羊雲がみえる季節に・水族館で・まばゆい光を・くるくると回していました。
魚を操れるとD男くんは言った。イニシャルで呼び合うクラスの方針で、珍しい名前だからD男くんはDくんではなくD男くんとみんなが呼んだ。私もその慣例にならって、D男くんと呼んだ。D男くんは不思議な男の子だった。
ある日、校外学習でみんなで水族館に行ったときのことである。D男くんと班が一緒だったミナミ、Mちゃんと呼ばれていた私は、MさんMさん、とD男くんが手招きしてくるので呼ばれて周りで興奮してきゃっきゃと笑っている班のみんなを押しのけて、水槽の前にD男くんの横に並んだ。まだ班のみんなはきゃっきゃと笑っているので、たまに動いてリュックに押しのけられて水槽に押しつけられるが、痛いと思うよりも圧迫感で何も言えなかった。気付かれないようにゆっくりと押し返して、D男くんを見ると、指をちょいちょいと動かして、水槽の向こうを指さしているようだった。
「見て見て」
「なあに?」
Mは可愛らしいと思える自分の精一杯の言い方で尋ねる。D男を異性として意識しているわけではない。小学五年生である。十一歳であればそろそろ異性を意識する同級生もいるし、小学二年生くらいから異性への興味を持っていた友達もいた。だがMはまだそこまで誰か好きな人を決めていたわけでもない。ただ、大好きなアニメで推しが少しだけ可愛らしい話し方をしていたから、その真似をしてみたかっただけだ。だがD男は特に気にしないらしく、まだ指をぐるぐる回している。
「これ、見て」
「だからなに?」
もう一度押し出されてしまって、今度は余裕がなくてつい押し返してしまった。だが話が盛り上がっているためか、押し出した相手の男子は気にしていないらしい。ほっとしてD男を見ると、指の奥の水槽に魚が集まっている。名前は分からないが、それは細長い小魚だ。水槽の周りに魚の解説しているパネルがあると思い出したが、今は同級生が押し合いへし合いをしていてまったく見ることが出来ない。
「魚が集まってるね」
MはD男がのんびりしていて、押されても気にしないことにちょっとだけ苛々としたが、D男は相変わらず指を動かしている。魚が二匹集まり、指に群がろうとしているように見える。だがそれだけである。餌と勘違いしているのだろうと思ったがD男はまだ指をくるくると回している。Mはそろそろ辞めて、班に戻ろうと思っていた。実はこうしている間に、同じ班の子はぞろぞろと移動して、次の班の子達が後ろを通っている。悪目立ちしているのが気になって、Mは苛々を隠せなかった。だがD男の指はまだ回っている。Mがもう一度その指先に目をやると、今度は四匹に増えていた。そのうち五匹、六匹、とどんどん数え切れないほどになっていく。何故かD男くんのところに、魚の群が集まっている様子にMは驚愕した。これは、ただ餌を待っている群れというだけではない。なんだか余計に集まって来て、もはやD男くんが操っているように見える。
D男に怖くなって話しかけるも、Mの声は彼に届かないようでぐるぐると回すばかりだ。そのうち大きな水槽の中にある群が彼の指先一本に集うようになると、他のお客さんの歓声も聞こえてくる。Mは慌ててD男を揺さぶった。
「ねえ、ねえD男くん」
「見てよ、おれね、魚操れるんだよ」
「でも、でもさ、みんな行っちゃったよ。みんな先に行っちゃったから置いてかれちゃうよ」
D男はそれでも得意げで、Mの言葉に耳を貸していないようだ。
「すごいでしょ」
「すごい、すごいからもう行こ」
注目を集めてしまって、Mは恥ずかしさでいっぱいだった。それといつの間にか誰も知っている顔がいないのも、Mの恐怖を駆り立てる。D男は決して頼りがいのある同級生ではない。どちらかというと真っ先に怖がって後ろに隠れるような男の子だ。だからこそMの恐怖は一瞬で膨らんで破裂しそうになっていた。D男は満足したが、Mの必死の形相にようやく気付いたらしく、何を思ったかもう一度指を立てて掲げて見せた。
「何やってるの?」
Mが泣きそうな声で尋ねると、D男は集まった群に指先を見せつけると、ぶんと大きく腕ごと振った。途端、指先の延長線上に向かって群が一気に泳ぎ出す。小魚の腹や背が、照明に光ってきらきらとしながら駆け抜けていく様子を見て、Mは呆気にとられていた。
「すごいでしょ」
「すごい・・・」
Mの心からの感嘆に、D男はようやく満足したようだった。だがMの恐怖は和らぐことなくその場にうずくまる。そこに、引率の先生が迎えに来てようやくMとD男は班の仲間と合流できたのだった。
「何してたんだよ」
「二人っきりとかやっべぇな」
遠目からひそひそとした声が聞こえて、Mは恥ずかしさで顔から火がが出そうだった。D男はMの好きなタイプでは決してない。断じてそんなバカなことをする人間は好きにならないと彼女は幼心に固く誓って、思春期を男性と関わることを拒んだと思う。そうしているうちの結婚適齢期になって、缶ビールを片手にアルバムを見ながら小学校時代からの幼なじみとズーム飲み会をしているうちに、Mは思い出した。
「どした、みなみ?」
「ううん。思い出しちゃっただけ」
D男は思い返せば不思議な男の子だった。あれから交流はないものの、今でも彼との水族館の出来事は、頭の中にこびりついている。