第7話
商業都市で買った食材と日用品を家に運び入れた後、アルトスはルティアに留守を任せて、小型馬車を返しに一人王都へ向かう。
西の空が茜色に染まりつつある一方で、東の空にはどんよりとした暗雲が拡がりつつあった。
「急いだ方がよさそうだな」
そう独りごちながら馬車を走らせ、王都の市街地と郊外の境目にある厩舎へ向かう。
そこで馬車を返却し、借り賃を支払って、厩舎を出た直後のことだった。
まるで行く手を阻むようにして、一人の貴族の令嬢が姿を現したのは。
歳の頃はルティアと同じくらいの金髪の令嬢に、言い知れぬ不気味さを覚えたアルトスは、目を合わせることなく彼女の脇を通り過ぎようとするも、
「アルトス様」
まさか名前を呼ばれるとは思ってなかったせいで、思わず立ち止まってしまう。
反応してしまった以上無視するわけにもいかず、アルトスは令嬢に訊ねる。
「……僕に何か用か?」
途端、令嬢は笑みを浮かべた。
見た目の可憐さとは裏腹の、どこか悪魔じみた笑みだった。
その笑みをつくった唇で、令嬢は、アルトスを瞠目せしめる言葉を紡ぐ。
「ルティアさんの右顔、どうしてああなったのか知りたくはありませんか?」
◇ ◇ ◇
「アルトスさん、遅いですね……」
日が暮れてからしばらく経っているにもかかわらず、まだアルトスが帰ってこないことにルティアは不安を募らせていた。
客が多くて厩舎が混んでいたなどといった理由で、帰りが遅くなることは何度かあったが、それでも、ここまで遅くなることはなかった。
迎えに行くべきか?
でも、そんなことをして行き違いになったら、逆に心配をかけてしまうことになるのでは?
などと迷っている内に、外からポツポツと雨滴が落ちる音が聞こえてきて、ルティアは迎えに行くことを決心する。
雨除け用の外套を纏い、アルトスが纏う分の外套とランタンを持って家を飛び出す。
馬車を返しに行ったアルトスを迎えに行くということを、端っことはいえ王都に足を踏み入れることになる。
そのことに対して、いまだ恐怖にも似た感情を覚えているけれど、アルトスを心配に思う気持ちの方がはるかに強かったので、王都へ向かう足は止まるどころか、自然と小走りになっていた。
雨足が強くなり始めた頃に厩舎に辿り着き、厩舎主と思しき男性に話しかける。
「あの……こちらに、アルトスという名前の男の人が馬車を返しに来ませんでしたか?」
馬や馬車の貸し出しには、持ち逃げを防ぐために、レアム王国が発行している身分証を提示することが義務づけられている。
ゆえに厩舎主なら、馬車を返しに来たアルトスの名前を知っていると思い、単刀直入に訊ねた次第だった。
厩舎主は、ルティアの半顔に巻かれた布帯を見て、何かに気づいたような顔をする。
その反応を見て、もしかしたら厩舎主は、聖女候補筆頭だった自分のことを知っているのかもしれないと思い、心の奥底からじわりと恐怖が滲み出てくる。
(これくらい、何だっていうんです!)
そう己を叱咤し、恐怖をねじ伏せて、厩舎主に懇願した。
「いつもならもうとっくに家に帰ってきているはずなのに、いつまで経っても帰ってこないんです! お願いします! 教えてください!」
ルティアがあまりにも必死だったからか、こちらの素性については触れることなく、厩舎主は真摯に答えてくれた。
「アルトスさんなら、確かに馬車を返しに厩舎に来たよ。けどその後、どこぞの貴族のご令嬢に話しかけられて、どっかに行っちまったんだ」
貴族の令嬢――その言葉にひどく嫌な予感を覚えたルティアは、声が震えるのを自覚しながら訊ねる。
「貴族のご令嬢とは……どのような方でした?」
「アンタと同じか年下くらいの、金髪のご令嬢だったよ」
金髪と聞いて、予感が確信に変わる。
根拠はない。
確証もない。
だけど、間違いなく、アルトスさんに話しかけた貴族の令嬢はシレーヌさんだ!
