父がかさねた借金のカタで召し使いになったけれど、無自覚な僕は自分が美少年だと気づく前にいけにえにされそうです。
お屋敷の衣装部屋は、いつも甘辛いツンとした香りに満ちている。
奥様は姿見鏡の前にある、革張りの椅子にかけて長い足を組んでいた。今日はエメラルドグリーンのドレスをお召しだ。僕、バーゼよりはずっと年上で、僕の母さんよりはずっと若い。
もっとも、僕にはもう母さんはいない。ある日どこかにいったまま。父さんはいるけど、いつも酔っ払っていて時々知らない大人の人を家につれてきた。
もう何年か前になる。父さんが、家でいつものようにつれてきた大人……初めて見る男の人だった……に僕を引きあわせた。
その時僕は、もうお腹を空かさなくていいし、ぼろぼろの服を身につけなくていい。シャワーも浴びれるしノミやシラミもいないお屋敷へいくと知らされた。
正直なところ、よくわからなかった。とにかく連れてこられて今の生活が始まった。先輩から少しずつ聞かされたところだと、どうやら僕は父さんのお金の話を片づけるためにここにきたらしい。
そんなことを頭の片すみに思いだしながら、かがみこんでひたすら奥様の靴……床を踏んでいる側……を磨いている。黒くて艶があって、ふだんは足の甲に虹色の宝石をはめこんだリボンで飾ってある。もちろん、今ははずして台においてある。
宝石がオパールという名前なのと、リボンが絹っていう繊維なのはお屋敷にきて初めて知った。
お屋敷の召使いは、お昼ご飯を夕方近くに食べる。僕のような見習いは薄いスープにぼそぼそのパンだけだけど、自分の家にいた時よりずっとましだ。現にお腹いっぱい食べられるから。
物知りの先輩男子が、お前はあと何年かでヒゲも生えれば下も生えると教えてくれた。何故かメイドの先輩が凄く怖い目でその先輩男子を睨んだ。
下も生えるってなんなんだろう。足がもう一本できるのかな?
とにかく先輩達とちがい、僕だけは毎日食べたあとで衣装部屋にこなくちゃいけない。そして、奥様の靴をピカピカにする。大して時間はかけない。ほかにもやる事は山積みだし。でも、磨いたあとの奥様の靴に自分の顔が映ると何故かドキドキぞくぞくして顔が赤くなりそうになる。
いつも通りに靴を磨き、靴墨で真っ黒になった布を道具箱に入れた時だった。
奥様が組んでいる足の、宙に浮いている方の靴底が目に入った。
靴底には顔があった。靴底を紙代わりにして描いた絵のように、男の人がこちらを眺めている。知らない人で、奥様と同じくらいのお年をしている。別に不細工じゃないかわりにとても不満そうな様子をしていた。
ぎょっとした僕は、危うく手がとまるところだった。奥様にすぐ報告したくなった。
でも、何故かためらう気持ちもあった。現に奥様にはなんの異常もない。へんなお話をして奥様のご機嫌を損ねたくはない。
先輩の一人から聞いた、魔法やおまじないのたぐいなんだろう。僕は自分にそういい聞かせた。
「お待たせ致しました」
靴磨きが終わり、リボンとオパールを元通りにして道具を片づけてから僕は申しあげた。
「ご苦労様」
奥様はとても美しい声で僕をねぎらい、椅子からたった。そして、すたすた出入口へ歩いていった。
僕は道具箱を右手に下げて、衣装部屋の隣にある物置に入った。そこは、衣装部屋で使う裁縫道具や椅子の予備がある。靴磨きの道具もここにしまう。
戸棚に道具箱を入れたら、開き戸のガラス棚に誰かの顔が写った。僕のじゃない。さっき奥様の靴底にあったのと同じ顔だ。
