新しい生活
スカルスゲルト邸。貴族の屋敷ほど大きくはないけれど、二人で住むには十分すぎる広さの、無駄な装飾のないシンプルな邸宅。
使用人の姿は見えない。とても静かだ。
「俺は平民だからな、厨房にコックと給仕はいるが、身の回りの世話をする使用人はいない。必要なら自分で雇え」
「私も使用人はいりません。オリバー村では、身の回りのことは自分でしていましたから」
「伯爵家の令嬢だった人間が、よく平気でいられたな」
普通の令嬢なら無理だったろう。だけど、私には前世で、日本人として暮らしていた記憶がある。
「掃除をする者は、週に三度、決まった曜日に来る。それ以外に人の出入りはない」
「わかりました。ところで……」
「何だ?」
「私は、何処で寝ればいいのでしょう?」
アメジストの瞳が、私を睨む。
「言っておくが、寝室は別々だからな!」
(当たり前じゃない! 私達、契約結婚なのよ!)
案内された部屋の、整えられたベッドに腰を下ろす。白いアンティークのチェストと本棚。元々部屋にあったものなのか、それとも、私の為に用意してくれたものなのか。
(まさか、それはないわね。これは、期間限定の契約結婚なんだから)
それから、ベッドに横になる。そして思う。
(どうして、こんなことになったんだっけ?)
遡ること1ヶ月前。
スカルスゲルト商会を訪ねた私は、テオに言った。
「結婚してください!」
「はぁ!? 何を言っているんだ、お前は!」
その時、テオの無表情が崩れるのを、私は初めて見たのだった。
「私、すぐに結婚しなくてはならないんです」
「落ち着いてください、ヴィオレット様。何があったんです?」
カルロが言う。
「私、王子殿下との結婚を打診されてしまったんですよ!」
私は、事の次第を話した。もちろん、『春風の恋人達』を読んで知っている未来のことは省いて。
「それは不味いですね。あの男は、無能のくせに自尊心だけは恐ろしく高いのです。結婚の話を聞き、わざわざヴィオレット様の元に出向いたにも拘らず、正当な理由なく断られたら、物凄く怒るでしょうね。怒ったら、何をするかわかりませんよ」
(ローゼマリーと全く同じ事言ってるわね)
「そうなのです。だから私は、王家から正式に王子との結婚を打診される前に、結婚しなくてはならないのです。そして、その相手はテオ様しかいません」
「何で……俺なんだ?」
「私の周りで、独身で、恋人がいなくて、私と以前から親交があって、王家が納得しそうな身分の男性はテオ様しかいないのです」
テオは、溜め息を付きながら、左手で顔を覆った。
(ん? 罵声を浴びせられるかと思ってたけど、もしかしていける? もう一押し? それなら……)
「契約結婚でもいいんです」
「契約…結婚?」
「3年……せめて1年だけでもいいんです。期限が過ぎたら、きれいサッパリ離婚します。期間限定の、契約結婚ならどうですか?」
テオは、さっきより大きな溜め息をついて、髪をぐしゃぐしゃにかき上げた。
「お前と結婚して、俺に何の得があるというんだ」
私の武器。それは、前世の記憶があるということ。
「私、商売で必ず役に立ちます!」
カルロが、何故だかにやにやしながら言った。
「いいじゃないですか。ヴィオレット様は、スカルスゲルド商会にとって喉から手が出るほど欲しい人材ですし、結婚すれば、女性からのしつこい手紙や贈り物攻撃や付き纏いに悩まされることはなくなりますよ。煩わしくて仕方がないと、常々言っていたではないですか。それに、商売をする上では既婚者の方が得だと、身に沁みてわかっているでしょう? 既婚者というだけで、信用度が格段に上がりますからね」
「そうは言っても、急に結婚など……。そもそも、王子と結婚すれば、未来の王妃だぞ。貴族令嬢にとって、最高の相手ではないのか」
「未来の王妃だろうと何だろうと、あんな男と結婚するのだけは嫌なんです」
「ヴィオレット様、もしかして、何かされたのですか?」
「されたわけではないですが、言われました」
「何と…言われたのですか?」
