第2話
「いい気味だわ、ルティアのやつ」
「ほんと、みっともない悲鳴だったわね」
路地を歩きながら、リアラとエスメルがほくそ笑む。
二人もまたシレーヌと同様、平民の分際で聖女になることが確実視されているルティアのことを疎ましく思っていた手合いだった。
「それにしても治癒術の効かない呪具なんて、どこで見つけてきたの?」
呪具とは、治癒術や魔術とは別系統の術――呪術によって作られた道具だった。
シレーヌはリアラからの問いに対し、得意げな笑みで応える。
「こないだお父様がお酒の席で、犯罪者の尋問用の道具を天才呪術師のアルトス様に作らせているという話をしていたことを思い出しましてね。わたくしが聖女になるために必要だからとお願いしたら、お父様がすぐに取り寄せてくださったの」
「さすが。モラン閣下は頼りになるわね」
父親を賛辞されて、やはりシレーヌが得意げな笑みを浮かべる中、エスメルが不安を口にする。
「でも、ルティアにああも堂々と顔を見せてよかったの? やっぱり顔くらいは隠してた方がよかったんじゃ……」
「弱気が過ぎますわよ、エスメルさん。わたくしはこの王国の防諜を司るモラン公爵家の娘であり、あなたたちは立派な侯爵家の娘。それに対してあの女は親すらいない卑しい平民。根回しは完璧に済ませてますので、平民のあの女がどう泣きわめこうが、わたくしたちがあの女の顔を灼いた犯人になることは絶対にあり得ませんわ。それに……」
シレーヌは口の端を吊り上げ、言葉をつぐ。
「自分の顔を灼いたのが、わたくしたちだってわかっているのに何もできない。助けてすらもらえない。そんな状況に苦しめられるあの女の姿、見てみたいとは思いません?」
同意だったのか、不安そうにしていたエスメルの表情が、シレーヌと同種の笑みに変わる。
「とはいえ、大人たちとはともかく、卑しい平民の聖女候補どもに、完璧に根回しをするのは不可能というもの。そのためにも……わかってますわね? リアラさん、エスメルさん」
リアラとエスメルが首肯を返したところで、シレーヌは駆け出し、二人も後に続いていく。
路地を出て大通りを行き、向かった先は、ルティアが下宿している、平民の聖女候補のために設けられた寮。
シレーヌたちは渾身の演技で涙目になりながら寮に駆け込み、
「た、大変よ!」
「ルティアさんが悪漢に襲われて!」
「誰か! ルティアさんを助けてくださいまし!」
◇ ◇ ◇
目を覚ましたルティアは、自分が今、寮の自室のベッドに寝かせられている状況に困惑していた。
あの時、シレーヌに謎の液体を顔にかけられ、生じた激痛にもがき苦しんだことは憶えている。
治癒術が効かないことに絶望したことも憶えている。
だが、それ以降の記憶が全くない。
激痛のあまり、気絶してしまったのだろうか?
それとも、
(夢……だった?)
