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崖の上…つまり王都の端は、近衛隊長や駐屯軍の師団長が新人兵を特訓する訓練場でもある。
風兵の第一歩は、グライダーで崖から飛びたち、できるだけ長く滞空すること。
ここは格好の練習場所だ。まず最初は眼下の景色におびえて腰が引け、パニックになる。飛びたてたとしても、不規則な風の動きに泣かされる。ようようグライダーが扱えるようになったとして、ここからが地獄の特訓のはじまりだ。
獅子は我が子を云々の格言どおり、悪魔の笑みをうかべた上官に演習中何万回も不意打ちの風で崖下まで突き落とされるのである。岩や地面に叩きつけられないために、皆、必死だ。まずは落下速度を弱めて受け身をとる練習。慣れてくれば、落ちながら周囲の状況をよみとれるようになる。一兵卒に滝をのぼる船など用意してくれるわけもない。当然、帰りは上まで自力で這い上がるのだ。できる限り早い段階で体勢をたてなおし途中で止まれれば、のぼる体力は少なくてすむ。ここで精霊を従える力が弱い者や体力がない者は、治癒や補給などの後方支援にまわるか除隊するかの決断を迫られる。
一時期、近衛隊に所属していたルシアスも、そうやって風をあつかう技術を徹底的に仕込まれた。近衛兵は給料も世間体も段違いにちがう。兄に恥をかかせないようにと近衛隊に入ったが、 スファルの扱きはすさまじく、その旗下に入ったことを悔やんだことは数知れない。
近衛隊では、登攀組と風兵組2班にわかれての実践型演習が、毎週課されていた。登攀組にふりわけられた日はグライダーを一日没収されて、とにかく頭上からの攻撃をかわす特訓をさせられるのだ。
ほんとうに、契約した精霊に優しく運んでもらえることのなんと素晴らしい事か。
飛燕に抱えられ無事に崖の上の草原に着地したルシアスは、ほっと安堵の息をつき…息を飲む。
竜をひき、岩影にひっそりと佇む男。
「スファル…」
瞬時に身構えながら、感情を殺し、問いかける。
「バーナー公爵。あなたには、先王トビアス様の行方を第一に探してほしいと、お願いしました。」
老臣の眉宇にかすかな翳りがさす。スファルが口を開く気配は、ない。
「…近衛隊長。先王トビアス様の行方はつかめたのですか。」
「…」
「知り得たことすべてを開示してほしいと言っているわけではありません。依頼した件の進捗状況を教えてほしいのです。」
あいかわらず老臣は無言だ。だがその褐色の瞳が、かすかにゆらぐ。
寂寥感?悔恨?
老臣の感情をよみとこうとするルシアスから、スファルが ふい、と顔をそむけた。
「捜索の命は受けましたが、報告の義務は課されておりません。」
「…大鷲としてバーナー公爵に要請します。報告を。」
「お答えできません。本気で王位を望んでいない方に告げて意味がありますか。」
「私は、王になると決めた。」
「何のために」
「守るために」
ふ、とスファルが小さく笑う。
「ではなおさら報告しても無駄でしょう。」
「…スファル」
痛みをこらえるように一度まばたく。
ディアス伯の王宮占拠があった時、スファルは近衛の長でありながら、トビアスをもう王ではない、と言った。彼にとっての王とはなんなのだろう。そして彼の描く風の国の未来はどんなものなのだろう。
「私には王はつとまらぬと…認められぬと、貴方はお考えなのですか。」
スファルがゆっくりと顔をあげる。そして炯々と輝く鋭い目でルシアスを睨みすえた。
「王座とは。義理と道理を失わせる獣の座。民を守ることが、国を守ることと衝突することは、よくあること。守るために王になり、非情な選択ができずに壊れ、結局己の命も国も滅ぼした愚かな王を、私は何人も知っています。今のあなたに胸の内を語ったところで、あなたが納得するとは到底思えません。よって、黙秘します。」
ルシアスは、ひるまなかった。かつての武術の指南役だから、兄の知己だから、と、遠慮はできない。
「私が動けないのなら、代わりの者を行かせます。私は、この国を強く、豊かにしたい。我が国は泰平に慣れきっていた。ハッバスとの交戦の可能性を念頭に、早急に男女問わず本人の特性に応じて研鑽をつめる訓練校を増設しようと思っています。…どうしても単独行動を貫くと言うのなら、あなたの爵位をはく奪し、東塔への無期蟄居を命ずるが、よろしいか」
さざ波が寄せるように、スファルの面にあらわれ、消えていく、複雑な感情。
スファルが口の端をもちあげた。
「……“お断り致します”自由に政務をとれぬ余生に興味はありません」
次期王となる者の言葉を軽々となげすて、スファルは中天をみすえて決然と告げた。
「…『黒狼』」
老いたとはいえ、風の国最強の長刀使いと言われたスファルの強さはケタ違いだ。
空間が、たわむ。
ああ、この人とついに刃を交えることになるのか。
“笛将軍”との一戦で、だいぶん消耗している。老練なスファル相手に風の精霊を従え続けられるか?たとえば系統の違う水を遣えば、スファルの意表をつくことはできるだろう。水の加護を受け継いだ今のルシアスが呼びかければ、大なり小なり水は応えてくれるはずだ。
だが、それは決してやってはいけないこと。その力がどこからもたらされたものか、誰の目にも明らかになる。国境を越えて入ったアリシアは勿論、それを個人的に匿ったルシアスも議会で弾劾される。
動揺するルシアスを無視し、スファルの唇がうごいた。
「ヴィダーゼーエン…」
身構えたルシアスは、風の軌道に気づき、息をのむ。
まさか、そんな。
「…まてッ…盾っ!」
まろびながら懸命に足を動かし、かけよる。
風は、とまらない。間にあわない。
「殺すでない!」
どぅんっと空からそそいだ黒き稲妻がスファルの体にぶつかる。
暴風が吹き荒れ、周囲の木々が同心円状に倒れた。




