この舞台に従うか、それとも壊すか
玉座広間には、張り詰めた沈黙が満ちていた。
高窓から差し込む月明かりは、漆黒の床に細く長い筋を描いている。だが――その光が、ふいにざらついた。
まるで映像の乱れのように、月がかすかに歪む。輪郭が震え、白銀の輝きが微細なノイズを帯びた。
リリアンヌは手元の紅茶カップを見下ろす。
――そこに、一瞬だけ“笑う影”が走った。
視線を巡らせると、庭園の池の水面も、壁に埋め込まれた鏡面装飾も、かすかな影を宿している。
まるで、この広間の至るところに“誰か”が潜んでいるかのように。
「……っ」
胸がわずかに高鳴る。
今の影は――錯覚か、それとも。
次の瞬間、燭台の炎が低く揺れ、影が広間を滑った。
天井から垂れ下がる濃紺の布が、音もなく揺れた。
月光が揺らいだ瞬間、その影が人の輪郭を結ぶ。
「――やあ、久しいな。」
視界の高みから、オスカーが降りてきた。
彼の装いは、どこか異様だった。
西洋宮廷風の豪奢な刺繍入りコート――だが、その裾や肩口には未来都市を思わせる金属パーツが組み込まれ、細く発光するラインが呼吸のように明滅している。
過去と未来、あらゆる世界を踏破してきた者の軌跡が、そのまま衣服に刻まれているかのようだった。
その表情は静かで、穏やかですらある。
けれども、その瞳に宿るのは――長き観測の果てにたどり着いた諦観の色。
まるで、結末を知り尽くした者が、それでもなお舞台の開幕を見届けようとするかのように。
オスカーの声が落ちた瞬間、玉座広間の空気が震えた。
低く、澄んだ響き――しかしその残響はどこか人工的で、現実の壁や床が軋みながら歪んだように聞こえる。
「――百回目だ。選べ、リリアンヌ。」
「舞台に従い、終幕を迎えるか――」
「それとも……全てを壊すか。」
その言葉が重なるごとに、広間の光が不自然に明滅した。
月明かりが映していたはずの影が、粒子ノイズのように震え、蝋燭の炎までも映像の乱れのように滲む。
人物の輪郭が一瞬だけ揺らぎ、まるで舞台そのものが剥がれ落ちる予兆のようだ。
紅茶カップの液面、庭園の池の水鏡――
そこに、オスカーの影がかすめた。
見上げた者の視界を、まるで幻影のように撫でる、観測者の笑み。
オスカーの声が広間に響いた瞬間、紅茶会の面々がそれぞれ反応した。
シャルロットは真っ直ぐ天井を見上げる。涼やかな微笑を崩さず――ただ、その口元が、僅かに引きつった。
イザベラの反応は速い。声が落ちきる前に、反射的に腰の剣の柄へ指が伸びる。金具が小さく鳴った音が、異様な静けさの中で鮮烈に響く。
ベアトリスの手元で端末が明滅した。
《ERROR》《解析不能》――文字が瞬くたび、ノイズ音が走り、彼女の眉がかすかに動く。
マルグリットだけが笑顔を崩さない。
だが、彼女の手にしたカップの表面で揺れた香の液面が、わずかに外へ零れた。
――無邪気な微笑の奥に隠れた緊張、それは、香りの滴が雄弁に語っていた。
(……ついに来た。)
(選べ……この舞台に従うか、それとも壊すか。)
リリアンヌは手にした紅茶カップを強く握りしめた。
わずかな震えで液面が揺れ――そこに、一瞬だけオスカーの笑みが映る。
胸の奥に押し寄せる迷いと、噛み砕いた決意が、瞳の奥でせめぎ合う。
その光は、怯えではなく、覚悟の輪郭を帯びていた。
オスカーの影は、月光に溶けるように高窓の向こうへと消えた。
しかし、彼の存在が残した歪みだけが、金箔の広間にしつこく響き続ける。
燭台の炎がひときわ大きく揺らめき――次の瞬間、まるで時間が止まったかのように静止した。
視界が暗転し、リリアンヌの瞳に深く寄る。
その瞳の奥で、学園――宮廷――未来都市――幾度も繰り返された世界が、稲妻のような閃光で高速にフラッシュする。
すべてが、この瞬間に収束するかのように――。