淡い期待を抱きながら、液体をかけられた顔の右側に手をやり……そこに巻かれた包帯の感触と、半顔にひりつくような痛みが奔ったことに色を失う。
やめた方がいいと訴える理性を無視してベッドから下り、包帯を解きながら姿見の前に立つ。
そして――
右半分が醜く灼け爛れた自分の顔を目の当たりにして、ルティアは言葉を失ってしまう。
瞼が爛れているせいか、そもそも眼球そのものが灼かれてしまったのか。
包帯を解いたのに、右目は暗闇を映すばかりだった。
ルティアは、姿見の前でへたり込む。
顔の半分を灼かれた事実に、瞳の片割れが光を失った事実に、涙が溢れてくる。
涙すらも、左目からしか流れない事実を眼前の姿見に突きつけられた瞬間、
「いやぁああぁああぁあああぁあああぁあぁぁああぁっ!!」
絶望を吐き出すような悲鳴が、ルティアの喉を裂いた。
寮中に聞こえるほどの悲鳴が響いたことで、寮住まいの聖女候補たちが次々とルティアの部屋に入ってくる。
「ル、ルティアさんが目を覚ましたわ!」
「どどどうすれば?」
「わ、わたし寮母さんを呼んでくる!」
見たことのないルティアの取り乱しように加えて、無惨にも灼け爛れた彼女の半顔に誰も彼もが足を竦ませる中、寮母が部屋にやってくる。
「ああ! ルティアさん!」
母親が子供にそうするように、寮母は迷うことなくルティアを抱き締める。
その暖かさに、少しだけ安堵を覚えたルティアだったが、
「恐かったわよね! 悪漢に襲われて顔を灼かれてしまうなんて!」
涙ながらにかけてくれた寮母の言葉に、ルティアは思わず目を見開いてしまう。
「……え? こ、これはシレーヌさんが……」
「そう! シレーヌさんよ! あの子がお友達と一緒に、あなたが悪漢に襲われたことを報せに来てくれたの!」
耳を疑うような言葉に、ますますルティアの目が見開く。
シレーヌたちこそが自分の顔を灼いた張本人であることを、悪漢など存在すらしていないことを皆に伝えなければと、ルティアは口を開こうとするも、
「もう大丈夫だから! ここにはあなたを傷つける人なんていないから!」
寮母がさらに強く抱き締めてきたことで、彼女の肩がこちらの顎を下から押さえつけるような形になってしまい、強制的に口ごもらされてしまう。
寮母を振り解いてまで自己主張できるほど、ルティアの心は冷たくできておらず。
むしろ、こうも親身になって、我が事のように心配してくれる寮母に感謝すら覚えていた。
だからこそ、ルティアは気づけなかった。
寮母の頬が、よく見なければわからない程度にほくそ笑んでいることに。
寮母がすでにもう、シレーヌの父――モラン公爵の手に落ちていることに。
◇ ◇ ◇
シレーヌたちに顔を灼かれたことを寮の皆に伝えても、無用な混乱を生むだけ。
どのみち聖女の園から聞き取りを受けることになっているので、その場で伝えた方がいいと判断したルティアは、三日後、聖女の園へ赴き、園長たちに自分がシレーヌに受けた仕打ちについて伝えた。
だが――
「まさか本当に、シレーヌくんを陥れるためにこの件を利用してくるとは……」
そんな園長の言葉こそ「まさか」だったルティアは、思わず声を荒らげてしまう。
「待ってください園長! どうしてそんな話になるのですか!?」
「君に逆恨みをされる恐れがあるため名前は明かせないが、幾人かの聖女候補から、今回君が悪漢に襲われた件を利用して、シレーヌくんを陥れようとするかもしれないという密告を受けてな」
「だ、誰がそんなことを!?」
「名前は明かせないと言ったであろう。……ああ、一つ断っておくが、密告したのはシレーヌくんは勿論、リアラくんでもエスメルくんでもないから、そこは勘違いしてくれるなよ?」
しっかりとシレーヌの、というよりモラン公爵の根回しを受けていた園長がふてぶてしく言う中、聖女の園の教師の一人が手を挙げ、発言する。
「園長。それらの密告こそが、逆にルティアくんを陥れるためにやったという可能性も否定できないと思いますが」
「否定はできるさ。密告してくれた聖女候補たちがルティアくんを陥れる必要性など、彼女が顔を灼かれた時点でなくなってしまっているのだからな」
発言した教師は、余裕たっぷりの園長の返答に口ごもってしまう。
