第1話
聖女の園。
そこは、当代の聖女の引退に合わせて治癒術に長けた少女たちを集め、次代の聖女を選出する学び舎。
集められた少女たちは聖女になるために、聖女としての気品と教養、治癒術の真髄と、治療に応用できる魔術を学び、切磋琢磨していた。
とはいっても、それはあくまでも治癒術が使える人間が少なかった昔の話。
治癒術が体系化された現代において、大体の治癒術は多少努力すれば身につく程度の技術にすぎず、聖女という肩書きも、身分に関係なく大陸諸国の王族との婚約を結ぶことができる、玉の輿用の社会的地位に成り下がっていた。
そのため聖女の園には貴族の令嬢が大勢群がるようになり、聖女を娶ることを高い社会的地位と見なしていた大陸諸国の王族が、聖女の園の運営に一枚噛むようになったことで聖女の選出基準は一変。
代替わりをなくし、三年に一度、上っ面は気品に溢れ、それなりに治癒術に長けた、美しい少女(ここが最も重要)が聖女に選出されるようになってしまった。
こうして、選出基準はおろか聖女という肩書きさえも俗化の一途を辿っていたが。
今期は、そんな今までとは少しばかり違った様相を呈していた。
「見て、ルティアさんよ」
「こないだの活躍、本当に凄かったわね」
「知ってます? 今期の聖女が決定するまでまだ半年もあるのに、ルティアさんったら今の時点でもう聖女になることが確実視されていますのよ?」
学び舎と呼ぶには豪奢がすぎる聖女の園の廊下で、聖女候補たちの話し声がこだまする。
話の渦中にいるのは、淑やかに廊下を歩いている、腰に届くほどにまで長い黒髪が目を引く平民の少女――ルティア。
注目を浴びるのは苦手なのか、一六歳という年齢以上に大人びた美貌には、困ったような笑みが浮かんでいた。
ルティアが頭角を現したのは四ヶ月前。
聖女の園があるレアム王国の王都で起きた大規模火災に際して、治癒術士の人手が足りないからと、聖女の園は王国から要請を受けて、聖女候補たちを現場に派遣した。
聖女候補の多くが、嫌々ながらも、されどそんな内心は顔や態度には出さずに怪我人の治癒にあたる中、誰よりも真摯に事に臨み、誰よりも多くの怪我人を治癒したのがルティアだった。
煤で体が汚れることも厭わず、文字どおり力尽きるまで怪我人の治癒に務めたルティアの在りようは、まさしく聖女そのもの。
重度の火傷も瞬く間に癒す治癒術の腕前は、他の聖女候補とは一線を画すほどに図抜けており、実力においても聖女と呼ぶにふさわしいものだった。
おまけに、
「ル、ルティアさん! あの……大陸の歴史について少々教えてほしいところがあるのですが、お時間よろしいでしょうか?」
注目を浴びるルティアに、勇気を振り絞って話しかけてきた聖女候補に、
「ええ、もちろん」
ルティアは笑顔で、二つ返事で応えた。
自然、相手の顔にも笑顔の花が咲く。
治癒術の腕前のみならず、座学の成績もトップ。
それだけでは飽き足らず、ライバルであるはずの聖女候補からも慕われるほどに人望も厚いときている。
ゆえにルティアのことを、久方ぶりに現れた本物の聖女と呼ぶ声も少なくなく、聖女候補の多くが、諦めを通り越して憧憬の念をルティアに抱いていた。
だが、それはあくまでも〝多く〟の聖女候補の話であって、〝全て〟の聖女候補の話ではない。
聖女になることが確実視されているルティアに羨望や嫉妬、それらを通り越して憎悪を抱いている者も、少数ながらも存在していた。
モラン公爵家の長女シレーヌが、その一人だった。
「ルティア・ルース……!」
廊下の陰から、忌々しげにルティアを睨みつける。
シレーヌは今期集まった聖女候補の中で、あらゆる意味で二番手だった。
座学の成績、治癒術の腕前、金色の髪がよく似合う愛らしい美貌……その何もかもが他の聖女候補たちよりも秀でているのに、その何もかもがルティアに及ばなかった。
ルティアがいなければ、自分こそが聖女候補筆頭だった――その事実が、シレーヌの腸をどうしようもないほどに煮えくり返らせる。
ルティアがどこぞの名家の令嬢だったならば諦めもついたかもしれないが、あの女の身分は平民。貴族ですらない。
本来自分が得るはずだった栄誉を、卑賤の女が掠め取ろうとしている事実が屈辱で屈辱で仕方なかった。
――と、憎悪を募らせていたところで、はたと気づく。
(そうですわ。あの女は平民。それに噂では、孤児で身寄りがなかったはず……)
つまりは、何の後ろ盾もない。
逆に自分は、王国の防諜――敵国の間者の諜報活動を防ぐこと――を司るモラン公爵家という大きな後ろ盾がある。
ならば、多少強引な手を使っても、いくらでも揉み消すことができるはずだ。
そうとわかれば善は急げだ。
シレーヌは踵を返すと、ルティアをできるかぎり惨めに蹴落とすための算段を巡らせながら、その場から立ち去っていった。
◇ ◇ ◇
数日後。
聖女の園で行われた座学と治癒術の授業を終えたルティアは、寮を目指して一人帰途についていた。
