第四十二話 総統閣下と危機一髪
陸海軍省を訪ね歩いた数日後。
親衛隊管理下の企業『帝国飛行機』の下に行って、開発中の飛行機の初飛行をちょっとだけ見せてもらいました。
ふわっと、5メートルくらい浮かんで……おしまいでした。本当にテストでちょっと浮いただけって感じでしたね。
外観はフォッカーの複葉戦闘機そのもの……って、言うか、前にボクが趣味で描いたフォッカーD.VII戦闘機を基に設計したそうです。
開発者曰く「さすがは総統閣下、適当に描かれたにしては航空力学的に優れている」とのこと。
ボクの国、航空機開発経験がまったくのゼロの状態ですから、素人が描いた落書きレベルでも多少は助けになるんでしょう。
まだ試作段階で、量産体制には移っていないみたいですが、来年度中には量産を開始できるんじゃないでしょうか?
……もっとも、そこからパイロットの育成なんかを考えれば、実戦運用できるようになるのは数年後。
まだまだ先です。
さて、それからさらに数日経過しまして。
今日は12月25日。
良い子のみんなは今日が何の日かわかっていますよね。そうです、クリスマスです。恋愛資本主義の象徴的イベント、そうでなくても家族で楽しくパーティーするイベントです。
そんな楽しいクリスマスなんですが……。
マズいことになりました。
とても危ないです。命の危機です。
ことの発端はつい数分前。
いつも通り、総統官邸の寝室で朝起きてアヤメに身支度してもらっているときでした。ほら、ベッドの上で髪を梳かしてもらっていたんですよ。
そんなとき、ふと、ついこう言ってしまったんですよね。
「あっ、今日はクリスマスですね」
と。
これがマズかったんです。
「エリュさん、前も言っていましたけど『クリスマス』って何ですか」
髪を楽しげに梳かしていたアヤメさんのピタッと止まったんです。その瞬間、「あ、これは駄目かも……」と何か危険な匂いを察してしまいました。
そうなんですよね。
大和帝国にキリスト教は伝来していません。この国の住民がクリスマスなんて、知るわけがないんですよね。
迂闊でした。
最近はエリュテイアにも慣れてきて、危機感と言うか、そういうものは無くなってしまっていたんです。
当然、そんなことを口にしてしまえば……まあ、怪しまれてしまいますよね。って、ボクは前にも言いましたっけ、クリスマスなんて?
それで、次の瞬間にはベッドで押し倒されて現在に至ります。……覆いかぶさるように拘束されてしまったんです。
もうもはや、ボクの命はアヤメさんの思うままって感じです。
「エリュさん? エリュさんは、エリュさんですよね? 偽物じゃないですよね?」
なんて、無表情にボクの瞳を見つめ問いかけるアヤメさん。顔が近いです。
……ごくり、と生唾を飲み込みます。もし、これでボクがエリュテイアではないことがばれてしまったら……。
アヤメさんはご存知の通り、エリュテイア過保護派。何がどうなるか……。
「一つ質問いいですか?」
「……なんですか」
「エリュさんは、私との思い出、残っています? この世界に転移してくる以前の」
……思い出。
そんなものないですよ。ボクが知っているアヤメさんは、この世界にやって来てからのアヤメさんだけです。
だって、ボクは本当のエリュテイアじゃないんだから。
「目線、逸らさないで答えてください。エリュさん」
「……無いと言ったらどうなりますか」
アヤメさんの顔を直視できなくて、頑張って目をそらしながら絞り出せたのはそれだけの言葉。
続くのは暫しの無言、アヤメさんの息遣いだけが響きます。
沈黙に耐え兼ねて、ちらりとアヤメさんの顔を覗います。すると……。
「どうなるか、知りたいんですか?」
と、聞かれました。
こくり、と小さくうなずきます。
ぎゅっと私の腕を抑えるアヤメさんの手に力が入ります。きゅっと、思わず目を閉じてしまいます。
そして……唇に何か柔らかいものが触れる感覚。
目を開けると、キスでした。アヤメさんが、ボクにキスしていたんです。
「別になにもしませんよ。実は私も無いんですよね、エリュさんとの思い出」
エリュさんと一緒です、と、笑うアヤメさん。それって……どういうことなんですかね?
