山茶花の咲く道で⑥
二人の仲は停滞中。
北限山脈には特に標高の高い3つの山がある。
三山は上から見ると三角形をつくるようにそびえており、その中心には中規模の扇状地がひろがっている。ローイエン辺境領ヴァールブルクだ。
扇状地をつくりだした水の流れは東大陸東部に3つの河となって流れ、クルド・カシューナ・サーシャ・セレナの国境となっていた。
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中央平原北部から反時計回りに各地の収穫祭をめぐったルシアス国王夫妻は、ついに最後の視察先であるヴァールブルク領に入った。
季節はすでに冬の初め。
車をひく竜たちもすっかり冬の装いとなり、足には霜焼けと滑りを防ぐ特殊な靴をはき、胴体をすっぽり覆う竜用のコートをつけている。
ヴァールブルクの収穫祭は冬籠り準備完了の打ち上げのような位置づけらしい。
「先導隊が雪かきをしてくれているからあと数時間で着くだろう。ただ、路面が凍っていて揺れることもある。気をつけなさい。」
サーシャ公国との境であるアルヴィン川を右手に見下ろしながら進む車中で、ルシアスはむかいに座るアリシアに注意をうながす。
「はい。」
目をあげて笑みを返し、けれどアリシアはすぐに手元に視線をもどす。
ルシアスに贈る帯の最後の仕上げをしているのだ。
ちょっと帯の裏側に刺繍をしていたせいで、かなりギリギリになってしまった。
もっとも、裁縫に集中している理由はそれだけではない。
各地をめぐる中で、知ってしまったのだ。
縁者をルシアス王の側妃として送りこもうと機会をうかがっている貴族たちが、存外多いことを。
他の事で気を紛らわせていないと、胸のあたりが、苦しい。
ルシアス様は頼りになるお方。
エスコートしてくださる手も、頭をなでてくれる手も、守るようにそえてくれる手も、みんな温かい。
でもルシアス様が“代償”のことを知ったら、きっとわたしを嫌いになるわ。
そうなったら、わたしはもう、お傍にいられない。消えるべきは、わたしなの。
だけど、まだ…まだ、大丈夫。
権勢をふるうために近づいてくる者の防波堤となれるのは、正妃であるわたしだけ。
ルシアス様にとって最良のひとが見つかるまで。
「…第一城壁をこえた。領都にはいったぞ、王妃。」
はっとする。
窓から外をのぞいてみた。
うす暗くて、よくわからない。
考え事に囚われているうちに、こんなに時間がたっていたなんて。
膝の上にあった帯をきれいにたたみ、隣りのマリアにわたす。
「あと7回、堀と壁を越える。…ヴァールブルクは国防拠点だから、領都ぜんたいが平山城になっているんだ。」
車輪の音が変わる。跳ね橋にさしかかったらしい。それからも何度か橋をとおり、そうして車はゆっくりと止まった。
一つ手前の宿場で着替えたため、すでに二人とも正装だ。
ルシアスにエスコートされてゆっくりと降りながら、アリシアは夫の動きをそっとうかがった。
国王として最初の視察だからと、彼は王都を発ってからずっと車いすを使っていない。
抜くと短槍になる装飾的な杖を持ってきてはいるのだが、ともすればそれも使わないで済まそうとする。困ったものである。
やはり少し右足を引きずっている。疲れがたまっているのだろう。
アリシアは領主夫婦との挨拶が終わったら杖を使ってもらうことを静かに決めた。
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「お待ちしておりました陛下。」
「「「「「「お帰りなさいませ、ルシアス様!」」」」」
城門前広場に整然と整列するのは屈強な兵士たち。その先頭に立つのは禁軍府の長アーサー・アレンス公爵。
