第5話
アルトスと一緒に暮らすようになってから一ヶ月が過ぎた頃。
ルティアは今の生活に、聖女の園にいた時以上の充実感を覚えていた。
本当に、ただアルトスと一緒に暮らしているだけなのに、毎日が楽しくて楽しくて仕方なかった。
アルトスの表情が少しずつ明るくなっていくことが、少しずつ心を開いてくれることが、嬉しくて嬉しくて仕方なかった。
これまで生きてきて、こんなにも幸せだと思ったことはなかった。
しかし、だからといって、いつまでもこの幸せを享受しているわけにはいかない。
『新しく住む場所を見つけるまでの間なら、ここにいてもいいが』
アルトスはそう言って、この家に住むことを許してくれた。
お言葉に甘えたと言えば聞こえはいいが、一ヶ月はさすがに甘えすぎだとルティアは思う。
それに今のアルトスならば、もう自殺なんて馬鹿な真似は考えないはずだ。
(勿論、わたしも……)
庭先――アルトスの家の敷地と森の境界が曖昧なので、そう呼んでいいのかはわからないが――で、洗濯物を干す手を止め、三週間ほど前に買ってもらった、顔の右側に巻いた顔帯を愛おしげに撫でる。
恐れ多いことに、あれから普段着や寝間着、日用品などもアルトスは買ってくれたが、やはりルティアが一番気に入っているのは、最初に買ってくれた顔帯だった。
予備も含めて三枚あるが、ルティアはその全てを大事に大事に使っていた。
(この思い出があれば、わたしも独りで生きていける)
悲壮感すら滲ませる覚悟を、胸に刻みつける。
この家を、アルトスのもとを去ることを考えるだけで、湧き水のように寂しさが溢れ出てくるけれど、胸に刻みつけた覚悟を強く強く意識することで、湧き出続ける寂しさを振り払う。
その際、胸に走った痛みには、意識的に気づかないフリをした。
◇ ◇ ◇
その日の昼。
昼食を終えた後、ルティアの口から出てきた言葉に、アルトスは頭が真っ白になってしまう。
「ル、ルティア……今……なんて言った?」
動揺するアルトスを見て、どこかつらそうな顔をしながらも、ルティアは先程言ったものと全く同じ内容の言葉を彼に告げた。
「そろそろ、ちゃんと住む場所を捜して、この家から出て行こうと思います。これ以上、アルトスさんのご厚意に甘えるわけにはいきませんから」
声音には、むしろ甘えることを望んでいるような響きが混じっているが、今のアルトスには、そんな機微に気づく余裕はなかった。
(出ていく? ルティアが?)
新しく住む場所を見つけるまでの間なら、ここにいていいが――そう言ったのは、他ならぬ自分なのに。
なぜか、今まで、ルティアがいずれこの家を出て行くことについて全く考えていなかった。
無意識の内に考えないようにしていた。
だからこそ、受けたショックは大きかった。
自分の中でルティアの存在が、ここまで大きくなっていたのかと驚くほどに。
行かないでくれ――心の底の底から、そんな悲鳴が聞こえてくる。
その悲鳴をそのまま口にすれば、あるいは、ルティアは思いとどまってくれるかもしれない。
けれど、
(僕のワガママで、ルティアをこんなところに縛り付けていいのか?)
たぶん、いや、絶対、駄目な気がする。
異性とまともに接した経験自体が少ないアルトスでも、ルティアがとても魅力的な女性だということは理解している。
こんな森の中に引きこもって、王国に言われるがままに拷問用の呪具を作っている自分なんかと一緒にいてはいけない――そう断言できる類の人間だ。
だから、ただ一言「わかった」と返そう。
彼女が新たな一歩を踏み出すのを、全力で後押ししよう。
そう思っているのに、震える唇は凍えたように動いてくれない。
アルトスの様子を見て、心配になったルティアが口を開こうとした、その時、
「アルトス殿! おられるか!」
玄関の扉を叩く音ともに、男の胴間声が二人の耳を圧する。
「お客様……?」
この家に初めて客人が訪れたことにルティアが困惑する中、アルトスは苦虫を噛み潰したような表情を浮かべる。
そして、心の中で、表情以上に苦々しげに吐き捨てた。
とうとう、この日がきてしまったか――と。
◇ ◇ ◇
まさかの客人に困惑しながらも、ルティアはアルトスを見やる。
アルトスの表情は、見たことがないほどに強張り、顔色は心なしか青くなっているように見えた。
(まさか、アルトスさんに呪具作りを命令している、王国からの使者様?)
