何度目だ、この世界も
――ああ、まただ。
まぶたの裏に刺さる朝の光と同時に、嫌な予感がした。
リリアンヌ・フォン・ベルメルは、まるで深い夢から引き上げられるように目を開けた。天井は白亜の漆喰、金の縁取りに薔薇模様のレリーフ。見慣れない――いや、見飽きた豪奢さ。
(はいはい、また貴族令嬢の部屋ね。百一回目かしら、それとも百二回目?)
上質すぎるシーツが肌を撫でる感覚に、微妙なむずがゆさを覚える。カーテンの隙間から差し込む薄明かりは、どうにも“ゲームCGの差分光源”っぽい。嫌でも思い出す。自分が何度も“転生”してきたことを。
上体を起こした瞬間、ドレスの裾がざわりと音を立てた。いや、待って。
(え、寝間着じゃないの? ……初期装備がドレスってどういう仕様よ!)
指先を見れば、白魚のような指に宝石がはめられている。うっすらパールピンクのネイルまで完璧。どう見ても“おしゃれ悪役令嬢”。
ベッドを降り、壁一面の鏡に近づく。そこに映ったのは、プラチナブロンドの髪を美しく巻き上げ、青い瞳を気取った冷ややかさで縁取る十六歳の少女。
(はいはい、悪役令嬢パッケージ。高慢ちきな笑顔のテンプレも標準装備、と。)
唇の端を軽くつり上げてみる。完璧な令嬢スマイル。……うん、安定の“悪役顔”。
ドアが控えめにノックされた。
「お目覚めでしょうか、お嬢様」
低く落ち着いた声。聞き慣れた声だ。
(来たわね、執事オスカー。毎回あなたはブレないわね……)
鏡の前でため息をひとつ。
「ええ、開けてちょうだい」
入ってきたのは、燕尾服を完璧に着こなした青年。銀髪に翡翠色の瞳。相変わらず人形めいた無表情。
「今世も、お目覚めおめでとうございます。状況は……いつも通りです」
淡々とした説明に、リリアンヌは肩をすくめた。
(やっぱりそうよね。乙女ゲーム世界に転生して“悪役令嬢”。これで何回目か、もう数えるのも面倒だわ。)
オスカーはカーテンを開け、朝の光を部屋いっぱいに招き入れる。
「本日、王太子殿下主催の舞踏会がございます。お嬢様の“断罪イベント”が発生する可能性は、例のごとく高いかと」
「断罪イベントね……」リリアンヌは小さく笑った。
(百回以上経験済みの私に、いまさら破滅フラグ? ……ふふ、簡単に崩してあげるわよ。)
(……またか。何度目だ、この世界も。)
プラチナブロンドの髪先を指でつまみ、光にかざす。
艶やかで完璧すぎる巻き髪――これも、何度目かの“既視感”だ。
(目の前の王子も、ヒロインも……どうせ見慣れた顔ぶれのはず。
名前が違うだけで、やることは毎回同じ。
婚約破棄に断罪イベント? はいはい、テンプレートお疲れさまって感じ。)
思わずくすりと笑みが漏れる。
(そろそろ百回は超えてるわよね。前世の私が聞いたら腰を抜かすかも。)
胸元のサファイアのペンダントが、朝の光を受けて青白く光った。
(……さて、今回はどんな“破滅エンド”が待ってるのかしら。飽きたけど、まあ一応楽しませてもらうわ。)
ドアがノックされる音とほぼ同時に、きっちりとした声が響いた。
「お目覚めでしょうか、お嬢様」
「ええ。入りなさい、オスカー」
静かに扉が開き、銀髪の青年が一歩足を踏み入れる。燕尾服の裾が揺れるたびに、空気まで整列するかのようだ。
(……はいはい、この登場も何度目かしら。百一回? 百二回?)
オスカーは無駄のない動作でカーテンを開け、薄明かりを朝の陽光に変える。室内が一気に輝きを増し、その中心にいるリリアンヌはまるで舞台に立つ女優のようだった。
彼は一礼すると、いつものようにブラシを手に取る。
「今世も見事なお目覚めでございます。髪を整えましょう」
ブラシの動きは静かで滑らか。一本たりとも乱さず、まるで長年使い慣れた楽器を奏でる指のようだ。
(完璧な執事ムーブ……もう見飽きたわね。これが百回以上の転生でも、彼だけは変わらないんだから不思議なものよ。)
彼が髪をまとめる間、リリアンヌは鏡越しに彼の表情を盗み見る。
――無表情。声も仕草も、常に一定。
(ほんと、あなたはNPCとして実装されてるんじゃないの?)