ルシアスがヴァールブルク出身の私兵たちをあてにするのには理由がある。
前トビアス王は、戦力は多いにこしたことはない、と禁軍府だけでなく地元の軍事に関しても、スファルに丸投げしていた。結果、ヴァールブルク軍は、言葉は悪いが故スファル・バーナー近衛隊長の実験地となった。考案した対毒訓練や厳しい実技指導をつねに試され、生きるか死ぬかの瀬戸際まで追いつめられる地獄のような軍団。
辞める数もすさまじい。そのかわりに食らいついていく兵は、みな鬼神のごとく強い。
“影の禁軍府”と呼ばれる所以である。
2代つづけてヴァールブルク出身の王が立っている今は配慮があるが、この地は有事の際、捨て駒とされる確率が高い辺境領だ。
弱ければどちらにせよ国境を越えてきた侵略者に殺される。だから男たちは、打倒鬼畜教官!を合言葉に日々鍛錬に励んでいる。
スファル亡き今、その指導を請け負っているのは、スファルの右腕だったアーサー・アレンス公爵。なんと他領地の領主でありながら、名誉顧問として数週間に一度ヴァールブルクに足を運び兵たちを監督してくれていた。ゆくゆくは神童と言われる嫡男ルーカス・アレンスに領地経営を任せ、こちらに居を移してくれると言う。
「陛下、王妃様、こちらです。…お乗りください。」
「ああ、近衛隊長すまない。…相乗りで良いな、王妃。」
「はい、陛下。」
侍女頭であるマリアは荷物の搬入差配や、夫妻の部屋の準備にまわるので、ここでいったんお別れだ。
ヴァールブルク領主邸は、まさしく“城”だった。
荒々しい石積みの土台のうえに建つ質実剛健な姿。冬は雪に閉ざされるため、風の国の建物の屋根は急勾配で、窓も小さい。
アレンス近衛隊長に続き、館の裏口へと続く傾斜の緩やかな迂回路を進む。
ちなみに湖にうかぶ王宮にも側面の跳ね橋から騎竜でいける内部用の登城ルートがある。
それはそうだ。誰だって毎朝うん百段もある階段をヒイヒイフウフウ登りたくはない。
「領主城だけでなく、一般の領民の家にも「石落とし」や「狭間」があるぞ。街の道はわざと曲がり角を多く複雑なつくりにしてあって市街戦でもかなり持ちこたえられる。湧水の井戸も多いしな。」
「すごいですね…。」
アリシアは、ずいぶん昔に樹海の森の端で“時かけの鏡”をつうじて見たルシアスの若かりし頃を思いだしていた。
あの時はただ怖いと思った。だけどこうして国境の街にたってみて、この地に生まれ、生きるために、女も老人も子どもも相応の覚悟を抱いているのだと肌で分かった。
「カシューナ王国とは家畜の加工で、サーシャ公国とセレナとは精霊石や霊具の輸出入でそれなりの関係を保っている。だが遊牧民のクルドは別だ。自分たちの平原で飼育する羊や豚をなるべく殺さず北限山脈の獣で利益を得ようとする。彼らだって薪も必要だから、クルド側の前山は昔から向こうの猟域となっている。…ただ彼らは気が短くて猟も雑だし、山を荒らすんだ。山の知識も足りていないから死者も多い。三山よりこちら側は我が国の排他的猟域なのだが、向こうの不手際でこちら側にも雪崩がおきたり、な。」
「なるほど…。」
そして軍備強化の契機として決定的になったのが、あの事件だ。
「30年ほど前、クルド共和国軍とつながった山賊がこっちの放牧地に侵入し家畜を奪ったんだ。当然家畜主の領民は怒り狂い、国境をこえて家畜をとりもどしに行った。あとは泥沼だ…領民も防備するようになったのはそれが大きい。」
「みな大変な思いをして家畜を育て生活の根幹を支えているのに…感謝ではなく、悪意をむけられるのは哀しいですよね。」
はっ、とアリシアの背後で息をのむ気配がした。
「…?」
どうかなさいましたか?