あまり大きく驚いたせいで、僕は声がでなかった。すぐにでも回れ右してここを出たい。身体がガタガタ震えて足がすくみ、それも無理だ。
「怖がるな。お前は新入りの召使いでバーゼというのだろう?」
「はい……いいえ、僕はまだ見習いです」
我ながら、どうでもいいことにこだわって答えた。
「このさい細かい立場はおいておく。お前、このままだと殺されるぞ」
「ええっ!?」
傍から見れば、僕は戸棚とお話している頭のおかしな人間だったろう。
ガラスに映った男の人は……もう少しくわしくいうなら男の人の顔は……じっと僕を眺めている。まるで、これから調理される食材を品定めしているようだった。
「お前が毎日靴を磨いている女を、具体的に誰なのか知っているか?」
「いいえ」
なんとなく、偉い人か偉い人と結婚した人かだと思っていた。
「あれは魔女だ。呪いの力で次から次へと金持ちを結婚へと誘いこみ、なにもかも奪ってから殺す。たまに、俺のような犠牲者の魂を自分の靴底にはりつける」
「ど、どうして……」
「その疑問は、金持ちを結婚へ誘い込み続けることか? 魂を靴底に張りつけることか?」
「両方です」
「まず、魔女は飽きっぽい。どんな相手も半年かそこらでいらなくなる。そして、気まぐれに選んだ人間の魂を靴底に張りつけて踏みつける。魂そのものを踏みつけると気分がいいからだ。そういう性格なんだ」
胸が悪くなる。あの、美しくてとても身綺麗な奥様が、そんな魔女だったなんて。
「あなたは現に靴底から出られたんじゃないんですか?」
僕としては、とても大切な疑問だった。まだこの人を信用したんじゃないし。
「そもそも俺は結婚相手じゃない。俺は魔法使いだった。あの魔女にも魔法勝負で勝ったと思いこんでいた」
「魔法勝負?」
「魔法を使う者同士の決闘だ。勝てば相手の術を奪える」
良く分からないけど、そういう勝負があるのは覚えた。
「しかし、それは魔女がこしらえた幻だった。俺は負けた上に魂を奪われた。ただ、万一に備えて魂の一部を屋敷に遺しておいた。外にはでられないがこうやって助言はできる」
「それで、どうして僕が……」
突然、背後でドアがひらいた。男の顔は消えて、僕はどきっとしながら振りむいた。
「バーゼ! ここにいたの。駄目じゃない、サボっちゃ!」
「ごめんなさい、アベリさん」
アベリさんは、僕より五、六歳上のメイドさんだ。普段から良く話しかけてくれる。そばかすの浮いた顔に、緑色の髪をゆって同じ色の瞳をしている。背は僕より少し高い。
それはそれとして、他の先輩よりも、ずっと僕に近づいて話すくせがあった。
「しようがないわね。今回は黙っといたげるけど、次はないよ」
「はい、気をつけます」
叱られてしょんぼりしたら、またアベリさんは僕に近づいた。鼻同士がくっつきそうだ。
「ね、バーゼ。晩御飯までに、二人で地下室のお掃除しない? 誰と組んでもいいって執事さんから許可を取ったし」
「はい、わかりました」
「じゃあ、叱ったことはなしにしてあげるから。こっちにきなさい」
「はい」
アベリさんは僕に背中をむけて歩きだした。
ほんの少しだけ、僕は戸棚のガラスをたしかめたくなった。
「なにしてるの? 早く歩いて」
「は、はい、すみません」
結局、怖いからやめた。アベリさんにも話しそびれた。
地下室は、お化けがでるだの叫び声が聞こえるだの噂されている。アベリさんは衣装部屋から廊下にでて地下室への階段に足を踏みおろした。
僕は、廊下の窓からちらっと外を見た。春の終わりごろで、花を落とした木が緑色の葉をつけている。まさか、見納めになったりしないよね?