おそらく、いや、間違いなくそうだと思ったルティアは、小声でアルトスに訊ねる。
「わたしが出ましょうか?」
「あ……いや、いい。僕が――」
「やれやれ。相変わらず返事もなしですか。勝手に入らせていただきますよ」
先の胴間声とは対照的な、落ち着いた壮年の男の声が聞こえてきたのも束の間、玄関の扉が開き、言葉どおり勝手に三人の男が家の中に入ってくる。
不躾な客人は、二人の屈強な兵士を引き連れた、いやに冷たい目をした壮年の執事だった。
執事はリビングにやってくると、ルティアを見て片眉を上げてからアルトスに言う。
「これはまた、随分と面白い女性を囲っておられますな、アルトス様」
明らかに揶揄が含まれた「面白い」に、ルティアは心臓が飛び跳ねそうになる。
(この人……もしかして、わたしのことを知ってる?)
冷たい汗が背筋を伝っていく。
ルティアにとって、かつて聖女候補筆頭だった自分を知っている人間と出会うことは恐怖でしかなかった。
顔を灼かれたことも、そのせいで聖女の園を追放されたことも、今もなおルティアの心に深い傷を残している。
聖女候補筆頭だった時の自分を知っている人間と出会った場合、傷に触れられるのはまず避けられない。
それが、恐くて怖くて仕方なかった。
そんなルティアの心中を知ってか知らずか、アルトスは強張った表情をそのままに、不快げに執事に言う。
「モラン公爵の執事ともあろう者が、初対面の女性を相手に『面白い』は不躾がすぎるのではないか?」
モラン公爵――その名を聞いて、ルティアは先程とは別の意味で背筋が冷たくなる。
(モラン公爵って、確か彼女の……)
ルティアが最悪の確信を得つつある中、執事は恭しく頭を垂れる。
「これは失礼。どうやら自分で思っている以上に、アルトス様に女性を囲う甲斐性があったことに驚いてしまったようです」
言い訳すらも揶揄が含まれていることに、アルトスは「本当に失礼だな」と言いたげな顔をしながら鼻を鳴らす。
「しかし……こうなってくると、貴方に呪具作りのやる気を促すために使いの者をここに泊まり込ませるのは、もうやめた方がよさそうですな?」
「そうしてくれ。どのみち、あなたたちに提供する寝床はもうないしな」
ベッドが備えつけられている客室は、今やルティアの私室になっている。
それゆえの、アルトスの言葉だった。
「それで、今回はどういう命令なんだ?」
話を急がせるアルトスに、執事は肩をすくめる。
「このまま立ち話ですか」
「どうせ長い話にはならない。そうだろ?」
「確かに、仰るとおりです」
執事は薄ら笑いを浮かべてから居住まいを正し、アルトスに告げる。
「では、王国の防諜を司る我が主からの命令をお伝えします。『我らがレアム王国に忍び込んだ間者に最上級の苦痛を与えるために、対象の痛覚を何十倍にも鋭敏する呪具を開発せよ』」
アルトスが言っていたとおり、本当に、ただ人を傷つけることだけを目的にした、人の心というものがまるで感じられない命令だった。
ルティアは思わず「ただ相手を苦しめることに、一体の何の意味があるんですか!?」と叫びそうにもなるも、
「ただ相手を苦しめることに、一体何の意味があるッ!!」
それよりも早くに、言おうとしていた言葉と全く同じ内容の言葉をアルトスが叫んだため、すんでところで呑み込んだ。
睨みつけるような視線を向けるアルトスに、執事は子供を諭すような口調で言う。
「いつも、そして今も言っているでしょう。痴れ者に最上級の苦痛を与えるためだと。それとも何ですか? 貴方はまだ『人の役に立てる呪具を作りたい』などという、子供じみた夢想を抱いているのですか?」
「……そうだと言ったら?」
「諦めなさい。何度でも言いますが、人を呪う術で、人の役に立てる物など生み出せるわけが――……」
執事は不意に言葉を切り、笑みを浮かべる。
先程の薄ら笑いよりもはるかに不快で、はるかに邪悪な笑みだった。