「…っなんでもないよ。ほら、館についたぞ!」
ふり返ろうとしたアリシアをおしとどめるように、ルシアスの慌てたような声が響く。
左右にわかれて警護にあたっている兵士がビシッと敬礼をしたあと、ゆっくり城門をひらいてくれる。
ルシアス様のご親族に会うのだ。
緊張に手を握るアリシアは、ルシアスが少年のように耳元を赤く染めて前に座るアリシアを見つめていたことなど、知る由もない。
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「陛下のお元気そうな姿を拝見できて嬉しいです。…お初にお目にかかります王妃様。成婚式に参列できず申し訳ありませんでした。」
ランディ・ヴァールブルク公爵は、がっしりとした体つきの男性だった。
故トビアス王の長男で今年32歳。
若くしてこの地を任せられていることからわかるように勇猛果敢な性格がにじみでるような覇気をまとっている。顔だちは角ばっていてルシアスとよく似た銀の髪は短く角刈りにされていた。
成婚式に招待したかったが、いっときとはいえこの不穏な時期に国境を留守にするわけにはいかないという事で、新郎側の付き添いはトビアスの正妃であるエミリア様に、新婦側の付き添いはイザベラ・バーナー公爵にお願いした。
だからランディ・ヴァールブルク公爵夫妻とアーシャは、これが初対面となる。
「アーシャと申します。至らない点もあると思いますが、どうぞよろしくお願いいたします。」
挨拶をしてゆっくり顔をあげた彼女は瞠目した。
けっこう近くに闊達な光を宿したヴァールブルク公爵の大きな茶色の目があったからだ。
いつの間にか傍に近寄られていたらしい。
「…ランディ公爵、王妃が困っているじゃないか。」
ルシアスによって後ろに引き戻される。アリシアは自分の背を支えてくれる大きな手のひらから衣ごしに伝わってくる温もりに、ほっと体の力を抜いた。
やっぱり会って間もない人に近い距離によられると緊張する。
「失礼しました。驚かすつもりはなかったのですよ。……それにしても余裕がありませんね、陛下。」
前トビアス王とルシアスの両親はずいぶん前に他界している。兄弟ふたりとスファルで支えあいながら領地経営をしてきた。とうぜん、トビアスの子であるランディとルシアスの距離も近く、従弟というより年の離れた実の弟のような感覚だ。
スファルがあのとおりクセの強いタイプだったので余計に結束が固くなったのかもしれない。
「だから、距離が近い!寄ってくるな。じろじろ見るな。」
最初は真面目な表情で立っていたルシアスの口調がいつの間にか家族使用にもどっている。
「ほぅほぅ。囲いこむのに必死ですか。孤独死まっしぐらだと思っていたあなたがついに運命の人を見つけたとイザベラお姉さんから話を聞いた時には新手の冗談だと思ったのですが…。しかも身分違いの恋!!今年の雪が深いのはあなたのせいかな。」
ヴァールブルク公爵は、身内に対してはかなりお茶目なタイプらしい。
ルシアスが、はぁっと深くため息をついた。
「…おい、分かっているとは思うが、アーシャが養女だという事は…。」
「いいませんよ。当然、ユナもね。…アーシャ様、私の妻のユナです。」
「ユナと申します。よろしくお願いいたします。」
「こちらこそよろしくお願いいたします!」
ヴァールブルク公爵夫人はおっとりとした雰囲気のひとだった。
「…あなた、お二人とも身体が冷え切っているでしょうから、先にお部屋に。」
抑揚はやわらかい。けれど芯のとおった声だった。
やはり領主夫人。王女として生まれたとはいえ、アリシアは神殿に入っていたことで世事に疎い。社交話術や夫の補佐的なふるまいなど、彼女に学ぶべき事がたくさんあると、アリシアは気を引き締める。
「…あ、ユナ夫人。先に知らせていたと思うのだが、私たちの寝室は別に…。」