「少し待ちなさい」
アベリさんが僕に呼びかけてからすぐ、パッと明るくなった。
「壁にある記号が見える? 手でなぞれば階段と地下室に明かりがつくから」
アベリさんが右人差し指で示したのは、黄色い丸印だった。手探りでも分かるように少しくぼんでいる。
「階段を降りる前につけてね」
「はい」
本当には触らないつもりで、僕は手をのばした。大人の背丈にあわせてあるから、少し足りない。背のびしたら記号の下のはしには届く。
「さ、行くよ」
「はい」
僕達は階段をおりきった。アベリさんはポケットから出した鍵でドアをあけた。いよいよ地下室だ。
いざ入ると、湿っぽくて冷たい空気の中に衣装部屋やカビや肥料の匂いが混ざりあっていた。
てっきりドアのむこうに大きな部屋が一つあって、棚かなにかに物が整理されているのかなと思っていた。実際には廊下がのびていて、ちょっとした迷路のようになっていた。もっとも、そんなに複雑じゃない。僕より小さな子供でも簡単にでられるだろう。
大して歩かないうちに、アベリさんは『掃除道具』と書かれたプレートが釘うちされたドアをあけた。
「じゃあ、ほうきとチリ取りとゴミ箱をだすよ。今からほうきを持って、指示した場所を掃いたらチリ取りでゴミをまとめてゴミ箱に捨てなさい」
「はい」
「きれいになったらまとめて持ってきて。ゴミ箱にほうきとチリ取りを突っ込んではこんでいいから」
「分かりました」
ほうきは僕の背丈くらいはあった。チリ取りとゴミ箱は腰くらいで、ゴミ箱には取っ手と車輪がある。
アベリさんは、地下室の一番奥を僕に割りあてた。アベリさんは出入口のドアに近い場所だ。
つまり、僕は一人で作業する。明かりがあるから特に怖くはない。ない……。
とにかく道具をまとめて手で押し進めた。ごろごろがらがら音がして、壁から壁に音が跳ねかえってびっくりした。
いわれた場所でほうきを出すと、すぐに掃除を始めた。
「それで、話の続きだが」
床に、さっき衣装部屋の道具置場で話しかけてきた顔が浮かびあがって口をひらいた。
「うわぁっ!」
「どうしたの!?」
アベリさんが僕の悲鳴を聞きつけて叫んだ。柱や壁がへだたっているから見られてはいない。
「クモがでたとでも言え。早く」
顔が小声で僕に命じた。
「ク、クモです!」
「いちいち驚いていたら仕事にならないでしょ。しっかりしなさい!」
「はい、すみません!」
それでどうにか収まった。
「次からはいちいち驚くなよ」
「無理ですよ、いきなり現れるんだから」
「こういうやり方しか出来ないんだから仕方ない。まあ、とにかく、なぜお前が殺されるかだったな」
そうだ。それを聞こうとしていた。
「お前達は魔女を奥様と呼んでいる。夫は片っぱしから死んで、今まさに独身であるにもかかわらず。その理由はな、魔女には本当の結婚相手がいるからだ」
「誰ですか?」
「悪魔だよ」
「悪魔?」
悪魔なんておとぎばなしでしか聞いた事がない。
「魔女は悪魔と契約して魔女になったんだ。魔女はお前をいけにえにして悪魔を呼びだすつもりだ」
「そ、そんな! どうして僕なんですか!」
「声が大きい」
慌てて僕は口をとじた。
「お前、先輩からやたらに可愛がられないか? 特に女性から」
「はぁ……」
アベリ先輩なんかは、いつも僕を丁寧に教えてくれる。たまにお菓子をくれたりもする。他の先輩も似たり寄ったりだ。それがこのお屋敷の特徴だと思っていた。
「自分で気づいてないのか。お前は天使のように美しい男の子だよ」
「そうなんですか」
全くピンとこない。だいたい、そんなことがなんの役にたつのかわからない。
