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「スファルっ!」
最後の命に応え、剣となった風は従順に、容赦なく、主の心の臓を貫いていた。黒衣が破れ、せきこんだスファルの口元から赤黒い死のにおいが立ちのぼる。
風笛が大気を哀しくゆらす。一つの契約がとけ、精霊がはるか高みにのぼっていった。
…ちがう。二つ、だ。
―あれは。
「…兄上の『神楽』…」
スファルが倒れると同時に天に還ったということは、すでに『神楽』の契約者はスファルにかわっていたという事。
いつから…なぜ?
わからない。
だが兄王とスファルの間で、なにがしかのやり取りがあったのだ。
くずれおちる身体にようやく手が届いた。傷口は、ささえた背まで貫通していた。生暖かい命の源が手を濡らす。それなのにスファルの褐色の双眸は、あいかわらず鷹のごとく剛い。
ルシアスは怒鳴った。
「どういうことだ!」
老臣の口元が、かすかにゆるんだ。
「…私に頼らず先に進むことを選ばれた英断に敬意を表し、私の有する情報のありかを、教えてさしあげましょう。王立図書館の、私の私書箱の中をご覧なさい。…清廉さだけで国を治めることは、難しい。王座は、孤独で、非情なもの。手をゆるめることなく、ひとつずつ、確実に、処理…なさいませ」
おおきく息をすい、スファルがゆっくりと目をとじた。
「まてっ…スファルっ…」
重さの増したその体とともにずるりと地面に膝をつく。
最期にスファルが浮かべた表情は、老獪なスファルにはまったく似つかわしくない、晴れやかさだった。いや、一度だけこんな表情をみた。あれは、ルシアスが、はじめて勝者の栄誉をえた御前試合の日…。
吹きすさぶ風のなかで呆然と座りこむルシアスの背後から声が、響いた。
「―…ルシアス様。船にお乗りください。王宮殿へお送りいたします。」
力なくふり返る。
アレンス近衛副隊長だった。
「隊長からの遺言なので。ルシアス様が大滝をこえられたら、万難を排し王宮殿へ必ず送り届けるように、と。」
「…遺言?」
「隊長は、最初から殉死を心に決めていらっしゃいましたから。……トビアス殿以外に仕える気はないと。」
次期王への譲歩でも服従でもなく、殉死…。
「つまり兄上は、もう…?」
「はい。私が執務室でトビアス殿のご遺体を発見し、隊長に報告いたしました。ルシアス様が龍王陛下とお戻りになられたあの日です。隊長と私だけで王宮の貴賓室に安置し、凍結処理をほどこしました。」
「…―そんなに前に…?」
なぜ私に一言の断りもなく…ちがうな、やはり私は最後まで蚊帳の外。
「人生の幕引きまで二人で勝手に取り決めて…宰相としても弟としても信用されていないのだな。」
自嘲するルシアスを静かに見下ろし、アレンス近衛副隊長が言った。
「あの方たちのお心すべてを察することは到底私にはできません。余人には立ち入れぬ絆で結ばれておりましたゆえ。ただ、ルシアス様以外のものが『大鷲』になった場合は、私書箱の中身をすべて破棄するように命じられていました。情報を託せる方だと。ルシアス様を認めておられたのだと、感じます。」
「……」
それでも、前回の競いあいで自分が最初から勝っていたら、たぶん兄もスファルもこんなに早く逝かなくてすんだのではないか?
「もどりましょう。龍王さまがお待ちです。…隊長も…人前ではいつも気を張っておられましたが、ここ数年、私を含め古参の部下には『疲れた』とおっしゃることがふえていました。…お二人を一緒にしてさしあげましょう。」
幾度もうながされ、老臣の亡骸とともに、よろめきながら立ちあがる。
小さいのに、ずしりと重いスファルの体。
この小柄な体で、国政のかじ取りの重責を兄と分け合ってきたのか。
のろのろと船へむかう。
右足のかわりに槍をつくたび、シャラン、シャラン、と寂しい音がひびく。
本当は、主を…朋友を失って相当ショックだっただろうに、緘口令をしき、懸命に心を奮い立たせて。次の治世に害をおよぼしそうな芽をつむために慌ただしく動き回って…。
「…本当に、最後まで勝手な人だ、あなたは…」
勝手にお膳立てし、勝手に先回りして、のこされる者の気持ちを置いてきぼりにして旅立った。
身勝手で薄情な、忠臣。
王宮にもどる船の甲板。小さく震える声で葬送の調べをくり返す。
永遠の眠りについたスファルは生前の険しさとは真逆の穏やかな表情をうかべていた。
ルシアスは不甲斐なさをかみしめ、蒼穹を仰いだ。