ルティアを含めた平民の聖女候補の多くが、聖女の園が用意した寮で生活している。
試験を乗り越えさえすれば、衣食住が揃った寮に無料で三年間生活できる上に、元聖女候補という肩書きがあれば、貴族の男子に見初められることも少なくない。
何かしらの職に就いて独り立ちする上でも、聖女の園で学んだ治癒術と教養は大いに役に立つので、貴族の令嬢たちとは別の意味で、聖女の園に入りたがる平民の少女は多かった。
ルティアも、独りでも生きていけるよう治癒術と教養を身につけるために聖女の園に入った手合いだが、
(今の状況、なんとかならないものでしょうか……)
つい、憂鬱なため息をこぼしてしまう。
治癒術と教養が学べる聖女の園での毎日は、とても充実している。
けれど、自分のことを大層な人間だとは思っていないルティアにとって、聖女になることを確実視され、持ち上げられている現状は少々以上に居心地が悪かった。
(そもそも、わたしなんかが聖女なんて……)
恐れ多い――そう思わずにはいられない。
慎ましやかに、平穏に生きていければそれでいい。
その上で、何かしらの形で人々の助けになれればそれでいい。
それ以上のことは何も望まない、取るに足りない人間――それが自分だ。
そんな人間が聖女になるなんて、必死にその座を目指している他の聖女候補たちに失礼だし、そもそも務まるとも思っていない。
だからこそ、心の底から思う。
「本当に、なんとかならないものでしょうか……」
いよいよ言葉に出して嘆息していると、
「ルティアさん! ちょうどいいところに!」
横合いから逼迫した声が聞こえてきて、ルティアは思わず振り返る。
視線の先には、路地から身を乗り出し、声音と同様逼迫した顔をしている、ルティアと同じ聖女の園の制服に身を包んだ金髪の少女の姿があった。
自分と同じ聖女候補の顔と名前を全て記憶していたルティアは、驚いた声を上げながらも金髪の少女に駆け寄る。
「シレーヌさん!? どうしてこんなところに!?」
「今はそんなことはどうでもいいですわ! それより早くこちらに! リアラさんとエスメルさんが大変なことになっていますの!」
今シレーヌの口から出てきた二人の名は、やはりというべきか、聖女候補のものだった。
いったい何が起きているのかはわからないが、見過ごすわけにはいかないと思ったルティアは二つ返事をかえし、路地の奥へ向かうシレーヌについて行った。
ほどなくして、少し開けた場所に辿り着く。
そこで倒れている、聖女の園の制服を着た二人の少女を認めた瞬間、ルティアは一も二もなく彼女たちのもとへ駆け寄った。
「大丈夫ですか!? リアラさん! エスメルさん!」
やはり二人の顔と名前を記憶していたルティアが、焦燥を吐き出すような声を上げた直後、
「きゃっ!?」
リアラとエスメルが突然起き上がり、二人がかりでこちらを仰向けに組み敷いてくる。
何が起きたのかわからず目を白黒させるルティアを、シレーヌは蔑むような目で見下ろした。
「ごめんなさいねぇ、ルティアさん。大変なことになるのはリアラさんとエスメルさんじゃなくて、あなたの方なの」
今の発言に加えて、いつの間にか自分たちの周囲に魔術の結界――おそらくは周囲に音が漏れないようにするものだろう――が張り巡らされていることに気づいたルティアは、顔から血の気が引くのを感じながらもシレーヌに訊ねる。
「大変なことって……わ、わたしに何をするつもりですか!?」
「さあ? 何をするつもりかしらねぇ」
シレーヌは口の端を釣り上げながら、懐から小瓶を取り出す。
小瓶の中に何が入っているのかはわからない。
けれど、言いようのない恐怖を覚えたルティアはリアラとエスメルの拘束をなんとか振り払おうとするも、二対一では如何ともしがたく、より強く地面に抑えつけられるだけの結果に終わってしまう。
ルティアの抵抗を嘲笑ってから、シレーヌは小瓶の栓を開き、中に入っていた液体をルティアの美貌に浴びせかける。
ルティアが液体から逃れようと何とか首を傾けるも無駄な抵抗にしかならず、顔の右半分に、液体を浴びせかけられてしまう。
次の瞬間――
「あぁあぁああぁああぁあぁあぁっ!!」
半顔を襲った、火を直接押しつけられるような激甚な痛みに、ルティアは断末魔じみた悲鳴を上げた。
誤って液体を浴びないようにするためか、リアラとエスメルはすでにもうルティアから離れており、拘束を解かれたルティアは顔を掌で押さえながら悶絶する。
半顔と、そこに触れた掌が灼かれるような激痛を訴える中、かろうじて保たれた正気が治癒術の行使を選択する。
だが、
(ち、治癒術が効かない!? なんで!?)
治癒術の暖かな光に包まれてなお顔と掌は灼け爛れる一方で、痛みに関しても和らぐ気配すらない。
いよいよ混乱の渦に呑み込まれたルティアは、激痛に耐えながらも、効きもしない治癒術を己にかけ続ける。
その様子を愉快げに眺めていたシレーヌは、高笑いを上げながら、もがき苦しむルティアを放置してその場から立ち去っていった。