第八十九話 リンと総統閣下
私の名前は、リン・フォレクロード。
ロンデリア王国北部に領地を持つフォレクロード公爵家の娘だ。
私は、生まれてこのかた不自由のない生活を送ってきた。
自慢ではないが、私の家は公爵家。先祖をたどれば王族にたどり着くというほどの良家で、ロンデリア王国でも高い地位にある貴族だ。
金にも困ったことは無いし、やりたいことはなんだってできた。
将来に不安もなかった。
家を継ぐのは兄の仕事、私自身は将来政略結婚でどこかに嫁ぐだけだろう。そして、私はこれでも良家の令嬢だ。
下級貴族の令嬢のように、必死に婚活に励まなくとも良い縁談などいくらでも入ってくる。
すでに私の人生には一本の整備された道が引かれており、それをただただまっすぐ歩くだけ。
人生とはこれほどまでに簡単なものなのか……そんな、気持ちさえ抱いていた。
あまりに退屈で、困難を求めて騎士の真似事をして盗賊を打ち倒したり、冒険者の真似事をして魔獣を倒したりしていたくらいだ。
そんな私だが、今、まさに真の意味での困難に直面している。
騎士ごっこの遊びなどではない。
国家の将来を決めるような重大な任務に就いたのだ。
「いいですか、リン。いよいよ時間です。これが、どれほど重要な任務か、あなたも理解していると思います」
「はい、分かっています女王陛下。私は、貴族としての責務を果たすつもりです」
近年、大和帝国と言う国からもたらされた蒸気機関車という乗り物。
煙を吐き出しながら進むその奇妙な乗り物が牽く客車に、女王陛下と共に乗車する私。
コンパートメント式の客車の廊下に立ち、扉の前に待機する。この扉の向こうには、大和帝国総統エリュテイア閣下がおられるはずだ。
大和帝国――その国を知らない者は今のロンデリア王国にはいない。
ある日突然、巨大な鋼鉄の船に乗りやってきた海の向こうにある超大国。
優れた技術を持ち、その戦闘能力は人間国家随一。魔法を使いこなすエルフを圧倒するほどで、今や、大和を味方につけたものが世界を制すると呼ばれるほどだ。
経済力だって怪物級だ。
国内の経済にも大和円という形で進入してきており、主要産業のあらゆるところに大和資本は侵入してきている。
国内は安くて高品質の大和製品で溢れてしまっているほどなのだ。
もはや、大和の機嫌を損ねれば、国家が滅ぶ、そう言うほどの存在だ。
そして……。
「いいですか、この扉を開ければエリュテイア閣下と対面です。初対面時の印象が、どれほど重要か、理解していないあなたではないでしょう?」
「はい女王陛下、良く理解しているつもりです」
「よろしい、ならば撃墜しなさい。エリュテイア閣下を」
撃墜。
そう私に与えられた任務は、エリュテイア閣下と友好関係を築くこと。
噂に名高き『太ももの総統閣下』。彼女と同じ学校に通い、誑かし、我がロンデリア王国に優位な判断をさせること、それが私に与えられた任務。
ゴクリと、唾を飲み込む。
これほど、重要な任務があるだろうか?
エリュテイア総統が学校に通いたいと言ってから、ヘレルフォレード貴族学校に入学することが決定するまでわが国が一体どれほどの代償を払ったのか、それを知らない私ではない。
我が国は彼らが求めるものはすべて与えた。
総統護衛のための軍の駐留権、飛行場設置のための土地、鉄道敷設を始め、各種インフラ設置のための資金……。
莫大な費用を掛け、我が国はエリュテイア総統を誘致することに成功した。
この作戦、失敗させるわけにはいかない。
成功すれば、国家の行く末を明るく染め、失敗すれば単なる膨大な出費だ。まさに、人生を賭けるに値する任務。
何故この任務に私が選ばれたのかは知っている。
王国諜報機関が調査したところ、私が上級貴族の中で最もエリュテイア総統好みの容姿をしているからだ。曰く、エリュテイア総統の好みは「黙っていればクールそうだが、内心はむっつりスケベそうな感じ」とのこと。
もちろん、クールそうで、むっつりスケベだけではない。
一国でも最高峰の美少女である、と言うのも条件に入っている。
エリュテイア総統と常に一緒にいるメイドの容姿がそんな感じだそうだ。
……むっつりスケベ。いろいろ言いたいことはあるが、まあいいだろう。
女王陛下のノックと共に、コンパートメントの中から声が響く。
いよいよ任務開始だ。
「っと、ノックの音ですわ。入っていいですわよ」
ノックに反応する声、この声は……聞き覚えがある、エリュテイア総統のものではない。
女王陛下は、扉を開けて中を確認すると数秒硬直し、一言、二言話すとすぐに扉を閉める。