「本日は舞踏会がございます。お嬢様にとって……いえ、我々にとって“いつもの日”でございます」
「ふふ、“いつもの日”ね。毎回そう言うわね、オスカー」
リリアンヌは肩をすくめる。まるで天気の話でもしているような軽さだった。
オスカーは髪を整えながら、一片の感情も込めずに告げた。
「本日、王太子殿下主催の舞踏会にご出席予定です」
リリアンヌは鏡越しに片眉を上げる。
「へえ、今回は王太子様パターンなのね。……何回目だったかしら?」
「失礼ながら、前回が侯爵家令息、その前が留学先の騎士学校での騎士団長殿下。――王太子殿下ルートは九回目です」
「九回目、ね。そろそろ記念品でも欲しいくらいだわ」
彼女はわざとらしくため息をついてみせる。
オスカーは表情一つ変えず、言葉を継いだ。
「念のため申し上げますと――貴女は悪役令嬢として、例の“断罪イベント”が発生する可能性がございます」
「断罪イベント……ね。つまり、“私が悪事を暴かれて破滅する劇場”ってわけでしょう?」
「はい。断罪イベントが確定すれば、婚約破棄、国外追放、処刑……いずれかの破滅エンドが待ち受けます」
「うふふ。百回以上も繰り返せば、メニューくらい暗記するわよ」
リリアンヌは退屈そうに首を傾げる。
「でも安心して。私、もうちょっと上手に立ち回れるようになってきたから」
「それは結構でございます。しかし、油断はなさいませんよう」
「はいはい。……いつも通りでしょ、オスカー」
鏡の中で、悪役令嬢リリアンヌの微笑がきらりと光った。
オスカーの口調はまるで時報のように一定だった。
「断罪イベントが発生する可能性がございます。十分なご警戒を――」
「――もう聞き飽きたわ、オスカー。」
リリアンヌは鏡に映る自分の金の髪をひと房摘まみ、くるくると指に巻きつける。退屈そうに、しかし妙に楽しげでもあった。
「フラグ回避なら百回目よ。もう完璧に決まってるじゃない。」
口角をわずかに上げ、まるで初舞台を前にする役者のような顔つきになる。
(初めてこの“断罪イベント”を迎えたときは、心臓が飛び出るほど緊張したものよね……。でも今となっては、定期テストより簡単だわ。)
「今回の王太子殿下ルートも、どうせ台詞も展開も大差ないんでしょう?」
「……否定はいたしかねます。」
オスカーの返事は相変わらず乾いている。
リリアンヌは椅子からすっと立ち上がり、ふわりとスカートを翻した。
「なら簡単ね。百回分の経験、見せてあげるわ。」
窓を開けると、淡い朝の光がすっと差し込み、部屋のカーテンを透かして金色に縁取った。
足を進めて窓辺に立つ。視線の先には、手入れの行き届いた宮廷の庭園が広がっていた。白い石畳の小径、幾何学模様に刈り込まれた生垣、噴水から舞い上がる水しぶき――どれも完璧すぎて、もはや美しさに感嘆する気にもならない。
庭園の奥に、学園の荘厳な校舎がかすんで見える。馬車が一台、敷地へ滑り込んでいった。
――あぁ、この整いすぎた庭園……何度目に眺めるのかしら。
モーニングティーの香りが漂ってきそうなほど、優雅で作り物めいた景色。
けれど私にとっては既視感しかない。何十回も、いや――百回を超えて、私はこの“朝”を迎えてきたのだから。
庭園の奥、宮廷の大広間では舞踏会の準備が進んでいるのが見えた。召使いたちが慌ただしく赤い絨毯を敷き、楽団が音合わせをしている。
――まったく、今夜もお祭り騒ぎね。
この世界の社交界は、一歩間違えば命取りだ。
ドレスの色一つ、リボンの結び方ひとつで、「あの家は落ちぶれた」だの「陛下への忠誠が足りない」だの、好き放題に噂される。
たとえ小さな失敗でも、瞬く間に広まり、家の名誉ごと失脚しかねない。
――微笑み一つ、カーテシー一つで家の名誉が上下する。だから淑女は仮面を被るのが常識。
窓の向こうで笑い声をあげている令嬢たちも、心の内を決して見せはしない。私ももちろん、その一人――もっとも、私の場合は何百回目かの“仮面舞踏会”だけれど。
視界の端で、鮮やかなブロンドが風に揺れた。
――あら、もう“ヒロイン”のご登場?
中庭の噴水のほとりで笑う少女。無垢な瞳に庶民らしい慎ましい装い、周囲の視線を自然と集めるその雰囲気――ええ、見間違えるはずがない。
――ああ、またこの役ね。
シナリオはいつも同じだ。
悪役令嬢がヒロインを苛める。王子や攻略対象たちがそれを庇う。最後には“断罪イベント”とやらで、悪役令嬢が社交界から追放される。
――でも百回以上もやり直した私には、もうお約束の茶番にしか見えないわ。
ガラス越しの朝日が、少女の髪をまるで後光のように照らす。
それを見て私は、薄く笑った。
さて――今回はどんな断罪劇を演じてあげようかしら。
私は視線を少女から外し、静かに窓を閉めた。
庭園のざわめきが遮断され、室内には自分の呼吸音だけが戻ってくる。
――いつも通り、幕はもう上がっている。
百回以上繰り返した茶番劇。舞台も配役も揃い、私に求められるのはただ一つ――“悪役令嬢”としての役割。
「さて――今回は、どんな断罪劇になるのかしら。」
口元に浮かんだ冷笑は、鏡の中の私にだけ見せる秘密の仮面。
この世界がどう転んでも、私にとっては通い慣れた舞台装置でしかないのだから。