そのやり取りを見て得たくもない気づきを得てしまったルティアは、声音を震えさせながら園長に訊ねた。
「そ、それはつまり……わたしは、聖女の園を出ていかなければならないということですか?」
手を挙げた教師も含め、この場に同席した幾人かが痛ましげな表情を見せる中、園長は脂下がった笑みを浮かべながら答える。
「さすがは聖女候補筆頭。察しが良いな。聖女になるために必要な素養は、その肩書きにふさわしい気品と教養。優れた治癒術。そして、美貌だ。顔の半分が醜く灼け爛れた君には、聖女になることはおろか、その候補を続ける資格もないのだよ」
あまりの言い草に、同席者の一人が「園長!」と諫めるも、当の園長はどこ吹く風だった。
一方ルティアは、現実が受け入れられず、ただただ呆然とするばかりだった。
その様子を見て、ルティアに同情的な者たちがますます痛ましげな表情を見せるも、その者たちにとっては最も許容しがたい、されど現代の聖女には最も求められている素養――美しさを欠いたルティアが、聖女の園に留まることができない事実は覆しようがなかった。
そして――
顔の傷が寛解するのに合わせて、ルティアは聖女の園から追放されることとなった。
◇ ◇ ◇
聖女の園から追放され、寮にも居られなくなったルティアは、聖女の園の制服と比べたら格段に粗末なオーバーチュニックと、フードの付いた外套に身を包み、少ない手荷物を片手に当て所なく王都を歩いていた。
大規模火災における活躍もあってか、王都内にはルティアの顔を知っている者が大勢いる。
今は自分を知っている人間とは誰とも会いたくなかったルティアの足は、自然、郊外へと向かっていった。
寮を出る前夜、下宿している聖女候補たちがお別れパーティーを開いてくれたことは、嬉しかった反面つらくもあった。
皆が本当に別れを惜しんでくれていたことが心に染みた一方で、皆がこちらに対して必要以上に気を遣ってきたことが、目に見えない壁ができてしまったみたいでつらかった。
だから寮を出た際は、別れの挨拶もそこそこに、逃げるように去ってしまった。
その行為が、今さらながら皆に失礼だったのではないかと思い始めたルティアは自己嫌悪に陥ってしまい……郊外を行く足取りは、ただひたすらに重かった。
今は、何もする気が起きなかった。
これから先、どう生きていけばいいのか――そんな大事なことを考えることすらも億劫だった。
(いっそ、死んでしまった方が楽かもしれませんね……)
灼け爛れた痕を隠すために顔の右側に巻いた、余り物の布を継ぎ接ぎして拵えた顔帯に手をやりながら、そんなことを考える。
聖女の園を追放されたショックは当然大きいが、それに負けないくらい、顔の半分が灼け爛れたことに対するショックも大きかった。
慎ましやかに、平穏に生きていければそれでいいと思っているルティアにとって、人目を引く自分の美貌を煩わしく思ったこともあった。
そんな彼女でも、顔の半分が見るも無惨に灼け爛れた現実は堪えるどころの騒ぎではなかった。
右目が光を失った分、余計にショックは大きかった。
追放という処分を下した聖女の園に抗議する気力も、自分の顔を灼いたシレーヌたちを糾弾する気力も、失せてしまうほどに。
心だけではなく体も死に場所を求めているのか、ルティアの足はいよいよ人気のない森に踏み入っていく。
森の奥へ奥へと進んでいき、ふと丁度いい高さで伸びている巨木の枝が目に止まってしまう。
手荷物の中に、縄の代わりになる物が入っていたかもしれない。
あれくらいの太さの枝なら、自分の体重を支えてきってくれるかもしれない。
希望と呼ぶにはあまりにも痛ましい望みを抱いた、直後のことだった。
「ぁあああぁああぁああぁあぁああぁぁああぁッ!!」
顔を灼かれた時の自分を彷彿とさせるような、〝じみた〟を通り越して断末魔としか思えない男の絶叫が耳をつんざき、ルティアはビクリと震えながらも我に返った。
何が起きたのかはわからない。
けれど、あんな絶叫を聞かされては放っておけない。
他人のこととなると勝手に体が動くルティアは、つい今し方まで死ぬことを考えていたことすら忘れて、絶叫が聞こえた方角へと駆け出す。