扉が開いていたのは、本当に短い時間だけだ。おかげで中の様子を確認できなかった。
「陛下、部屋を間違えたのですか?」
「いえ、間違えてなどいません。ただ、シャールがいました。あの子、エリュテイア総統のフレート誘致に失敗したから、自ら乗り込んできたようですね。三十手前で、あの服装はきついわ……」
力なく、首を振る女王陛下。
シャール――その名は知っているフレートの女王だ。幼い頃から何度か会っている。向こうは女王自ら乗り込んで、総統閣下の篭絡を狙っているということか……。
これは大変なことになりそうだ。
ちょっと一呼吸。
心を落ち着かせ、再度扉を開く。そして……。
「エリュテイア総統、こちらは私の親類のリン・フォレクロードです。今年、ヘレルフォレードに入学する閣下と同級生、クラスメイトになります」
「紹介に預かった、リン・フォレクロードです。エリュテイア総統、ぜひよろしくお願いいたします」
入室し、頭を下げて一礼。
顔を上げると……そこには天使がいた。
美しい少女だ。
窓から際込む太陽の光で銀の髪がキラキラと光って、白い太ももは何らかの魔力を帯びているのか、私の視線を釘付けにする。
その魔力を振りきり、彼女の小ぶりな顔に目を合わせると、清楚で、可憐で……。
そんな彼女の顔を見つめていると、「ボクの顔に何かついていますか?」とでも言いたげに、ちょっと不安そうにこちらを見つめ返してくる。
彼女のそんな表情を私の脳裏に浮かんだ言葉は「母性本能」。
体格は小柄、同年代の女性の中では背が高い方の私と比べれば言うまでも無く、普通の身長よりか少なくとも5センチは低いだろう。
だが、それがたまらなく良い。
か弱く、守ってあげなくてはならない、母性本能を刺激される。
私も貴族として、それなりの美しさを持っている自信があったが彼女には勝てる気がしない。
エリュテイア総統の隣に座る黒髪の少女……おそらく、これが噂に聞く『アヤメ』と言うメイドだろう。
彼女が何か、エリュテイア総統に言っているが、それどころではない。
私は、まるで熱に浮かされたように彼女を見つめるだけだ。
「では、あとは若い皆様で……」
女王陛下はそう言うと、入り口に突っ立っている私を置いてコンパートメントを後にしてしまった。
……そうだ、任務だ。私には任務がある。遂行しなくてはならない重要な任務が。
こんなところで、ぼうっと立っているわけにはいかない。しかし、どうすれば……。
「えっと、リンさん。で、いいんですよね?」
暫し、どうすればいいのかわからずに立っている私に、おずおずとエリュテイア総統は問いかけてくれた。
優しいお方だ。私に会話の機会を与えてくださったのだ。
「はっ、その通りです」
エリュテイア総統の前で、跪き、騎士の一礼を……はっ、しまった。
狭いコンパートメント。席に座るエリュテイア総統、その前に跪く私。
そう、私の目の前にはエリュテイア総統の太ももがある。
駄目だ。目が離せない、意識が吸い寄せられる。この魔力には逆らえない。
体の力が抜けて……私は倒れる。その先にあるのは――太もも。
「ふえっ! ちょっ、大丈夫ですか?」
慌てるエリュテイア総統の声。
それはそうだろう、いきなり太ももに顔をうずめられたらびっくりもするだろう。
しかし、なんと柔らかい太ももだろうか? それでいて、すべすべだ。匂いもたまらない。甘くて、どこか落ち着くいい香りだ。
ここから離れたくない……。
「ちょっ、おまっ! 私のエリュさんに何をするんですかッ!」
激昂する少女の声が聞こえる。
直後、私の首根っこを何かが掴む。そして引き剥がされる。
そして、シャール女王の隣の席にゴミを投げ捨てるようにポイッと捨てられる。
「エリュさん、大丈夫ですか! ああ、太ももに血がッ! もしかして怪我を?」
「ううん、ボクの血じゃないよ。って、リンさん、血が……」
……血? ああ、鼻血だ。止まらない。興奮しすぎたのだろう。
「貧血で倒れたんですかね?」
と、エリュテイア総統は何か勘違いしてくださっているが……ん、待て? 私の血がエリュテイア総統の太ももに? ……なんだか、卑猥な感情が胸の底から湧き上がってくる。罪を犯した感じが凄いな。
「オーッホッホッホ! あなたは昔から、いえ、昔以上にむっつりスケベですわね」
などと、シャール女王には笑われるが……ふっ、確かに私はスケベなようだ。エリュテイア総統と学生生活、楽しみになってきたな。
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