元婚約者への最後のあいさつ
薄茶色の髪に、黄瑪瑙の瞳。
シャルル・ローゼンクランツ。
私の婚約者だった人。
父とローゼンクランツ伯爵の間で婚約破棄の書類は交わされ、すでに婚約は破棄されている。けれど、6年も婚約していたのだから、最後の挨拶にくるのは礼儀だろう。
シャルルが私のティーカップに紅茶を入れてくれる。
シャルルの父と私の父が、二人で取り決めた婚約だった。恋い焦がれたことなどない。だけど、穏やかで争い事が嫌いなシャルルとなら、良い夫婦になれると思っていた。
(とにかく謝らないとね)
口を開こうとしたその時、大きな音を立てながらドアが開く。
「エリーザ!?」
入ってきたのは、私の親友エリーザだった。
挨拶もしないまま、長椅子に座るシャルルの隣に、当たり前のように腰を下ろすエリーザ。何故だろう。私の隣も空いているのに。
(………? まあ、いいわ。とにかくシャルルに謝らないと)
「シャルル。こんなことになってしまってごめんなさい」
「いいんだ、ヴィオレット。こちらの方こそ今までありがとう」
その時、エリーザが、自分の腕をシャルルの腕に絡ませた。
「はっ?」
困惑した自分の声が、他人の声のように耳に届く。
「悪いわね、ヴィオレット。こういうことなの」
そう言って、シャルルの肩に、自分の頭をちょこんと乗せるエリーザ。
(こういうことって、どういうことよ!)
私とシャルルの婚約は、つい2週間前に破棄されたばかりだ。それなのに、この二人はもう付き合い始めたというのか。
「あっ…!」
ここ数ヶ月の記憶を手繰り寄せる。思い返してみれば、この数ヶ月、シャルルはまともに私の顔を見ようとしなかった。以前なら、月に一度の茶会の他に、街へ買い物に行ったりピクニックに行ったりしていたのに、この数ヶ月はそんなお誘いもなかった。何故かと尋ねると、最近忙しいんだとだけ言って目を逸らしたシャルル。あの頃から、この二人はすでに良い仲になっていたのだろう。
シャルルは気まずそうに顔を伏せている。そして、勝ち誇った顔をしたエリーザ。
(親友だと思っていたのに……)
考えてみたら、エリーザは最初からこんな子だった。
エリーザと出会った時、私には仲の良い友人が二人いた。エリーザは、そんな私達の間に無遠慮に割って入ってきたのだ。最初はみんなで遊んでいたけれど、思ったことをすぐ口にし、自分の話ばかりするエリーザを他の子達は避けるようになった。私までそうすればエリーザは一人ぼっちになってしまう。そう思いエリーザと一緒にいると、私まで避けられるようになった。おかげで、私が友達と呼べるのはエリーザ一人だけになってしまったのだ。
だけどそれでいいと思ってた。たった一人でも親友と呼べる子がいるんだからと。
(こんな子を親友と思っていたなんて、前世を思い出す前の私って本当に頭の中がお花畑だったのね)
前世を思い出す前の私だったら、きっとこの場で泣いていただろう。泣いて、取り乱して、シャルルとエリーザを責めていた。
きっと、エリーザはそうさせたかったのだ。
シャルルの目に最後に映る私が、惨めで憐れなヴィオレット・グランベールであればいいと。
(だけど、あなたの思い通りになんてさせないわ)
「二人がそんな関係だったなんて、全然気づかなかったわ。おめでとう。祝福するわ」
そう言って、にっこり笑ってみせる。シャルルはますます気まずそうに首をもたげ、エリーザは悔しそうに顔を歪めた。
(これは、さっさと退散した方がよさそうね)
「そろそろ失礼するわ」
そう言って立ち上がろうとするのを、シャルルが引き止める。
「待って、ヴィオレット」
それから、おもむろに木箱を取り出したシャルルは、それをテーブルに載せた。
「これを持っていってほしい」
シャルルが木箱の蓋を開けると、中には銀貨が無造作に詰められていた。ざっと1000シルバーはある。
「シャルル……。本当にいいの?」
「ああ。ヴィオレット、これは君のものだ」
エリーザの前で受け取るのは癪だけど、一文無しの私にとってこれほどありがたいものはない。
