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ふわり、と横むきに鞍上にのせられて驚く。
「行こうか。」
くしゃり、と髪をなでられる。今朝目覚めてから、ふとした時にくり返されるそのふれ合い。
「風の盾をはる。私から離れるとそなたの気配だけもれてしまうから気をつけないといけないよ。」
風の精霊の目は千里を飛び越える。
トロハの大滝に近づくまで自分たちの動向を探られたくないのだ、と言っていた。
彼らが山小屋を発ったのは、陽が中天にかかるころだった。
それでも竜がすすむたびに、その足元でさくさくと霜柱がなる。
ルシアスは中央平原の辺境をめぐる街道ではなく、北部山地の比較的標高の低い部分をとおっていく林間道へと竜をすすめる。
竜は上下運動があまり得意ではない。だからゆるい傾斜のままひたすら進む。
それでも一時間もすると左手の木立の向こうにのぞく平原はずいぶん下になり、人々の営みは茫洋として、ただ鳥の声のみが響くようになった。
「まだまだ寒くなるぞ。」
その言葉どおり、足元にちらちらと混じりはじめた雪は瞬く間に嵩を増やし、いまや竜の膝丈である。
天気はよい。
けれど周囲をとりかこむのは、葉も幹もいまだ雪と氷でおおわれた白き森。
右手の樹氷がまばらになり、雪原が広がる。
否、雪に埋もれているが、川だ。
すこし向こうに山間部にすむ民が架けた鉄橋が見える。
凍りつく橋の下。見わたす限り真っ白な世界のなか、なかほどに残る瀬が鮮やかな空を映じて水色の帯となって続いている。時おり氷に閉ざされながらも続いていく雪解け水の流れ。
けれど魂に呼びかけてくる精霊の声はもう聞こえない。
「静かですね…」
ぽつり、と呟く。
金の瞳がこちらを見た。
「…笑っていてほしいが、無理はしてほしくない。」
ぐいっと肩をひかれ、引き締まった上半身に密着するような体勢になって、どきん、と心臓がはねた。
「あ、あの」
彼の外套に匿ってもらうのは昨日までと同じ。
けれど違うのだ。今までとは距離感が。
決して嫌ではない。ただ、落ちつかない。
「……風が、変わった。」
「え」
ちらり、とすぐ真上にあるルシアスの顔をうかがう。
鋭くひきしまった表情をしている。その顔を見て、何か起こるのだと分かった。
陽の光が刹那翳る。
荒々しい翼の音とともに、巨大な翼龍が舞い降りおりた。
ぶわっと凶悪な風がかけぬけ、思わず片腕で顔をかばう。
「貴様らを探す風どもが騒がしくておちおち昼寝もできんわ。引っ掻き回すのも大概にせよ!」
おしよせてくる龍気に当てられ、アリシアの身体がガタガタと震えた。
ただびとに、この気配はきつかろう。
「動いてはいけないよ。」
大丈夫だと励まして手綱を握らせ、ルシアスは地面におり立つ。
「お騒がせしております。スロヴォの魂鎮めを行ったのです。」
低い唸り声をあげる龍王の前で、槍を支えにゆっくりと跪拝の礼をとる。
最近ようやっと左足だけでバランスをとることに慣れてきたところだった。
「そうか。では、もうよいかのう。…その娘、我が食ろうてやろう。」
ふうううっと生臭い息をはきだしながら龍は言った。
「美味そうよのぉ…。加護もちでなくなっても相変わらず美しい魂だ。」
たらーり。龍王の口から滴った涎が、じゅっ、と雪を焦がした。
「龍王陛下。この娘は、隣国から預けられた国賓です。」
「だからお前も、もてあましているのだろう?いつまでもグズグズしているから、我がこうして来るはめになった。」
龍王の猛る視線は、まっすぐに騎乗のアリシアへと注がれ続ける。
炯々とした赤い眼に飲み込まれ、アリシアの表情が、ぬけおちていく。
彼女の腕から力がぬけ、手綱が緩んだ。
いけない!
制止の命が弱まりふらふらと進みはじめた竜を睨み、ルシアスは懐からとり出した笛を、鋭く鳴らした。はっと竜が足をとめ、龍王も不快そうに目を細める。
「なぜ阻む。我はな、憂えておるのよ。その娘の出自が明るみにでれば、お前に縁のあるすべての者が巻き添えを食う。有能な人材を失った国は倒れ、海の向こうの脅威がこの地を飲みこみ、血の雨がふるだろう。……さあ娘、楽になりたいのだろう。来い。」
龍王のいざないに従って、竜の背から、ずるりとアリシアがすべりおりた。
「アリシア」
はっ、と息をすい、アリシアが硬直した。
「それ以上行ってはいけない。」
龍王の足元には岩がある。けれどそれ以外は凍てついた水を内包する薄氷だ。
ルシアスの険をおびた声が、甘美な死への歩みを、制する。
「……」
ゆるゆると表情に自我がもどっていく。
かわりに鳶色の瞳に表出した苦悩を見ぬき、龍王が巨大な口をゆがませて笑った。
「ルシアスよ。たった一度契っただけで自分のもの扱いか?余計な口をはさむでない。心配せずとも貴様もすぐに食ってやる。王になることに迷いがあるくせに、分不相応な力を手に入れおって」
口の端がめくれあがり、鋭いきばが、ぞろり、とむきだしになる。
ルシアスは毅然と龍王を見あげた。
「憐憫で交わりをもったわけではありません。私はアリシア姫を王妃としてむかえるつもりです。事態の早期終息に全力を尽くすことを、“風の国の王として”お約束いたします。」
「王妃…?」
呆然と呟くアリシアの姿を優しく見つめルシアスは言った。
「なぜ驚く。そなたの力も命も、丸ごと預かると言ったろう。私の妃となれ。」
さらりと結婚宣言をしたルシアスを見下ろし、龍王は赤い眼を眇めた。
「その娘をこの地から放逐する気はない、と?」
「ございません。」
闇色の鱗を震わせ、天地をとどろかせる雷鳴のごとく、龍は嗤った。
「……セレナに不利な情報を故意に隠蔽してきたのではと、そなたの行ってきた政務全般にまで不信感をもつ者がでている。各部署から続々と代表者が選出され、滝の元でそなたを待っておるぞ。そなたの覚悟見せてみろ。『すべて』うまく処断できたなら、そなたが次の『風の国の王』だ。」
荒々しい風と共に翼龍が飛びたち、黒い塊が二人の目の前に突っ込んでくる。
「っ」
ゴおおおおという突風とともに巨大な鉤づめが頭上をかすめ、小さな悲鳴をあげたアリシアを遥か高みに攫っていった。
「…王宮殿で待つ。お前が戻ってこられぬその時は、我が、争いの根源をすべて食らい、あるべき流れに正す。」
王都へむかい悠然と飛翔する龍を見送り、ルシアスはたった一人、決戦の場へとむかった。