「どちらに行ったかわかりますか!?」
「確か、あっちの方だったと思う」
そう言って厩舎主が指差したのは、アルトスの家がある森とは別方向の、王都の郊外だった。
「ありがとうございます!」
礼もそこそこに、ルティアは走り出す。
雨はもう本降りになっており、夜闇と合わさって、ランタンの光だけでは心許ないほどに視界は劣悪だった。
外套だけでは防ぎ切れなかった雨滴が、顔帯を瞬く間にずぶ濡れにする。
傍を流れる小川が、こちらの不安を表すかのように少しずつ水かさを増していく。
「アルトスさんっ!! 聞こえているなら返事をしてくださいっ!!」
いよいよ激しくなってきた雨音に負けないよう声を張り上げて、彼の名前を呼び続ける。
だが、雨音以外は何も返ってこなかった。
このまま闇雲に捜しても、彼を見つけることはできないかもしれない――そう思ったルティアは、逸る気持ちを無理矢理にでも抑え込んで思考を巡らせる。
もし本当に、アルトスとともにどこかに行った令嬢がシレーヌだったと仮定した場合、彼女の性格ならば、濡れるのを嫌って雨がひどくなる前に退散しているはず。
そして彼女が、徒歩で王都の郊外まで来ているとは考えにくい。
モラン公爵家が所有する馬車に乗ってきたと見て、まず間違いないだろう。
(それなら馬車の轍を探せば、アルトスさんを見つけることができるかもしれませんけど……)
如何せん視界が悪すぎる。
おまけに、ランタンの蝋燭も随分短くなっている。
急がなければ――そう思いながら、馬車の轍を、それを引く馬の足跡を必死に探す。
探しながら、必死にアルトスの名前を呼び続ける。
しかし、やはり雨音以外は何も返ってこず。
いよいよ鑞が尽きたランタンから光が消え失せる。
まるで、希望そのものが消え失せてしまったように。
(まだです!)
ルティアはランタンをその場に捨て、空いた右手で治癒術を発動する。
そうすることで右掌は暖かな治癒の光に包まれ、ランタンに比べたら格段に頼りない光がルティアの足元を照らした。
(わたしの魔力が尽きる前に見つけないと!)
アルトスのために持って来た雨除け用の外套を左手で握り締め、右手で治癒術を発動し続けながら、ルティアは捜索を再開する。
そして――
王都から離れたところにある湖の近くで、とうとう馬車の轍を発見する。
まずはその跡を辿っていき、途切れたところで周囲に視線を巡らせると、ほどなくして、湖の畔に佇むアルトスと思しき人影を見つけることができた。
「アルトスさん……っ」
こちらに背を向けているものの、着ている服と髪色、背格好が間違いなくアルトスのそれだったので、ルティアは名前を呼ぶ声を弾ませながら迷わず駆け寄る。
だが、近づくにつれて、その背中から今にも湖に踏み入りそうな危うさを覚え、彼を見つけることができた嬉しさ以上の不安が胸中に立ち込めていく。
その不安は、彼の背中に手が届く数メートルまで辿り着いたところで、的中した。
「来ないでくれッ!!」
アルトスの絶叫じみた懇願が耳をつんざき、ルティアは思わず足を止める。
「君の顔の傷について、シレーヌ嬢から話を聞いたッ!!」
予想はしていたが、それでも、アルトスの口からシレーヌが名が出てきたことに、ルティアは心臓を鷲掴みにされるような痛みを覚える。
「薄々は気づいてたんだッ!! 君ほどの治癒術の使い手が、顔を隠さなければならないほどの傷を負っている可能性なんて、それしかないってことくらいッ!!」
激しさを増す雨音に負けない大声で、アルトスは続ける。
「僕には君と一緒にいる資格なんて、初めからなかったんだッ!! なぜなら……」
躊躇いが沈黙という形で具現する。
時間にして一分、体感にして永遠に等しい時が過ぎたところで、アルトスは血を吐き出すような勢いで言葉をついだ。
「君の顔に一生消えない傷を負わせたのはッ!! 僕が作った、治癒術の効かない拷問用の呪具だったのだからッ!!」