「魔女は、その美しい子を散々もてあそんでから殺すつもりだ。猫が小動物をいたぶるようにな」
「もてあそぶ……?」
「毎日靴磨きをさせられているだろう? これから殺す相手を見おろして、自分の靴を磨かせるのは魔女のようの奴にとってはちょっとした娯楽なのさ」
僕が美しいといわれるのよりもっと理解出来ない。どうせならさっさと殺せばいいのに。良くないか。
「とにかく、悪魔が現れる前に手伝って貰いたい」
「なにをですか」
「魔女を殺すんだ」
僕は思わず、床に現れた男の顔にほうきをぐさっと突きたてた。
「そう驚くな」
顔は平然としていた。
「なんてことを……」
「簡単だ。私が指示するものをそろえればいい。そうしたら私がまた改めて教える」
「いきなりそんな話をされてもぱっとはうなずけませんよ」
「時間がない。明日の晩にはお前をいけにえにする儀式が始まる」
「ええっ!?」
顔の台詞はいちいちいきなりだ。
「さあ、そろえるのだ。トリカブトの根、乳鉢、乳棒、裁縫針、水を」
「バーゼ、仕事はちゃんと進んでるの?」
「うわぁっ!」
顔が消えて、別な顔が現れた。
「アベリさん」
「アベリさんじゃないでしょ。全然出来てないじゃない。本当にどうしたの? 掃き掃除の仕方が分からないの?」
「す、すみません」
「仕方ないなあ。ほらっ」
アベリさんは、僕のうしろにたって、背中から僕の両腕を取った。アベリさんの顎が僕の肩に触れて、柔らかい胸の感触がした。
「こうやって掃くのよ」
アベリさんが耳元で囁きながら、僕の両腕を規則正しく左右に振った。
「あ、ありがとうございます」
「礼はいらないから早くすませてね。それと、ここが終わったら薬草棚のほこり取りをするから」
「薬草棚?」
「色んなお薬に使う草花がしまってあるのよ。トリカブトのような猛毒もあるから、ぼうっとしちゃ駄目よ」
トリカブト……! 顔が指示した物の一つだ。
「じゃあ、これからはもっと一生懸命やるのよ」
「はい」
アベリさんは僕から離れて、自分の持ち場に帰った。
もう迷っていられない。
僕には自由になる時間なんてない。夜は先輩達と同じ部屋で眠るし、地下室の鍵なんて持ってない。だから、これを逃したら二度と機会はこない。
それはそれとして、掃き掃除は終えた。どのみちそんなに時間がかかる仕事でもなかった。
アベリさんは、僕が一区切りをつけると一言ねぎらってくれた。それから掃除道具の部屋に戻り、チリ取りやほうきをしまってはたきをだした。
「ほこり取りははたきではたくだけだから簡単だよ。でも、棚や薬草を傷つけないでね」
「はい」
薬草棚のある部屋のドアには、掃除道具と同じ要領で『薬草』のプレートがあった。
一歩入っただけで、むせかえるような濃く強い香りが口や鼻をつついた。天井からは、何本か干した草が逆さ吊りになっている。壁はびっしり棚で埋めつくされ、色とりどりの花や茎がビン詰めされていた。
「ちょっときついよね。害はないから」
「はい」
「ああ、いい忘れてた。ほこり取りをする前に、ビンの様子をざっと目で見て確かめて」
アベリさんは棚から棚へと手で指してまわった。
「ごくたまに、割れたりヒビが入ったりしている物があるから捨てなくちゃ。その時はそこのノートにちゃんと書く」
なるほど、さっき入ってきたドアの脇に台があり、ノートが一冊置いてある。インク壺と羽根ペンもあった。ついでだけど、僕は読み書きを母さんから習った。
「じゃあ、まずビンの様子をたしかめなさい」
「分かりました」
戸棚の中身を一つ一つ目で追っていくと、かすかにヒビの入ったビンがあった。『トリカブト』とラベルが貼ってあった。