そうして見えてきたのは、一軒家と呼ぶには大きく、館と呼ぶには小さい、石造りの建物だった。
どうしてこんな立派な建物が、人目を避けるようにして森の中に建てられているのだろうと思いながら、一言「失礼します!」と断りを入れてから、返事も待たずに中に入る。
絶叫はすでに聞こえなくなっており、絶叫を発した男は危険な状態に陥っている可能性が高い。そう判断したがゆえの行動だった。
玄関を抜けて、廊下に設けられた扉を片端から開けていき、人がいないかを確かめていく。
三つ目の扉を開くと、呪術の研究室と思しき部屋の床で倒れている、銀とも白ともつかない髪色をした二〇歳くらいの男が、青い顔で白目を剥き、痙攣している姿が目に飛び込んでくる。
床に転がっている木杯と、そこから垂れ落ち、水たまりをつくっている液体。
その青黒い色合いが、男の口の端から垂れ落ちている液体の色と合致していたので、液体こそが男を絶叫させたものの正体だとルティアは断じる。
問題は、その液体が毒なのか。
それとも、一目で呪術の研究室とわかるとおり、何かしらの呪いが仕込まれたものなのか。
迷っている時間はないと判断したルティアは、右手で解毒の治癒術を、左手で解呪の治癒術を発動する。
解毒と解呪を同時に行いつつ、摂取した液体によって傷つけられた男の体内を治癒する。
普通ならば、解毒、解呪、治癒と役割を分担し、三人がかりで術を施すところを、ルティアはたった一人でこなすことができる。
ルティアの治癒術の腕前は、何も治癒力の高さだけに限った話ではなかった。
男の血色はみるみる良くなっていき、痙攣も治まっていき……ほどなくして意識を取り戻す。
「これ……は……」
上体を起こし、自分の体が完璧に治癒されていることを理解した男の表情は、信じられないものを見るような目で、こちらを見つめてくる。
そして、
「なんで……なんで死なせてくれなかったッ!!」
まさかの言葉に、ルティアは思わず息を呑んでしまう。
今までならば、「目の前で死にそうになっている人を、放っておくわけにはいけません」だの「苦しんでいる人を助けるのは当然のことです」だのと答えていたところだが。
男の絶叫を聞くまでは自分も死ぬことを考えていた手前、ルティアは何も言い返すことができなかった。
「僕はもうこれ以上、人を傷つけることだけを目的にした呪具なんて作りたくなかった! なのに、この王国の連中は!」
男はルティアの胸ぐらを掴み、懇願するように叫ぶ。
「もう嫌なんだ! もう作りたくないんだ! だから……お願いだから……僕が死ぬのを止めないでくれ!」
あまりにも必死な男と目を合わせられなかったルティアは、顔を逸らしながら訥々と、答えになっていない答えを返す。
「ごめん……なさい……。でも……やっぱりわたし……苦しんでいる人を放っておくなんてできないから……その……ごめん、なさい……」
申し訳なさそうにしているルティアを見たせいか。
それとも、彼女の顔の半分が布帯で隠されているのを見たせいか。
多少なりとも冷静さを取り戻した男は、ルティアの胸ぐらから手を離し、
「普通は、そうだよな……。こちらこそ……ごめん……」
悄然と謝罪した。
しばし、重苦しい沈黙が二人の肩にのしかかる。
その重さと苦しさに耐えられなかったルティアは、相手がこちらのことを知らないことを祈りながら自己紹介する。
「あの……わたし……ルティアって言います。わけあって……その……治癒術が得意でして……」
こちらの名前を聞いても何の反応も示さない男を見て、どうやら自分のことは知らないようだとルティアが安堵する中、男も自己紹介を返した。
「……僕はアルトス。薄々気づいてるだろうけど……呪術師で……王国に命令されて、ここで呪具を作ってる」
呪術については多少なりとも知っていても、呪術師については無名高名関係なく知らなかったルティアは、アルトスという名前を聞いても何もピンとこなかった。
しかし――
この時、ルティアは気づいていなかった。
アルトスがこちらと同様、名前を教えても相手が何の反応も示さなかったことに安堵していたことに。
目の前にいるこの男こそが、自分の顔を灼いた液体を開発した、天才呪術師であることに。