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カチャリ、と隣国の王女がやすむ部屋に鍵をかけ、ルシアスはため息をついた。
「そんなに睨まないでください」
「王都につくまで自室で横になっていてくださいと申しあげたはずですが。」
小柄な老臣が、下からルシアスをねめつけて苦言を呈する。
風の国の近衛隊長。名をスファル・バーナーという。
今は足腰の衰えを理由に王の身辺を警護する職のみについているが
これは本人の言い分で実際は単に少し羽をのばしたいだけと思われる。
若いころから様々な要職を歴任し、人脈も知識も豊富。
政治手腕は非常に老練で、次期王かと噂されるほど武芸にも秀でている。
辺境地の一貴族であったバーナー家は、この現当主スファルの功績によって公爵位を得た。はじまりは、スファルの母ティーニャが、主家であったヴァールブルク公爵家嫡男トビアスの乳母をひきうけたこと。
スファルはトビアスの2つ上。
二人は乳兄弟として切磋琢磨しながら中央で不動の地位を築き上げ、
ついにトビアスは国王となった。
この国では個々人の実績が重んじられる。
スファルもまたトビアス政権のもとでその才覚を遺憾なく発揮し、公爵位を授与される。後進の育成にも熱心で、ルシアスも風の国の宰の職を得るまでに鍛え上げてもらった。
ただかつての家同士の関係もあり、スファルはルシアスに対しても丁寧な口調で接する。
指導の仕方は、他の誰に対するよりも苛烈で容赦ないのに、である。
純粋に伯父のような存在として慕うにはスファルはあまりにも癖がありすぎ、
畏怖と警戒をともなう微妙な関係を続けている。
ルシアスは無難そうな言葉を絞りだす。
「…同じ姿勢だと疲れるので、血の巡りをよくするための散歩を…。」
「無理をして傷口が膿んだら命の保証はできないと主治医にいわれたばかりでしょう。この非常時に『宰相殿』まで政務をとれなくなったら、机上に積みあがっていく書類を、誰が片づけるというのですか」
「非常時って…まだセレナは持ちこたえているはず…うわっ」
スファルに両腕を強い力でつかまれ、たたらをふむ。
「対外関係の話ではありません!」
くわっと怒鳴られ、思わずのけぞる。
「―…王都で、なにか、あったのですか?」
「ありましたとも。」
よくよく見れば、いつも冷静沈着なスファルが珍しく顔色を失っている。
「最悪の、事態です。」
刃のように鋭いスファルの眼差しと、布ごしに感ずる相手の指のつめたさに、
ルシアスも、これはただごとではない、と身構える。
「心してお聞きください宰相殿。…昨夜、王宮にいたトビアス陛下に、
ディアス伯爵らが不信任決議を提出。退位をせまったとのこと。」
「不信任決議…!?吏部省長官からは何も聞いていませんよ。どうやってそんなに多くの同意を…。」
「ディアス伯の嫡男ヴィル殿は、今、第一王位継承権をもっています。周到に根回しをしてきたのですよ。かえすがえす前回の御前試合の件が口惜しゅうございます。」
スファルは憤懣やるかたない、と言った様子でじろり、とルシアスを睨む。
「貴方は最後まで本気にはならなかったし、むこうは死に物狂いでしたからね。
あつかいには十分気をつけてくださいと、申しあげたでしょうに!」
「……」
容赦ない指摘に、ルシアスは押し黙るしかなかった。
「まぁ新しい役職についたばかりだからと怠惰を誡めなかった私にも、責任はありますな。」
スファルが忸怩たる思いをのがすように、やれやれ、と頭をふった。
「…それで、陛下は、ご無事なのか?」
車窓に目を向け、ルシアスは恐る恐るたずねた。
王都エレミアスのある地は、ローイエンの盆地のなかでは、もっとも標高が高い。
ここからでもかすかに雪の残る山稜と王城の尖塔がおぼろげに見える。
だが詳細が分かるわけではない。
「残念ながら、もう陛下ではありません。トビアス様、です。」
貫禄と気力に常に満ちているスファルが、いつもより老いて見えるのは、
青白い顔色のせいか、それとも心労のためか。
「…スファル。」
弱気と不敬を諫めるようにその名をよぶ。だがスファルは淡々と現状をのべ続けた。
「トビアス様の安否確認にむかわせた部下によれば、城門は閉ざされ、
王宮全体に風の盾が張られているとのこと。
城内の近衛兵も彼らの支配下におかれているため、調査には今しばらくかかるでしょう。署名した顔ぶれもまだ特定できていません。」
焦燥と苛立ちに拳を握り込む。
「一刻も早くもどらねば…」
「ルシアス。」
くいっとスファルに腕をひかれ、視線をあげる。
名前で呼ばれるのは随分久しぶりだ。
「疲弊している竜たちをこのままトロハの大滝まで連れて行くのは酷です。
幸い、火傷をしている個体も自然治癒で治る程度。
諸侯らの竜もふくめて、とりあえず全頭、第三放牧地に放しましょう。」
「承知しました。竜の様子は、私が。」
「…で、あれば、なおのこと、ご休憩を。風使いに発破をかけて船足をあげましたが、それでも標の石まで30分ほどありますゆえ。」
さあ。
スファルに腕をとられたまま、自室に向かって追い立てられるように歩きだしたルシアスだったが、ちりり、とちいさな警鐘をうけとり、眉をよせる。
貴賓室においてきた配下の精霊からの知らせだった。
「スファル。ちょっと、待ってくれ。速すぎる。」
「この程度で、だらしない。」
ぶつぶつ言いながらも手を放してくれた。
これ幸いと2、3歩下がり、距離をとる。
「先に戻っていてください。大人しくしているように釘をさしてから、行きます。」
蟷螂のごとく、きっ、とスファルがふり向いた。
「縛ってあるんです。鍵もかけているのだし、何もできやしませんよ。」
「さっきはまだ眠っていたので。起こして、しっかり脅してきます。
水は変幻自在。何をするかわかったものではない、と貴方も危惧されていたでしょう?」
最近は宰相職についたこともあって、必要と思えば年上のスファルに対しても、
そこそこ主張はする。
自分にも守りたいもの、譲れないラインがふえてきたからだ。
スファルの課す鬼畜の訓練をくぐりぬけて成長している自覚はあるし、
感情的な反駁ではなく、論理的な理由づけもできるようになってきた。
もちろん、政治的にスファルに不利益がふりかかるようなことなら徹底的に止められるだろう。
その基準でいくと、今回はかなりギリギリだ。
隣国の姫に安易に関われば、議会、貴族、国民すべてを、敵に回すことになる。
ルシアス自身、構うべきでないと分かっている。
分かっては、いるのだが。
「…宰相殿が御自身の立場の範疇で関わるなら、止めません。」
呆れたようにスファルが肩をすくめた。
「くれぐれも深入りなさいませぬように。」
そのまま船長室のほうへ足早に去っていく。
「…はい。」
ルシアスは、つめていた息を、ほう、と吐いた。
一緒に部屋のなかまでついてこられたら、
戒めを解いたことが知れて大目玉を食らうところだった。
左右を見て人の目がないことを再度確認。
手早く鍵をあけて部屋にするりと入り込み…ルシアスは舌打ちまじりに注意する。
「……まったく。そなたは、一体、何をしようというのだ」
こんなに早く戻ってくるとは思っていなかったのだろう。
ひどく思いつめた表情をしたアリシア姫が、部屋に置かれていた花瓶をぎゅっと握りしめ、妙な姿勢のまま、固まっている。