「失礼。呪術で人の役に立てる物は作れないというのは言い過ぎでしたな。何せアルトス様は、すでにもう人の役に立つ物をお作りになられている。敵国の間者どもが苦痛のあまり糞尿を垂れ流す呪具を、人はおろかこの王国にとって大変役に立つ呪具を、すでにもういくつもお作りになられているではありませんか」
潮が引くように、アルトスの顔から血の気が引いていく。
さすがに黙っていられなかったルティアが抗弁しようとするも、
「いい……いいんだ……ルティア……」
他ならぬアルトスにそう言われては、抗いの言葉も呑み込むしかなかった。
執事は勝ち誇った笑みを浮かべると、
「命令は以上です。一月後にまた来ますので、それまでには仕上げておいてください」
それだけ言い残すと、来た時と同様の勝手さで、この家から立ち去っていった。
ひどく、ひどく、重い沈黙が、二人の肩にのしかかる。
ルティアが耐えきれなくなるよりも先に、アルトスが口を開く。
「見ただろ? これが僕なんだ……」
まるで、この世の全てに絶望したような声音で、
「王国に命じられたとおりに呪具を作ることに、忌避感すら抱いているのに……」
今にもこの世から消えてなくなりそうな声音で、
「まともに言い返せない……王国と袂を分かつ覚悟もない……」
死者よりも幽鬼じみた声音で、
「結局王国に従って、人を傷つける呪具を作ってる……」
ただただ自分を傷つける言葉を紡いでいく。
「ルティア……この家を出て行きたいなら好きにすればいい……。君は、僕なんかの傍にいていい女性じゃないのだから……」
どこまでもどこまでも自分を傷つける言葉を紡ぐアルトスに、いよいよ耐えられなくなったルティアは、今にもどこかに消えてしまいそうな彼を繋ぎ止めるように、強く、強く、目の前の異性を抱き締めた。
「そんな風に言わないでくださいっ! アルトスさんはっ! アルトスさんが思っているような人間じゃありませんっ! 思慮深くてっ! 優しくてっ! アルトスさんが思っているよりもずっとずっと立派な人間なんですからっ!」
心の奥底から生じた衝動に突き動かされるように、ルティアはなおも叫び続ける。
「それからわたしっ! この家から出て行きたいわけじゃありませんからっ! アルトスさんの優しさに甘えすぎたらいけないと思ってっ! 出ていくしかないと思ってただけですからっ!」
思いも寄らなかったルティアの言葉に、アルトスは目を見開く。
「たった一ヶ月でしたけどっ! アルトスさんと一緒に暮らしてる間は、生きてて初めて楽しいと思いましたっ! できることなら、ずっとこの家にいたいと、ずっとアルトスさんと一緒にいたいと思いましたっ!」
思いも寄らない言葉ばかりが続いたせいか、アルトスは、今にも泣き出しそうな子供のような顔をしながら、抱き締めたままこちらを見上げてくるルティアに訊ねる。
「一緒にいて……くれるのか……?」
その言葉だけで相手も同じ気持ちだと知ったルティアは、嬉しさを隠そうともしない声音で「はいっ!」と答えた。
感極まったアルトスが、抱き締め返すことで、僕も同じように嬉しく思っていると伝えてくる。
そのことをますます嬉しく思いながら、ルティアは意を決して、これから先についての提案する。
「一人で無理なら、二人で探しましょう。人の役に立てる呪具を作るための道を。どんな道でも……わたしはついて……行きます……から……」
だが、段々冷静になってきた頭が、自分の言動が如何に大胆であったのかを理解し始め、言葉はしどろもどろになっていき、顔は真っ赤になっていく。
冷静さを取り戻したのはアルトスも同じで、やはりというべきか、ルティアと同様、顔は真っ赤になっていた。
二人とも、抱き締め合った状態が恥ずかしくて恥ずかしくて仕方なかったけど。
そのせいで頭も体も石像のように固まってしまい。
結局三〇分もの間、抱き締め合ったままになってしまい。
その後二日間、恥ずかしさのあまり、相手の顔をまともに見られなくなってしまったのであった。