終章:風の国の王と水の国の姫②
目を見張ったあと下をむいて押し黙ってしまったアリシアをしばし見つめ、彼はおもむろに足元の籐カゴを、アリシアのほうへおしやる。
「探し物が見つかった。あけてごらん。」
「…?」
怪訝な表情でカゴのふたをあけた彼女は、硬直した。緑色のガラス玉のような目がじっと自分を見あげている。
「黒猫―…?ライノ…に、そっくりの?」
ルシアスが優しく微笑した。
「ライノだと思うぞ。三つ子山のすそ野の木立の中で、部下が見つけてくれた」
「まさか…そんな、」
籠の前に、へたり、と座りこみ、おそるおそる黒猫をかかえあげた。
「にゃーぐ」
黒猫の耳はやや後ろをむき、両側にひらいている。目がまんまるで体が硬い。
「ほら、広い所にだすとおびえるだろう。それに音にものすごく敏感だ。まちがいなく本物だよ」
「こ…わかったね…ごめ…ねぇ」
声にならなかった。ぎゅうっと抱きよせる。
ルシアスは、もうひとつの木箱を、そっとアリシアの方に近づけてあげた。
「ヴォロス高原は基本、立ち入り禁止にしているんだが、三つ子山の山上で物見をしている警備兵が日の出や日没に、異様に河の水面が光ると報告をあげてきてね。もう一度、様子を見に行ってきた。」
ゆっくりと木箱の蓋をあける。ギイ、と金具が重たげな音で鳴いた。
「これは…」
木箱の中できらきらと光をはじく金貨をアリシアは呆然と見つめた。
「そなた達がトビアス王に献上する予定だった金の一部だ。あの魂鎮めで水が少し浄められ見通しがきくようになったから見つけられたのだと思う。何枚かはあの河の主に捧げ、あとはすべて回収してきた。1万5000ガロン、というところかな。」
東大陸では交易を円滑に進めるため、金貨の重量と質を統一している。
異なるのは形やその模様だ。これは今のセレナで発行されている金貨。表にはアリシアの父の、裏には母の肖像画が刻印されている。小さく震える華奢な指が、ゆっくりと一番上にあった一枚をとった。
「一枚だけ、わたしにいただけますか。」
祖国の思い出のつまった飼い猫と金貨を抱えて涙を流し続けるアリシアを穏やかに見下ろし、ルシアスは言った。
「この一箱は、そなた個人のものとして好きにつかいなさい。残りはそなたの持参金としてすべて私が受けとる。この返礼金のおかげで、財務省を抑えることができた。情勢がおちつくまでローイエンは国交をとじ国力の底上げに専念できる。セレナに感謝を。そなたに祝福を。責任をもって、輿入れにふさわしい支度を整えさせよう。そなたは胸を張って私に嫁いでくればよい。」
「……。」
ルシアスは茶碗に手をのばした。
ゆっくりとひじ掛けに身をあずけ、茶を一口、二口と飲む。美味い。
そのまま時間をかけ、一杯を飲みきった。
ことん、と器を卓上にもどし、かわりにアリシアの華奢な顎をとらえる。
「…若い娘が気ままに流浪できるほど今の東大陸は平和ではない。猫連れではなおさら。猫は家につくというだろう?このままここにいなさい」
囁きかける彼の表情は、娘を溺愛する父親のように甘やかだ。
アリシアは嗚咽をおさえるためにゆっくり息をすう。
この優しい腕を頼って羽をやすめたい、という思いはつのるばかりで、苦しくてたまらない。
けれどこのまま婚姻を受けるのは、やはりアンフェアだ。
たまらなく辛いけれど。この人に少しでも長い時を生きてもらうために意を決して切りだす。
「あの、陛下」
「二人の時は、ルシアス、と」
「……ルシアス、さま。」
「うん。なんだね?」
「私は嫉妬深いのです。このままこの国に残れば、私だけを見ていてくれるように、侍女たちにルシアスさまの行動をずっと見張らせてしまうかもしれません」
ただひたすらに、真っすぐな、その姿。
ルシアスは、ふわり、と眼をおおきくした。あいかわらず儚げな表情で、潔癖な印象のほうがつよいのに、女としての片鱗をほのかに立ちのぼらせるその言葉に、身の内がざわめく。
(何を言いだすかと思えば…。)
その間もアリシアの激しい言葉は続く。彼女はわざとらしいほどの高慢さで要求を連ねた。
「女性の方をよぶ接待の席におもむかれる時は、必ずわたしもお連れ下さい。他の女人に心奪われそうになったら、お尻をつねってさしあげなくては。わたくし、こういう狭量な女なのです。お嫌なら、結構。このままお暇させていただきますわ!」
「…」
獅子に似たルシアスの瞳が、鋭く光る。
過剰な束縛や高飛車な物言いを嫌う男は多い。だが、時期尚早だからと懸命に自らを宥めている私にとっては、今のは不意打ちでもたらされた甘美な睦言にひとしい。
ああ、娘ほど年の離れたそなたに、私はすでに、こんなにもとらわれている。
ルシアスは、わきあがった情欲の焔をかみ殺すべく、きつく目をつむる。
「かまわぬよ。」
「…え。」
「そなたの気のすむように。」
目をあければ、狼狽える少女の姿。
ルシアスは、つい、と目をすがめた。
やはり、わざと私を怒らせようとしていたか。残念だが、今更そなたを手放せるほど、私はできた人間ではない。それにそなたの顔だって。
試すような言葉を口にしながら底知れぬ孤独をにじませているではないか。無意識にすがりついてくるそなたの、なんといじらしいことか。
心底惚れこんでいるから杞憂だと、浅ましい激情をたたきつけて今ここで抱いてしまったら。きっと、そなたは泣くだろうから。
「先王の喪が明けたらすぐに式を挙げる。私以外の者がいる時はそなたは『アーシャ』だ。これからは公の場にたつ機会も多くなる。言い間違えぬように。良いな?」
彼はかわりに有無を言わせぬ口調で一気呵成にアリシアを束縛した。
鳶色の瞳に翳りをのこしながらも、アリシアが勢いにおされるように、頷く。
「…はい。陛下」
緊迫した空気を変えるように、ふ、と身体の力をぬき、彼は苦笑した。
「ルシアス、だ…」
この前はあんなに甘い声で何度も、よんでくれたろう?
