閑話:収穫祭の朝
よく晴れた冬の朝だった。
この地の建物にはサーシャ公国でつくられた分厚い硝子がはめられ、厳しい寒気と風雪を防いでいる。ヴァールブルク領主邸の窓も、今日は一部が凍りついていた。
「陛下、先日は守りの石をありがとうございました。…つたないものですけれど、もし、お嫌でなければ―…。」
アリシアが一針一針丁寧に仕上げた銀の帯。昨夜小耳にはさんだ刺繍の件がちらりと脳裏をかすめるが、それを聞くのは今ではない。
「心から感謝する、王妃。…アリシア、そなたに締めてほしい。頼めるかい?」
国王夫妻の逗留する客間には、二人だけ。
昔から野営がおおく、簡単な食事や身支度は手早く自分でこなしてしまうルシアスである。
けれど結婚してからはアリシアに着付けを手伝わせることがふえていた。
義足の右足への負担をへらすため、ルシアスは自分の衣装のほとんどを長衣にかえている。
けれど防寒用の肌着や、軍事演習や狩りを行うための騎竜服は、両足をあげてとおすことになる。必然、誰かに支えてもらう必要があるのだ。
最初の頃は薄い肌着姿のルシアスを見るだけで赤面し挙動不審におちいっていたアリシアも、さすがに4か月めとなれば手際も良くなる。
「はい、陛下。」
自身の身体に両腕をまわし帯を締めるアリシアを優しい眼差しで見下ろしながら、成長したなぁと感慨深く思う。
「…アリシア、今日の収穫祭、どうする。参列はやめておくか?」
ヴァールブルクの民は、風の国のはじまりの一族のひとつで、もとは狩猟を生業とする集団だ。
収穫祭での供物は、獣。
儀礼的なものとはいえ祭主をつとめる領主が供物となる獣を麻酔薬の塗られた矢で仕留め、それを捌き日々の営みを感謝する祭りなのだ。
国王の務めは獣を楽で慰撫し、輪廻の輪にもどれるように祈りをささげること。
どれほど必要な事と理解していても、仮死状態にある獣の頸動脈を斬って血抜きをするような場面はつらいだろう。そのあとも切開、内臓処理、肋骨・骨盤の切断、皮剥ぎ…と工程は続くのだから。
熟練の匠の技は、一種神がかり的な美しさを持つ。しかし凄惨なことに変わりはない。
それでもあえて“と畜解体”を祭りの主眼にすえるのは、我ら人が生かされているものだという摂理を忘れぬため。
“竜と精霊は血の穢れを嫌う”これは、必要以上の殺生を行わぬという風の民の戒めの言葉だ。
とはいえ毎年その現場を女子供にまで見せつけようというのではない。領主夫人や王妃の参列は自由意志だ。
「マリアから祭りのあらましは聞きました。セレナの収穫祭でも大型魚の解体が行われる地域もあり、見学したことがあります。けれど獣の解体はまるで衝撃がちがいますよね…。」
「ああ。」
「でも、一度はきちんと目をそらさずに見ないといけないと思うのです。」
「…気持ちは嬉しいが、その、食事の時に思いだしたりしないかい。」
じつはアリシアは軽度の摂食障害と診断されている。宰相だったルシアスに拾われたころから食が細く、スープや野菜しか口にしない日も多かった。
結婚の約束をしてからその食事が気になり、さっぱりした生ハムやセレナの香辛料や魚をつかった料理をつくらせてみたりしたのだが、うけつけない時はすべてダメだ。
食べられないことが本人に余計心理負担をもたらすといけないということで、食事は着席ビュッフェ形式にかえさせた。
“水の標”を退任し、妃教育をうけるなかで王妃としての役割をこなそうと少しずつ前向きになったのが良かったのか、今はほぼ改善している。今回の視察先での食事が内心気が気ではなかったのだが、吐くこともなかったとマリアから報告をうけている。
ただ何事もガス抜きは大切とおもうので、自邸ではゆるい食事のままにしておこうと思っていた。
「今は、ルシアス様のお傍で生きたいと思っているので、だいじょうぶ、かな、と。」
しっかりした口調で答え、アリシアはルシアスを見あげた。
表情を引き締め、彼はアリシアを見下ろす。鳶色の瞳には確固たる意志があり、彼の威圧に怯むことはなかった。
「…わかった。我慢せず、無理だと思ったらマリアと一緒にユナ夫人の所に合流して振る舞い膳の補助にまわること。良いな。」
「はい、ルシアス様。」
「…そう、アリシア、そろそろ着付けにも慣れてきたようだし、もう一つやってもらいたいことがあるのだが。」
「なんでしょう?」
「結婚した夫婦が相手の無事や成功を祈って抱きしめあったり、口づけを交わしたりするのは知っているね?」
彼女の両親は鴛鴦夫婦として有名であり、彼女の父親であるエングランド王は出陣の際、王妃からの口づけを要求し話題となった。
娘であるアリシアがその姿を知らないはずはない。
「…はい。」
とたんに頬を染め、目をそらすアリシア。
「国主と国母は皆の模範。私たちも夫婦となったのだから、やはり互いを思いやる姿を皆に見せるのは重要だ。」
「…まさか。収穫祭で、く、口づけを、しろ、と…っ?」
「さすがにそれは“まだ”恥ずかしいだろう。だから、しばらくは二人きりで練習だ。」
年上の指導者という体で教え諭すポーズをとりながら、内心ルシアスは七転八倒していた。
照れ臭いのと、初々しいアリシアを滅茶苦茶にしたいという男としての性と、やはり閨教育は他人に任せるべきだったかという悔恨が嵐のように体内を暴れまわる。
表情にださない根性を褒めてほしい。
ルシアスは寝台に立てかけてあった仕込み杖を手に取り、戸口をむいて立つ。
「射手は公爵とはいえ足をやられてから初めての狩りだからな。私だって不安もあるんだよ。」
アリシアに背をむけたまま素直に弱音をはけば、背後のアリシアが弾かれたように顔をあげた。
「ルシアス様、ご武運を。どうか怪我をなさらずに戻ってきてくださいませ!」
トン、と温かい身体が背にぶつかってくる。
細い腕で、ぎゅうっとしがみつかれ、ルシアスは思っていた以上に動揺した。
「う、うむ、ありがとう。」
これが限界だろうと判断し、「では、行こうか。」と声をかけた彼は、う、と小さく呻く。
左腕にのりあげるようにしがみついてきたアリシアにひっぱられ、思わず上半身をさげた。
まさか、と思った瞬間、首筋に生温かい吐息と湿った感触がふれ、チュっと軽やかな音が耳にひびく。
「アリシア…?」
「え、え…??お母さまの真似をしただけですけど、わたくし何か変でしたか?これでいいのですよね??」
「う、うむ、よくできた。偉いぞ!」
日焼けしているためにわかりにくいが、ルシアスは羞恥で顔が真っ赤だった。
これは、すさまじい破壊力だ。儀礼的でないぶん、口にされるよりタチが悪い。
首筋にするキスは、執着…。いや、もちろんこの子は意味など知らないだろうが。
アリシアが母親の思い出を自然に口にだせるようになったことに安堵する。
それはいいのだが。
あなた方は子どもの前で何をやっとるんじゃっ、と、ルシアスは声にださずセレナ国王夫妻を怒鳴った。
参考:東京都中央卸売市場食肉市場6階「お肉の情報館」