客間のほうに移動する途中。
ひっそりと女主人をひきとめてそう言ったルシアスは、固まった。
ふり返った公爵夫人は優雅に微笑んでいる。
けれどその目が笑っていない。
「申し訳ありませんが、うちの館はそこまで広くありませんの。しばらくゆっくりなさるでしょう?長逗留にむいた日当たりの良い客間は“家族むけ”の続き間だけです。寝台はもちろん逗留人数分用意いたしますし、侍女や側近用の控え室は隣室にありますが、主賓の方の別室対応は、うけたまっておりません。どのように使うかはお二人で話しあってくださいませ。…けれど結婚後まもない旦那様に居間のソファーで寝ると言われたら奥様は何か気に障るようなことをしてしまったかもと思って不安になるのではありません?」
「…彼女は、母親と死別していろいろ苦労している。放っておけなくて連れてきてしまったのは、私の我儘なんだ。恩人として、家族として慕ってくれているけれど、“妻としてのもの”ではないと思う。」
久しぶりに懐かしい顔を見て、収穫祭も残すところあと一つ。
多少の気のゆるみと、明日の収穫祭後にくる数週間の余暇をどうすごせばいいかという不安。
気づけばこぼす気のなかった心のうちを吐露していた。
「…アーシャ様の侍女頭からお二人が初夜を日延べしている事をききました。ああ、叱らないでやってくださいな。領主夫人権限で私が話すように命じましたの。部屋を別に、と手紙が来た時から、予想はついていましたわ。お二人の感情にズレがあるのかもしれないと。」
「面目ない…。私はやっぱりこういう事はどうもうまくできなくて。」
ルシアスは肩をおとした。
「…私の主観ですけれど、おそらく自覚していないだけでアーシャ様は陛下を異性として想っておられます。」
「根拠は。」
気休めはやめてくれ。
片手で顔を覆い呻くように言ったルシアスの様子を見て、ユナ夫人は苦笑する。
「アーシャ様が、陛下に安心して背を預けているからですわ。…女というものは、生理的に受けつけない男性に対して背後を許したいとは思わないものですよ。」
「そういうものなのか…?」
思いもよらなかった。なぜなら。
「向きあって話すような時は、たいがい彼女は伏し目がちでやや下をむいていることが多いんだ。目をあわさないっていうのは、やっぱり怯えられているんだと思って…。」
「私たちのことは真っすぐ見てくださっていましたよ。対人関係にやや不安を抱いているのがアーシャ様の現状だとするなら、頑張るのは、陛下をお支えしたいと一生懸命だからですわ。そしてふれることを許されている陛下はやはり“別格”なのです。侍女頭によれば、アーシャ様は、陛下が自分にとって“大切なひと”であると、理解していますよ。自発的にその言葉を贈り物に刺繍されたそうですから…。」
「聞いていないぞ、なんの話だ?」
驚いた顔で公爵夫人の顔を凝視したルシアスの肩を、トントンと叩くものがいた。
「陛下、あなたも人妻に近づきすぎです。そろそろ我が妻を返してください。」
ランディ公爵だった。この人も愛妻家として有名なのだ。
はっと廊下をみれば、アリシアはとうにいない。話し込んでいるルシアスに気をつかって先に行ったのだろう。
「陛下。忙しさを理由に逃げていると、取り返しのつかないことになりますよ。“また”失いたいのですか?…アーシャ様は正妃として社交に臨まなければなりません。必要とされている、愛されているという自信が必要です。言葉と行動で、毎晩伝えてあげてください。」
「……ありがとう、ユナ夫人。ランディも長々と奥方を借りてしまってすまなかった。」
「かまいませんよ。明日の収穫祭、しっかり頼みますよ。」
「あい、わかった。」
「ではまた後ほど、食堂で。」
ルシアスは公爵夫妻に謝意をつたえ、客間へとむかった。