なんの偶然だろう。誰かがそれと仕組んだんだろうか。
「アベリさん、これ……」
僕はトリカブトのビンを指さした。
「ああ、確かにヒビが入っているね。じゃあ、一度ここをでてゴミ捨て場にいきなさい。ついでに、掃き掃除でまとめたゴミも一緒に。すぐにもどってね」
「はい、ありがとうございます」
僕はトリカブトのビンを掃き掃除で使った車輪つきのゴミ箱に入れた。ヒビの入ったビンをポケットに入れたり手に持ったままでいたりするのはおかしいからだ。
地下室をでる時、階段ではゴミ箱を抱えなくちゃいけないなと思っていたら段がひとりでに引っ込んで滑らかな坂になった。元々そんなに激しい傾斜はついてないから、かなり楽にあがることができた。坂を上がりきると、また元の階段にもどった。
廊下から使用人用の出入口まで歩いた。陽が沈むまでは、そこには鍵がかかっていない。
西陽を浴びながら出入口を抜けると裏庭で、ゴミ捨て場が隅にある。大きな四角い穴があいているだけで、脇には手押しポンプのついた井戸があった。
普段は、穴にゴミを捨てたらひとりでに消えてなくなる。あとは井戸の水で手を洗って帰ればいい。
僕は、ゴミ箱からトリカブトのビンを出した。ビンと水はある。乳鉢も乳棒も裁縫針もない。
「よおバーゼ。アベリにいじめられてないか?」
「うわぁっ!」
驚いて振りむくと、作業着姿のグデー先輩がいた。ボロ布のずだ袋を肩にひっかけている。
グデー先輩は気さくな男の人で、歳はアベリさんと同じくらい。仕事を一緒にする機会はあまりない。背が高くて少し髪が長くて力がありそうだけど、さすがに魔法使いの顔について相談する気にはなれなかった。
「お前、いっつもびっくりしてるな」
「す、すみません」
「いや、謝る話じゃないんだ」
グデー先輩はずだ袋を肩からおろした。
「先輩もゴミ捨てですか?」
「ああ、奥様のご趣味の始末さ。欠けた乳鉢だの、折れた乳棒だの、裁縫針だの。毎晩薬草を調合してお医者さんごっこかもな」
そういってひとりで笑った。
「あ、お医者さんごっこっつってもわからねえよな」
「あのう……問診して、脈を取って……」
うろ覚えな知識を精一杯使うと、グデー先輩はなんともいえない表情になった。
「まあ、間違っちゃいないよ」
先輩はずだ袋を穴にむかって逆さにしようとした。
「ああ、待ってください!」
「あん?」
「その、乳鉢とか乳棒とか、アベリ先輩ができれば取っておいて欲しいって僕に言ったんです。裁縫針も」
グデー先輩は露骨に首をひねった。当たり前だ。
もう抜き差しならないところまで自分で自分を進めてしまった。手足ががくがく震えそうだ。平気そうな顔をしていないといけない。
「なんの用でだ?」
「良くわかりませんけど、とにかく集めてるって」
「へー。ま、あいつなら奥様のお相手をさせられたりしてな。くくくくくく」
奥様がお医者さんごっこの相手にアベリさんを指名するんだろうか。
「とにかく、他のガラクタもまとめて持ってきたし、裁縫針なんかは危ないから分別してやるよ。どうせすぐにすむ」
「ありがとうございます」
グデー先輩は、確かにすぐにすませてくれた。残りのガラクタを全部穴に捨てて、手押しポンプの井戸で手を洗ってからもどった。
僕は、まず無用なゴミを全部捨てた。ゴミは穴に落ちた途端すみやかに消えた。
「よくやった。やはり私の見たてどおり運がいい」
そういいながら、ゴミ捨て穴の底に魔法使いの顔が現れた。
「うわぁっ!」
「よく驚く奴だ」
「あなたが驚かしているんでしょう!」
