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花瓶を抱えた妙な姿勢のまま固まっている少女にゆっくりと歩みよりながら尋ねる。
「…窓をわって逃げだそうと思ったのか?それとも欠片をつかって何かをしようと?」
彼は、アリシアの腕の中からそっと花瓶をとり上げた。
「とりあえず、座りなさい。」
華奢な両肩に下へおしさげるように力を加え、ベッドに腰かけさせる。
鳶色の瞳が、彼を見あげた。
「…宰相さま。父は、わたしの正式な許嫁として従兄の名を公表したのですが」
「唐突だな。許嫁がいるのか」
「厄介な縁談を断る口実です。けれど従兄は、わたしの縁談相手に幾度も暗殺されかけ、身を隠さざるを得ない状況になっています」
「穏やかでないな…その厄介な縁談相手の名を聞いてもかまわないかね?」
きゅっとこぶしを握り、少女は言った。
「わたしに再三、輿入れの要求をしているのは、ハッバスの皇帝です」
「ヴァ―ハム帝が、そなたを…」
どこかで彼女の姿をみて興味をもったのだろうか。
ルシアスは眉をよせた。こんないとけない少女を欲するなど…。
「今のハッバス皇帝にはすでに正妻と14人の側室もいるというし、
あの暴君ぶりだ。お父上は…エングランド陛下は、当然、断ったのだろう?」
「父は、わたしを嫁がせる気はない、と言ってくれました。けれど、当初は同情してくれていた大臣たちも、開戦してからは、わたしを嫁がせて停戦にもちこむべきだと…。」
「だからそなたは、今回の戦の原因をつくったかもしれないと、自分を責めているのか。」
「…交戦中の今も、時おり、敵陣からわたしを寄越せと矢文が届くそうです。」
なるほど強気で我儘な老皇帝らしい。
彼は、ふう、と、息をはく。
「…さて。たしかに、ハッバスは、ここ数年、ひどい干ばつにおそわれている。
水の恵みをもたらすそなたを欲するのも道理。
とはいえ、かの国の人や土地が荒廃している理由は、それだけではない。
ハッバスは鉄と火の民…もっと根本的な問題…鉱毒だよ。
だが、つねに周囲から奪うことしか頭にない短気で貪欲な皇帝は、
内政にはとんと無頓着だ。一層武器を鋳造させ、勢力を拡大。
セレナでなければ、あるいは我が風の国か、サ-シャやクルド共和国か…
遅かれ早かれ東大陸の国は、ハッバスとぶつかる運命にある、というのが、
各国の中枢にいるものの共通した認識だ。」
一歩ひいたところから大局をみすえるような、壮年男性らしい落ち着きのある口調だった。
アリシアは、きゅっと唇をかむ。
「……それでも、わたしは、父に甘えてはいけないのです。
わたしは、セレナの国家安寧に尽くさねばなりません。」
ルシアスは、しばらく考えてから、ああ、と合点した。
「そなたは当代の『水の標』だったな。」
「…どこで、それを、お知りに…?」
みるみる顔色を失い、アリシアが狼狽した声で言った。
ルシアスは、さてどう答えたものかと、数拍まよう。
自分とて、セレナ王本人に教えられなければ知らなかった機密情報。だがハッバス皇帝は、おそらくそのことを知っているのだろう。だから彼女に執着するのだ。
…ハッバスの諜報部隊、侮れんな。すでにこちらの大陸諸国の中枢に、ずいぶん食い込んでいるようだ。
だが、それを彼女に伝えたところで不安が増すだけだろう。
余計なことは告げず、彼は鷹揚に笑った。
「私は、声をひろい音を紡ぐ風の国の宰。立場上、得る情報は多いのだよ。」
「…これ以上、周りに迷惑はかけられません。でも捕虜のように鉄金具をはめられ力の行使を強いられるのも、『継承』を強要されるのも、こわいのです。」
―『継承』…男女の契りによって顕示する水の加護のことだ。
水は命の根源。治癒に長け、天の恵みをもたらすセレナの民との縁談をのぞむ者は多い。だが、水は、高き所から低き所に流れるもの。
