ、正面から来い』
/ say:『正面はさっきやっただろ。次は“勝ち方”の勉強だ』
追いつめられた細道で、彼はログ画面だけ開く。
ログアウトの3秒前に挑発を入れる。
相手は挑発中のダメージを嫌ってスキルを温存する。
温存は虚無に変わる。
ログアウト成功。
/ local:『卑怯者!』
/ say:『勝てば正義。負ければ説教』
回線が切れ、彼は現実に戻った。
部屋は静かだった。
カップ麺は伸びきり、スープは塩辛さだけを残している。
モニターの光が、壁の薄いシミを白く浮かび上がらせる。
勝った。
たくさん勝った。
所持金は増え、素材は溢れ、晒し板は賑やかだ。
ただ、静かではない。
デスクの隅に置いた退職届のテンプレートが、薄く開いたままになっている。
日付は空白。
書けば楽になるか?
楽にはならない。次の職場で、同じ空気を読むだけだ。
ゲームのログに目をやる。
『またな、LU』
『今日のは勉強になった』
『クズだけど好き』
評価。称賛。敵意。
どれも、勝利の副産物に過ぎない。
椅子を回し、窓を開ける。
夜風が、コンビニとアスファルトの匂いを運んでくる。
遠くで、トラックのバック音が鳴った。
ピーピーという機械の声。
時間は午前五時過ぎ。
少し仮眠して、そのまま出社できる。
起きられなければタクシーだ。
――どちらも、負けだな。
笑って、やめた。
シャワーを浴び、タオルで髪を拭きながら鏡を見る。
目の下の隈は薄い。若さで誤魔化せている。
指先に、まだキーボードの感触が残っている。
勝つためなら何でも使う。
さっき身をもって再確認した自分の性格が、骨のように内側から支えている。
スマホが震えた。
社内チャット。
『おはよう。朝イチでクライアントに出すから、先方の意向まとめて**“私が考えた風”に直しといて』
送信者:古田。
時刻:5:21。
――勤務外活動。
“私が考えた風”という文言に、思わず吹き出しそうになる。
自分を加工し相手を欺く人間の言葉だ。
自分の、嫌いな種類。
ベッドに身を投げ、目を閉じる。
短い眠りに落ちる寸前、頭の中で、ゲームのログが一行だけ光った気がした。
〈勝利ログ〉:最終更新者は、また一つ穴を塞いだ。
次の穴は、現実にある。
目を開けると、外は既に白み始めていた。
アラームは鳴らない。
体が自動で起き上がる。
着替え、鞄を肩にかけ、扉を開ける。
廊下の先に、朝の匂い。パン屋の甘い香り。
角を曲がると、道路と、信号と、コンビニの看板。
そして、トラックの白い車体が、街角でわずかに揺れた。
最原慎一は思う。
勝てば正義。
負ければ、世界のせい。
ならば、勝ち続けろ。
世界が嫌なら、世界の穴を見つけろ。
穴がなければ、作れ。
彼は、そうして生きてきた。