「それより、乳鉢に少し水を入れてトリカブトを加えろ」
「その指示を受けるまえに、質問があります」
「なんだ」
「あなたの話が本当だという証拠をだして下さい」
もし間違いだったらとり返しがつかない。大体、こんな怪しい顔のいいなりになる方がおかしい。
「さっきまで、アベリというメイドと一緒だったな?」
「はい」
「お前の父親が今どうしているか聞いてみろ。そのうえで、債務牢獄にいるはずだと言ってみろ」
僕は父さんがギャンブルに負けて、その清算のために売られた。それはあとから聞いた。でも、僕が働いている限り、父さんは債務牢獄なんかにいない。
「聞くだけなら問題なかろう。それで、作業を続けるのだ。私の説明が嘘だと思ったら全部捨ててなかったことにすればいい」
半信半疑だった。まさかに備えたい気持ちもあった。
「さあ、乳鉢に少し水を入れろ」
逆らえなかった。僕は、顔が指示するままに水を入れ、トリカブトをビンから出して乳鉢に乗せた。それを乳棒ですり潰し、出来た汁に裁縫針をよく浸した。乳鉢の縁が欠けていたせいで少し難儀したものの、大した時間はかからなかった。
「ふむ。上出来だ。その毒は一晩かそこらでは消えない。自分を刺さないよう、注意して裁縫針をポケットに納めろ」
黙っていわれた通りにした。用のすんだ道具は全部穴に捨てた。
それから地下室にもどると、アベリさんは薬草棚にはたきをかけている真っ最中だった。
「ご苦労様。さあ、あなたも一緒にするのよ」
アベリさんから予備のはたきを渡され、僕はひたすら棚をはたいた。
ポケットに入れた毒針を意識して、どうしても表情がぎこちなくなる。作業は手際良くこなしている一方で、顔の教えてくれた質問をどう切り出すかとても迷った。
「ずいぶん難しい顔ね。なにかあったの?」
いつの間にか、アベリさんが隣にきていた。
「あー……その、僕の父が今どうなっているか心配で……」
「ああ、それなら大丈夫よ。少なくともお金には困らなくなってるんじゃないの?」
「でも、債務牢獄にいるはずじゃ……」
「え? 奥様はあなたを捧げる為に買ったのよ」
「捧げる?」
アベリさんの顔と、魔法使いのそれが頭の中で重なった。
「あ、ああ、大した事じゃないから。ほら、お祭りとかで供物の捧げ役がいるでしょう? ああいうのにいいかなって話よ」
アベリさんは曖昧に笑った。そのあやふやな、アベリさんらしくない表情が僕を確信させた。
ポケットを布地の上から強く押し、裁縫針の手応えを確かめた。
次の日の昼さがり。
いつもよりもっとクタクタになったまま奥様の靴を磨いていた。
朝から突然、大事なパーティーの飾りつけをするとかでお屋敷中をいったりきたりしないといけなかった。
僕達がお昼に口にしたご飯も特別な物だった。塊のお肉を焼いたもので、生まれて初めて食べた。アベリ先輩にたしなめられたりグデー先輩にからかわれながら夢中で手が動いた。
そのかいあって、お屋敷は色とりどりの旗やリボンで盛り上げられた。
そして、身体はいつもより疲れていても心の中はギラギラする緊張感でいっぱいだ。
僕は今、袖口にあの毒針をしこんでいる。
奥様はいつものように座っているから、僕の一撃をとめられないはずだ。
にもかかわらずまだそうしないのは、奥様の装いがいつもと違うから。
靴は黒じゃなく艶のある赤で、リボンもオパールもない代わりに青白く輝くダイヤがはまっていた。汚さないように外してあるのは変わらない。
そして、ドレスは青白い。奥様の白い肌が一層透けて見えそうだ。
靴磨きには大して時間がかからない。僕は、いよいよ本当の決断をせねばならなかった。
