海賊世界(転生No.84)
真昼の太陽が容赦なく照りつけ、水平線の彼方まで真っ青な海が続いている。
しかし、その穏やかさとは裏腹に、甲板には落ち着きなど欠片もなかった。
ロープが無造作に転がり、樽が波に合わせてごろりと揺れる。
そのど真ん中に場違いな“紅茶会”用のテーブルが鎮座していた。
銀のティーポットとカップが、強い潮風にカタカタと小さく鳴り、船体が傾くたびに紅茶がふちまで波打つ。
ほんの少しでも気を抜けば、香り高い液体が甲板にこぼれ落ちるだろう。
潮の匂いと……かすかに漂う砲煙の香りが混じり合い、緊張の幕が見えない糸のように張り詰めていた。
大洋の真ん中に浮かぶ巨大な海賊船の上で、優雅さと危うさが同居する奇妙なティータイムが始まろうとしていた。
シャルロットは、風で乱れた髪を片手で押さえながらも、もう片方の手でカップを優雅に持ち上げていた。
航海士として海図の上に視線を落としつつ、波の揺れにも微動だにせず紅茶をすするその姿は、どう見ても“嵐の海を渡る海賊”ではなく“王宮のサロンでくつろぐ令嬢”だった。
「進路は北西二度修正……ええ、紅茶の香りも悪くないわ」
彼女にとって航海もティータイムも、どちらも同じくらい日常の一部に過ぎないようだった。
ベアトリスは火薬樽の上に腰かけ、足をぶらぶらさせながらご機嫌に鼻歌を歌っていた。
その無邪気な声が、砲煙と潮風に混じって甲板に響く。
「♪ひとつ樽を運んだら〜、ふたつ樽も転がそう〜」
手には火薬袋。しかも封を開けかけている。
まるで砂遊びでもしているかのような無防備さに、近くの船員が青ざめた顔で距離を取った。
「ベアトリス、やめろっ! その歌詞だけで心臓に悪い!」
だが本人は悪びれるどころか、きらきらした笑顔で手を振るだけだった。
まさに“爆発予告そのもの”を担当する危険人物だった。
イザベラは副船長として甲板の端に立ち、冷たい視線で全員の動きを監視していた。
その背筋は嵐の海でも微動だにせず、風に翻るマントが威圧感をさらに増している。
「舵角二度修正。ロープの結び目が甘いわよ。……ベアトリス、その火薬袋を今すぐ置きなさい!」
指示は矢のように鋭く飛び、誰も逆らう隙を与えない。
少しでも気を抜けば即座に叱責が飛んでくるため、甲板の空気は常に緊張していた。
だがイザベラ自身は眉ひとつ動かさず、まるで海そのものを睨み据えているかのよう。
規律の番人として、この船を一瞬たりとも無法の場にさせまいとしていた。
マルグリットは、なぜか堂々と舵輪の前に立っていた。
風を受けて金色の髪がふわりと揺れ、瞳は遠くの波間を眺めている。
「わぁ、カモメさんが飛んでる~。ねぇねぇ、ついてきてるのかな?」
船体がきしみ、甲板が揺れても、彼女の両手は舵輪を軽く撫でているだけ。
どう見ても操船しているというより、景色を楽しんでいるようにしか見えなかった。
「マルグリット! 舵を十五度東へ!」
イザベラの鋭い声が飛ぶが、返ってくるのはのんびりした調子だ。
「え? あ、うん……たぶん曲がってるよ~?」
船の進路が妙にふらついているのは、きっと彼女が鳥の動きを追いかけているせいだろう。
だが不思議と、その呑気さが嵐の中でも妙な安心感を生んでいた。
空を切り裂くような轟音とともに、黒煙を引いた砲弾が海面に突き刺さった。
激しい水柱が立ち、塩水が甲板にばしゃりと降りかかる。
「敵船の砲撃! 全員配置につけ!」
副船長イザベラの声が鋭く響き、甲板の空気が一瞬で張り詰めた。
「方位角二十度修正よ、マルグリット!」
航海士シャルロットが海図を片手に叫ぶ。
しかし舵輪の前のマルグリットは、のんびりと空を見上げたままだ。
「えっ、鳥さん追っていい?」
船体がぐらりと揺れ、舵がぶれる。
その瞬間、次の砲弾がすぐ横の海面で炸裂し、白い飛沫が虹を描いた――。
「わぁっ!」
船体が大きく揺れた拍子に、ベアトリスが抱えていた樽が傾いた。
ざらざらざら――黒い火薬が甲板にこぼれ落ち、潮風に舞う。
「波で足が滑った!」と、彼女は悪びれずに笑うが、その笑顔はまるで嵐の中心。
イザベラの顔色が一気に険しくなる。
「ちょっと! そこは最も危険な場所よ!」
副船長の鋭い叱責が飛び、周囲の海賊たちも一斉に息を呑んだ。
陽光に照らされた黒い粉末が、甲板の木目に不気味な陰を落とす――次の砲弾が直撃すれば、火薬庫ごと吹き飛びかねない。
リリアンヌは、ざわつく甲板の空気の中で紅茶を一口。
頬にかかる潮風を払いながら、静かに目を細めた。
(また爆発フラグね。……三秒後かしら)
敵船の大砲の口火が閃くのを視界の端に捉えると、彼女はひらりと扇子を広げた。
「大砲の弾道? はいはい、三歩横へ。」
言葉通り、紅茶を片手にスッと歩幅を合わせて三歩横に移動――
次の瞬間、轟音と共に砲弾が甲板をかすめ、水しぶきが高く舞い上がった。
悲鳴を上げて飛び退く乗組員たちと違い、リリアンヌの髪もドレスも一筋の乱れすらない。
扇子をぱたりと閉じて、紅茶をもう一口。まるで散歩の延長のような優雅さだった。
甲板に砲弾がかすめ、火薬の上に火花が散った――。
瞬間、リリアンヌは涼しい顔のまま扇子をひらりと一振り。
小さな火花が潮風に舞い、炎になる前にかき消える。
「わぁ、危なかった~!」
火薬をばらまいた張本人、ベアトリスはのほほんと笑っている。
「危ないじゃ済まないのよ!」
イザベラは声を張り上げ、甲板を走り回る船員たちに指示を飛ばした。
「方位角二十度維持よ!早く!」
シャルロットは航海図を片手に舵をにらみつけるが、
「鳥さんまだ飛んでる~」
マルグリットはのんきに波間を見つめ、舵が左右にぶれる。
混乱の渦中でも、リリアンヌだけは紅茶を優雅に口に運びながら、
まるで午後のお茶会が中断された程度の顔で甲板の修羅場を眺めていた。