木箱を受け取り、ドアの前に立つ。渾身のカーテシーをして部屋を出た。
馬車に向かっていると、エリーザが追いかけてくる。
「惨めねヴィオレット。みすぼらしい服着ちゃって。爵位が下がった上に、婚約者の浮気を突きつけられるなんてね。あっ、元婚約者ね。その上その元婚約者にお金を恵んでもらうなんて……。私だったら恥ずかしくて泣いちゃうわ」
エリーザは、いつも何かに怒っていて、眉間にシワを寄せながら文句ばかり言っている子だった。こんなに嬉しそうに笑う顔を今初めて見たくらいだ。
「これでわかったでしょう? 私とシャルルは愛し合ってるの。私達の前に二度と現れないでよね!」
「わかったわ、エリーザ。だけど本当にいいの?」
「何が本当にいいのよ! 強がってるんじゃないわよ!」
「そうじゃなくて……」
(まあ、エリーザがいいならいいか。もう親友じゃないんだし、教えてあげる義理なんてないわよね)
「もう行くわ。さようなら、エリーザ」
まだ何か言いたげなエリーザを無視して、足早にその場を去る。
(絶対に振り向かない。あなたがどうなろうと、私には関係ないわ)
次の朝、私達は王都を立つ。グランベール家の馬車はもうない。平民用の馬車を安く借り、臨時の御者を雇う。
実は、兄のエドワードが王宮の仕事に就くことが決まった。グランベール家が、借金の後始末を最後まで責任を持って行ったことを評価してくれた人がいて、声をかけてくれたのだ。
「ありがとう、ヴィオレット。あの時夜逃げしていたら、王宮の仕事に就くことなんて叶わなかったよ」
「お兄さま、本当に良かった」
「最初は寮暮らしだけど、頑張って働いて、みんなで暮らせる屋敷を建てるからね。それまで、どうか父さんと、ローゼマリーを……うっ……!」
「うぅ……エドワード!」
父と兄は、抱き合って泣いている。似た者親子だ。
(ところで、何か大事なことを忘れているような……)
その時、
「お姉様、あのおんぼろ馬車で行くのですか?」
ローゼマリーが、私のワンピースの袖を引っ張った。
「あっ!」
(しまった! 借金を返すことで頭がいっぱいで、すっかり忘れていたわ!)
ローゼマリーが修道院に入って、王の隠し子ジュリアンと出会わなければ、この世界が存在する為の物語が始まらない。
「お父様!」
「どうしたヴィオレット、青い顔をして」
「お父様、オリバー村にローゼマリーは連れて行かれません。見捨てられた土地と言われている、あのオリバー村ですよ。お父様や私はいいのです。だけど、成長期のあの子にひもじい思いなんてさせられません。お父様もそう思いますよね?」
「しかし、今日の今日で一体どうするというのだ」
「オリバー村に行く途中にアントワーヌという村があります。その村の修道院に預けましょう」
「エドワードと離れる上に、ローゼマリーとも離れ離れになるのか」
「大丈夫です。オリバー村が飢える心配のない安全な村だとわかったら、すぐに迎えに行きましょう。それまでは修道院にいた方があの子のためです」
「まあ、お前がそこまでいうのなら……」
(ふぅ、何とか言い含められたわね)
アントワーヌ村にある修道院は、王の隠し子ジュリアンが暮らしている修道院だ。これでローゼマリーとジュリアンは出会うことができる。
グランベール邸は明日には人手に渡る。きっと、二度と訪れることはないだろう。
最後まで残ってくれた、数人の使用人が見送ってくれる。
「ご主人様、お嬢様方、どうかお元気で」
「このお屋敷で過した日々は忘れません。ありがとうございました」
「それから、これを持っていってください」
使用人が差し出した包みに入っていたのは、前世で暮らしていた日本で、誰もが大好きなアレだった。
「これっておにぎりよね? なんであなた達がおにぎりを……」
「まあ、いいじゃないですか。お姉さま」
「ヴィオレット、ローゼマリー、早く馬車に乗りなさい。出発するぞ」
「……わかったわ。みんなありがとう。お元気で!」
こうして、私達はオリバー村を目指して旅立った。