水の精霊と交歓できない民と契れば、水の民の力も弱まる。それは最も精霊に愛された『水の標』とて同じ。
…いや、それまで担ってきた役割が大きいぶん、反動もはげしかったはず。
「たしか、次代の祭事長との軋轢を避けるため、嫁した『水の標』はまったく精霊の声も姿もとらえられぬ『ただびと』になるのだったか?」
「はい。それに『継承』といわれていますが、お相手の方の素質や健康状態によって、恩寵のていどは、まちまちなのです。過度な期待をされても…。」
恩寵…。そう、本来は夫婦の門出を祝う精霊からの贈り物なのだ。
それをはき違え、自身の欲望のために身勝手に水の民を欲する輩のなんと多いことだろう。
ヴァ―ハム帝しかり。
かの国に嫁げば、身を守るすべをもたない彼女は、あっという間にその命を散らすだろう。
「嫁しても嫁さなくても争いのもとになるのです。だから、死のうと思いました」
暗い表情のまま、けれど静かな決意をもって、少女は言った。
「…花瓶の破片ていどでは、痛いだけで死ねるほどの出血はしないだろうな。」
「では宰相様。その槍で、ひと思いにわたしを。」
「殺せ、と?」
ルシアスは、こめかみに手を当て、もう一度ふうっと息を吐いた。
ローイエン王に退位を要求したディアス伯爵は、ハッバス帝国との同盟をのぞんでいる。
皇帝が欲しがる娘が自国にいると知れば、血眼になって探すだろう。
セレナ要人のうけいれについては、保守派の大臣からも、反対する意見がでている。我が風の国にとっても、まごうことなく彼女は戦の火種だが。
「……断る。」
彼女を不憫に思ったからではない。断じて。
「宰相である私には、この騒ぎの経緯を明らかにし、陛下や国民に報告する義務がある。事件の目撃者に死なれては困るのだ。」
国政のためならばどんな冷酷非情なことにも手を染める老臣スファルが、
彼女をその場で切って捨てなかったのは、そのためだ。
「火や血の穢れは、大地や水を穢す。…あのヴォロス高原がもとの清らかさを取り戻すのにどれくらいかかるか、そなたは考えたことがあるか?」
「10年…」
「50年、だ。航路となっているあの河の浅瀬は、竜たちの水場だったのだよ。
竜は、とくに穢れを嫌う。だから水質がもどるまで、あそこは封鎖するしかない」
アリシアは目を潤ませ、居竦まる。
「王女一人殺してすむ話ではないのだ。このままでは、そなたの母も、うかばれまい。安易な死に逃げるのではなく、事がおちついたら私とともにあの場所にもどり、花をたむけなさい。
水の精霊を慰撫し、死者たちに舞を捧げること。厳しい言い方だが、それが生き残った者の…『水の標』としての務めではないのかね?」
金の眼を細め、隣国の宰相は言う。
「…」
退路をふさがれ顔をゆがめる彼女を見下ろし、
ルシアスがほんの少し困ったような顔でつけ足した。
「船列車の動力は、風と水。それなのに列車は炎上した。今、火元を調査中だ。
そなたの国と我が国は長きにわたり友好関係を維持してきた。
母君たちの件、私は、かたよりのない調査をしたい。
…王都についたら、国王への謁見の手はずを整えるつもりだ。だが予定より少し、
遅れるかもしれぬ。ゆえに姫。今しばらくそなたの身柄は、私がひきうける。」
「また何かあったら…」
ふ、と宰相の口元がゆるんだ。
「心配せずとも、そなたがハッバスに捕らわれれば、皇帝の力がいや増すのだ。
少しでもお荷物だと思えば、願いどおり、躊躇なくそなたを殺す。
怪我をしていようと、私は風の国の宰。それだけの覚悟も力もあるのだよ。」
「精霊に見張らせている。勝手に死ぬことは許さない。
諦めろ、姫。私の元に迷いこんだのは、必然だったのだ。」
言い残し、彼はくるりとアリシアに背をむけた。
背後から、無言の抗議を感じたが、あえて黙殺する。
私を恨みたければ恨めばよい。
怒りは、辛く苦しい今生を生きぬく力になるのだから。