先よりも長い沈黙が、場を支配する。
激しい雨音が耳朶を打っているのに、不思議なほど静かに感じる沈黙が。
ただ黙ってアルトスの懺悔を聞いていたルティアは、決然と歩き出す。
手を伸ばせば届く距離まで近づいたところで足を止めると、ここまでの足取り以上に決然とした声音で言った。
「わたしも薄々気づいてましたよ。わたしの顔を灼いた液体が、アルトスさんが作った呪具だということには」
思わずといった風情で、アルトスは振り返る。
雨でびしょ濡れになっているせいか、その顔は泣いているようにも見えた。
「気づいてましたけど、わたしはあなたの傍にいることに決めました。だって、あなたのことが……大好きだから。愛しているから。ですが……」
ルティアは一度深呼吸し、覚悟を固めてから、すっかりずぶ濡れになった、アルトスに買ってもらった顔帯を解く。
ルティアの顔の右側を初めて目の当たりにして、アルトスは思わず息を呑んだ。
「こんな、顔の半分が醜く灼け爛れた女なんて傍に置きたくないと、あなたが言うのであれば……わたしはその言葉に……従います……」
アルトスの傍から離れたくない。
アルトスといつまでも一緒にいたい。
そんな想いが、言葉を、顔帯を握る手を、震えさせる。
拒絶すらも覚悟の上だったルティアを、アルトスは迷うことなく抱き締めた。
「醜くなんてないッ!! 傍に置きたくないなんて思うわけがないッ!! 僕は君だから好きになったんだッ!! だけどッ!! だけど……僕の呪具が、君の顔に一生消えない傷を負わせた事実は……そのせいで聖女の園を追放された事実は……変わらない……」
「それは違います。あなたの呪具は、ただ利用されただけです。わたしの顔を灼いて、聖女の園から追放されるよう仕向けたのは、シレーヌさんなのですから」
正確にはリアラとエスメルも一枚噛んでいるが、ここはあえてシレーヌの名前だけを挙げる。
予想どおり、こちらを抱き締めていたアルトスが、驚いた顔でこちらを見返してきた。
「そんな! シレーヌ嬢は、君に嫉妬した聖女候補の仕業と言っただけで、そんなことは一言も言ってなかったぞ!?」
そんなアルトスの言葉を聞いて、ルティアは確信する。
いったい何が彼女をそこまで駆り立てるのかはわからないが、顔を灼き、聖女の園から追放してなおルティアを陥れるために、シレーヌがアルトスに話しかけたことを。
ルティアの顔を灼いた呪具がアルトスが作ったものであることを、そのせいでルティアが聖女の園を追い出されたことだけを、シレーヌがアルトスに伝えたことを。
その話をアルトスに信じ込ませるために、彼に呪具作りを命じているモラン公爵の娘だという身分を明かすことで、信用の担保にしたことを。
沸々と、怒りが湧いてくる。
自分の顔を灼かれ、聖女の園を追放されてなお湧いてこなかったほどの怒りが。
生まれて初めて覚えるほどの、激しい怒りが。
(わたしのことなんてどうでもいい。けど、シレーヌさんは……アルトスさんを傷つけた!)
このままでは済ませられない。
済ませていいわけがない!
彼女には、相応の報いを受けさせなければならない。
受けさせないと気が済まない!
だけどそれは、自分一人で決めていい話ではない。
モラン公爵の娘であるシレーヌに意趣返しをした場合、自分だけではなくアルトスも王国から処断を受けるかもしれない。
だから、アルトスの気持ちは嬉しいけれど……本当に本当に嬉しいけれど。
これだけは、ちゃんと伝えておかなければならない。
「アルトスさん、お話したいことがあります。それを聞いた上で、本当に、わたしがあなたと一緒にいていいのかを……決めてください。もしかしたらわたし、あなたが思っているよりも――」
あるいは、わたし自身が思っているよりも――
「非道い女かも、しれませんから」