「お昼は美味しかった? バーゼ」
不意に奥様は口を開いた。ぎょっとして手が止まりかけた。
「はい、ありがとうございます」
「そう。よかった。そういえば、あなたがきて丁度一年目ね」
「はい、左様でございます」
「そろそろ主人に合わせないとね」
そういえば、『奥様』とは呼んでいるけど旦那様には会ったためしがない。毎日の仕事におわれて、気にする余裕もなかった。
もうすぐ靴を磨きおえる。
「主人は、少し変わっているけれど性格は悪くないから」
「はい、ありがとうございます」
靴を磨きおえた。ダイヤも元通りに取りつけた。奥様はなんの気なしに床についてない方の組んだ足をぶらぶらさせた。
僕は、無意識に袖口から毒針を出して奥様のもう一方の足を刺した。
「ぎゃあっ! な、なにをするの!」
奥様が椅子ごとひっくり返りそうになるのを目にして、僕はさっき刺したのと同じ足の脛に毒針を突き刺した。
「痛いっ! 誰か! 誰かーっ!」
奥様が椅子から転げ落ちた。それからたちあがり、衣装部屋の出入口へ走ろうとした。僕は足を引っかけて転ばした。
「うぐぐぐぐっ。ぐええええっ」
奥様は、きらびやかなドレスのまま床をごろごろ転がり手足を痙攣させてうめいた。
「奥様、どうなさいました!?」
衣装部屋のドアを叩きつけるように開けてアベリさんが入ってきた。僕は毒針を隠そうともしなかった。
「あ、あなた、……」
「今、奥様の悲鳴が!」
グデー先輩も、開けたままの戸口から飛ぶように入ってきた。そしてアベリさんの隣で固まった。
「諸君、どうやら合格のようだな」
魔法使いの顔が壁に浮かんで僕達に呼びかけた。合格……?
「準備が無駄にならずにすみましたわね」
奥様がむくっと起きあがった……えええっ!?
「バーゼよ、お前は立派に我等の仲間いりをはたした」
顔がおごそかにつげた。
「な、仲間って……」
「身体を軽くふってご覧なさい」
奥様が命じたとおりにすると、端が矢印型になった尻尾が僕のお尻からのびていた。慌ててズボンに手をやった。破れてはいない。むしろズボンと一体になっている。
「お前はずっとテストされていたのだよ、バーゼ。人間らしさを捨てられるかどうかをな。アベリやグデーにも同じ尻尾がある」
顔の台詞に応じて、二人の先輩は尻尾を見せびらかした。
「どちらかといえばお前の父親の方が素質に勝るはずだが、妻は面食いでな」
「じゃ、じゃあ……」
「そうよ。このお屋敷には悪魔しかいないの。あなたも晴れて悪魔に生まれかわったのよ。さあ」
奥様に促されて、アベリさん達はどこからともなくクラッカーを出した。
「悪魔化おめでとう!」
「おめでとう!」
ぱぱーん! ぱぱーん!
「お昼の山羊肉ステーキもお口にあったみたいね。アベリが一生懸命作ったのよ」
奥様がにこやかに教えてくれた。
「つまり、今日はお前の悪魔化記念パーティーなのだ」
顔がおぎなった。
「そうだったんですか! ありがとうございます!」
「うふっ。もうちょっとであなたをつまみ食いするところだったよ。色々な意味で」
アベリさんは照れ臭そうだ。色々な意味ってなんだろう。まあ、いいか。
「さあ、主賓を待たせてはならん。食材は既に確保してあるし、アベリが目の前で調理してくれるだろう」
僕は、顔の説明にうれしくなってうなずいた。頭から生えてきた触角でもう察しがついている。でも、せっかくだから知らないふり。
父さんってどんな味かなぁ!
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