「記録、としてのデータはしっかり残っているんですけど、記憶がないんです。エリュさんとずっと一緒に生きてきた記憶が」
「じゃあ、アヤメさんは……」
「もしかしたら、偽物なのかもしれませんね」
……けど、エリュさんを愛するこの気持ちは本物ですよ。
アヤメさんはそう言ってボクを抱きしめます。
「私は時々不安になるんです。私はアヤメなんて人物ではないのかもしれないって。エリュさんはそんな私の事を嫌いなんじゃないかって」
「……あやめさん」
「エリュさんは、こんな私の事をどう思いますか? 変態だと思いますか? 鬱陶しいと思いますか? 嫌いですか?」
そう口にしたアヤメさんはらしくもなく何だか弱々しくて……。
確かにアヤメさんは変態ですし、24時間一緒にいたら鬱陶しいと思うこともあります。
けど。
アヤメさんと見つめ合います。
アヤメさんは、ボクの好みの容姿をしているんです。おっぱいは小さいですけど、スタイルは良いですし、顔だってエリュテイアに負けず劣らず可愛いです。
濡れ羽色のショートヘアが良く似合う可愛い女の子なんです。
そして、ボクがエリュテイアになってしまってからずっと、アヤメさんはボクに尽くしてくれました。
容姿も心も、ちょっと変態性のある所を除けば欠点のない最高のメイドさん。
そんなアヤメさんを……。
「嫌いになるわけないじゃないですか。アヤメさんこそどうなんですか? もしボクが……」
「偽物だったとしたら? もしそうだとしても、私にとってのエリュさんは今目の前にいるあなただけです」
それしか知らないんですから、そう言ってアヤメさんはボクの頬を優しく撫でます。
……そうですか。
どうしてアヤメさんに記録があっても記憶がないのか、そんなことはよくわかりません。
けど、仮にボクが偽物のエリュテイアでも、アヤメさんがボクを好いてくれるのならば……。
「顔、近づけてください」
「はい、分かりました。……それで、なにをするんですか、エリュさん」
わかりませんか。
二人の顔が近づいたらすることなんて一つじゃないですか。
アヤメさんの唇に、優しくキスをします。……自分からキスする経験なんて童貞のボクにはないですけど、精いっぱいのキスです。
そして、顔を離します。
「……ん、随分とフレンチなキスですね」
「それしか知りませんから」
「じゃあ、もっと濃厚なのを教えてあげないといけませんね」
そして、今度はアヤメさんから……。
「もしもーし、総統閣下おられ……失礼しましたっ!」
がちゃ、と寝室の扉が開いて一瞬ネコミミが現れましたが……ヤバいという顔をして逃げ去りましたね。
ミケさんです。
あの子は時々ノックを忘れる悪い習慣があって……普段はアヤメさんが鋭敏に接近を察知してくれるんですけど、今日は無理だったみたいですね。
「っち、せっかくいいところだったのにあのクソ猫」
「アヤメさん、怖いですよ。……なんか、醒めちゃいましたね。身支度の続き、してくれますか」
「うー……。まあ、エリュさんからのキスをもらえただけで満足としましょうか。ほら、髪を梳かすので座ってください」
はいはーい。
「ところで、エリュさん。クリスマスって何なんですか?」
「恋人同士がプレゼントを贈り合う恋愛資本主義的イベントですね」
「なるほど……つまり、エリュさんからのキスはクリスマスプレゼントと?」
んー。
違うような気もしますが、そう言うことにしておきましょう。ほら、手が止まっていますよ、アヤメさん。