おだやかな陽ざしに照らされた明るい部屋で、一転して妙につやっぽくささやかれ、アリシアの頬が朱に染まる。
「…さあアリシア。こちらへおいで、」
両腕でつつみこむように柔らかな体をまねきよせ、そっとだきしめる。
「これで、そなたを真の名でよぶのは、私だけ。…私も存外に嫉妬深いのだよ?これで、おあいこだな。」
やさしいひと。
アリシアは、瞳を潤ませる。そんなことを言われてしまっては、もう、抗えない。
おずおずと、その大きな胸に体重をあずけた。
伴侶となったひとの肩にうずもれて、アリシアは身を縮める。
言えなかった。たぶん、もう、言えない。
『水の標』との契りには、もう一つ大きな代償がある。精霊から得る加護が大きければ大きいほど、代償も苛烈なのだ。伝えるタイミングを逸した秘密は、日に日に自分たちをおいつめるに違いない。それでも、もうすこしだけ、このままでー…。そう願ってしまう自分の心が、こわい。
「…忘れるところだった。」
ルシアスがパンパン、と手を打つ。
「失礼いたします。」
合図に応じて静々と入ってきたのは黒い髪と茶色の瞳をもつ女性だった。
「マリアだ。そなたの侍女頭をしてもらうつもりでこの屋敷に呼んだ。私の部下の娘でね、彼女の母君はセレナの人だそうだ。今回の列車事故の調査でも協力をお願いした。」
細かな説明をされなくても、自分に調査の目がいかないよう彼女が骨を折ってくれたのが分かった。だって彼女はこの国にきたばかりの頃のわたしとよく似ている。
慌ててルシアスの腕の中から逃れ、マリアにかけよる。
「本当に、ご迷惑をおかけいたしました。その、ひどい事をされませんでしたか。わたし、どうやって償ったらよいか…」
「何も心配することはありません。わたくし、強いですから!」
マリアにぎゅっと手を握られ、瞠目する。
「大丈夫ですよ。償いと言うならば、今夜の採寸に全力で臨んで下さいね。…まあ、本当にお美しい金の髪。これからもお傍でお仕えいたします。なんでも相談してください。そして毎朝この御髪をととのえ、お后様を着飾る特権をわたくしに与えてくださいませ。」
「え、ええと…。」
ルシアスが苦笑する。
「逞しいぞ、マリアは。そなたにとってよい助けになるだろう。協調性があるから仕事はできるんだが、私生活がどうにも個性的すぎていまだ独身だ。この細腕で凶悪なグリズリーをすでに3回も仕留めているんだ。」
「好きな楽器はホルン…カタツムリのようなあの楽器です。趣味はキノコの研究と動物の解体でございます。」
「か、解体、ですか…。」
「この者と一緒なら、たとえ冬山でも遭難しない。そなたのお目付け役としては適任であろうよ。」
「……。」
沈黙してしまった彼女は、再びグイっと引っ張られ小さく悲鳴をあげた。
膝の上に座らせたアリシアの金の髪に口づけをおとし、満足そうに喉をならしてルシアスは笑う。
「陛下!そういうことはお式が終わってからにして下さいませ!!」
マリアが、くわっと牙をむいた。
「分かっている。無理強いなどするものか。私は王妃を『愛している』からな。」
マリアが呆れたように肩をすくめる。
頬を染めて硬直するアリシアを楽しそうに見つめ、ルシアスは会心の笑みをうかべた。
これで第一部の本編は、完結になります。
このあと番外編が2本あります。
続編「不器用な風使いと西の魔女」完結しました。
15年後の世界で、親世代(ルシアス達)と子世代、両方登場します。