「顔はそこそこ美人だし、なかなかいい体をしていると」
その時、テオが勢いよく立ち上がった。
「テオ様?」
「会長?」
「………する」
「えっ?」
「はい?」
「結婚するぞ!」
1ヶ月後、婚姻届を提出し、私は今ここにいる。
(こんなにトントン拍子に進むなんて、むしろ怖いくらいだわ)
私達の結婚は、新聞の一面に載った。
『没落令嬢ヴィオレット・グランベール。急成長を遂げるスカルスゲルド商会会長、テオ・スカルスゲルドと結婚』
事業で知り合い、力を合わせてラベンダー石鹸を普及させながら、愛を育んでいったカップル。
文句のつけようのない、完璧な愛のストーリーだ。
その後、王家から正式な結婚の打診はなく、私はイグナシオ王子の怒りを買わずに済んだ。
(そういえば……。契約結婚の契約について、ちゃんと話し合えていないのよね。落ち着いたら、話し合わないとね)
次の朝、昨日伝えられていた時間に、食堂へ行く。
昨夜、テオが屋敷を一通り案内してくれたので、食堂の場所はわかる。シンプルな間取りなので、迷うことはない。
食堂に入ると、テオが先に席に着いていた。
「おはようございます」
「ああ」
テオは、ゆっくりした動作で、シャツの袖のボタンを留めて、ネクタイを締める。
(それにしても……。朝の身支度をするイケメンって、何でこんなに絵になるのかしら)
朝食が運ばれて来る。パンにチーズ。オムレツにベーコンが載ったサラダ。どれも美味しい。
テオが言う。
「今日の昼、商会へ来い」
「わかりました。仕事の話でしょうか?」
「来ればわかる」
正午、商会へ行く。スカルスゲルド邸から商会までは、徒歩で10分もかからない。
案内されたのは、いつもの応接室ではなく、テオの執務室だった。カルロの姿もある。
「ヴィオレット様は、もうお客様ではありませんから、今後はこの執務室に来て頂くことになります」
「わかりました」
長椅子に腰を下ろすなり、テオが言った。
「商売で役に立つと言ったな」
「はい。言いました」
「これを見ろ」
テオが書類を差し出す。
「シャーリー宝石店?」
「スカルスゲルド商会が、二年前に立ち上げた、平民向けの宝石店だ」
「平民向け…ですか」
「平民に、宝石店など無用だと思うか?」
「いえ。貴族だからといって、皆が裕福なわけではありません。我が家のように没落したり、貴族とは名ばかりの、貧乏暮らしをしている家門も一つや二つではないでしょう。反対に、商売や投資で成功し、貴族より贅沢な暮らしをしている平民もいますし、王宮やそれに準ずる機関に仕官し、高給を得ている者も、年々多くなっていると聞いています。平民にも、宝石店の需要はあるでしょう」
「お前の言う通り、貴族より羽振りの良い平民が増えてきている。しかし、貴族向けの宝石店は、平民が店に入ることすら嫌がる。平民が出入りするような店では買い物したくない。それが貴族の考えだからだ。そこで我が商会は、平民向けの宝石店を開店させた。しかし、どうにも売り上げが芳しくない」
「それは、開店してからずっとということでしょうか?」
カルロが、説明を代わる。
「開店当初は、羽振りの良い客がやって来て、宝石を買い漁って行きました。しかし、それが落ち着くと、売り上げは右肩下がりになっていき、今は赤字が続いております。特別な記念日に、大切な人に贈る贈り物。普段は宝石に縁がなくても、そんな日には、宝石を贈りたいと思っている者も多くいるでしょう。我々も、そこにこそ需要があると思っていました。しかし、現状は、我々の思うようにはいっておりません」
「グランベール家は、宝石店を経営していたな。お前の得意分野だろう。さあ、役に立ってもらおうか」
そうは言っても、当時頭がお花畑だった私は、グランベール家が経営していたビクトワール宝石店に、何一つ関わってなどいない。
(だけど……。約束は約束よ。役に立つと言って契約結婚して貰ったんだから、役に立たないとね)
「わかりました。私、シャーリー宝石店の現状を変えてみせます」