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「ライノ」
壁に固定された寝台の上。枕元におかれた籐の丸籠をそっとあけ、飼い猫の名を呼ぶ。
「にゃぁーぐ?」
緑色のガラス玉のような目が、まばたいた。
籠から山形に体を持ち上げ、黒猫がぐぐっと伸びをする。
「せまい所でごめんね。もう少ししたら落ち着くとおもうから」
両脇に手を差し入れ、猫の額にキスをする。
その時だ。
地平線の彼方から、音の波がやってきて、身のうちを通り抜けていった。
ケーーン
少し金属的な、けれど確かに命あるものが発しているとわかる音。
異質で、すきとおっていて、これは、なに。
「あっ」
ぶらーんと体をのばしたまま大人しかった黒猫が、ハーネスをつける間もなく飛びだす。
胸を足で蹴られてよろめきながらも、捕まえようと手をのばすが、とどかない。
わずかに開いていた扉から外へ走りだし、手すりの隙間をウナギのようにすりぬけ、黒猫は草むらへ。
「ライノ!」
あわてて自分も手すりをのりこえ、後を追う。名もしらぬ背の高い草をかきわけながら猫の行く手に視線を走らせていったわたしは、ハッとした。
やや離れたところに、別の船列車が停車している。
高低差と生い茂る木々が邪魔をして遠目では気づけなかったのだ。
チョコレート色の船体。眩しいほどに真っ白な帆。
左右にふたつ、細く繊細な外輪をもっている。
風を動力とする帆船だから、装飾にちかいのだろう。
優美なその船の側面に染めぬかれた文様は、大鷲と竪琴。ローイエンの、国章。
…風の国の船、それも要人の乗っている公用車!
ライノは、そちらへ真っすぐ向かっていく。
「戻っておいで!」
(勝手に近づけば、射程圏内に入った瞬間、不審者として攻撃されるかもしれない。)
追う足が、迷いで鈍る。
どうしよう。
飼い猫を呼び戻すためにもう一度声をあげようと息を吸った時だった。
雷鳴のような轟音がひびきわたり、地が揺れた。
一拍おくれて吹き荒れた凶暴な風にあおられ、膝をつく。
大気が、熱い。何かが焼ける饐えた臭い。
何が起きたというのか。
ふり返ろうとして。
「見るな!!」
鋭い制止の声。
前方の帆船の甲板から何人かの男たちが飛び下り、こちらに向かって走ってくる。
「ライノ――…」
息苦しさの中で懸命に猫の名をよぶ。
こたえるように、腕に、ぬくもりがふれた。
ああ、よかった、無事で…。
「――探させているが、まだ見つかっていない」
明朗な男性の声が、響いた。
「!」
はっと息をすい、両腕に力をこめて身体をもちあげる。
片足に包帯を巻いた男が、ぼんやりとしたオレンジ色にそまりながら丸椅子に座り、静かに自分を見ていた。
窓にひかれているカーテンの隙間から、茜色の光が差し込んでいる。
夜明け…?
船列車の一室だが、セレナを出発した際に自室として与えられた場所と、
まったく間取りが違う。それにひどく静かだ。
船尾の巨大な外輪を回して進むセレナの船は、いつも爽やかな波音がしているのに。
「……ローイエンの、宰相様」
「いかにも。ここは、風の国。…気を失えれば楽だったろうに。ずいぶん、うなされていた」
慄然とした。
ここは、あの時、中州の反対側に停車していた風の国の帆船車の、なか。
あれは夢であって、夢でない。
わたしは昨日、最愛の肉親と猫と、多くの忠臣を失ったのだ。
心臓は早鐘をうち、額を汗がつたう。
捕らえられていたせいで背後を振り返ることはできなかった。
彼の目にうつっていた光景はどれほど凄惨だったのだろう。
「ぅう」
「…おっと」
目の前に陶器の深鉢を差しだされ、我慢できず胸につかえるものをもどしてしまう。昨日の昼餉。これを食べた時は目の前で母が笑っていたのに。
「もうこれ以上、わたしに構わないでください!」
手の甲で口元をぬぐい、違和感を感じた。
…そうだ。すべての拘束が、とかれている。
なぜ、と、言おうとした時だった。
「…宰相。こちらにいらっしゃいますか。お話が。」
部屋の外から思わぬ呼びかけがかかった。
「おります。今、でます」
すべらかな動きで壁にたてかけてあった槍に手をのばしながら、宰相が、わたしを見る。
「この部屋は、外から鍵がかかる。逃げようなどと、思わぬように」
悔しさに、きつく唇をかんだ。