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ひそやかに男爵邸をぬけだし、標の星をたよりに針葉樹の森をいく。
「体調は大丈夫か。」
「はい。」
アリシアがこくりと頷く。
「礼が遅くなったが、見事な浄めだった。…しかし、そなたが連れ去られそうで、肝が冷えた。」
「わたしの力を少しあの方にお譲りしました。わたし、力加減を誤って王都を一時冠水させてしまうほどの加護もちなので、大丈夫ですよ。」
「それは…。でも、とにかく無理はしないでくれ。心配なんだ。」
アリシアが、どこか曖昧な微笑をうかべた。
「もう、使い道もない力ですし、すべてさしあげてもよいかな、と。」
「『アーシャ』。公爵家の後ろ盾もあるのだよ。我が国でも稀に水の加護もちが生まれるし、この地にとどまる者もいる。このまま好きなだけいれば良い。なんならこちらでそなたの縁談相手を探してもかまわない。婚姻すれば、今後の生活の見通しがつき、立場も安定するだろう。」
「わたしが普通の水の民だったら、それも叶ったでしょう。でも、わたしは当代の『水の標』。かかえている力が大きすぎますし、なによりこのままいけば『水無月の託宣』が下ります。」
「『水無月の託宣』…?」
「水の加護もちにもたらされる精霊の啓示のことです。その年の『水の標』にもっともふさわしい者の名が伝えられます。名が告げられた瞬間、その者は強制的にセレナの水の神殿の潔斎の間へ転移させられます。すぐに雨神事と野分鎮めの準備に入るためです」
ルシアスは歯噛みする。
忘れていたのだ。
彼の中でアリシアは、『セレナの王女』であり、『エングランド王の愛娘』であったから。
「…国に帰るのか。そうだな、許嫁もいるのだから…」
「いいえ。」
彼女は、きっぱりと首をふった。
「王女アリシアは、あの日、列車事故で、死にました。わたしには、もう、帰る場所はありません。」
「…まだ命を絶つ気なのか。なぜもう少し、足掻こうとしない。」
小さく舌打ちをし、苦い口調で指摘するルシアスに、アリシアは淡い微笑みをかえす。
「現在、神殿にいる標の候補生は子どもばかりで、婚姻できる年齢のものはいません。今、次代に引きつぐのが一番よいのです。多少拙い面もあるかもしれませんが、時間をかせぐことができ、セレナにとって優位になります。」
たった16のこの娘は、祖国のために自ら死を選ぼうとしているのか。
「…まだ数か月先の話ではないか。戦うのに必死で託宣を聞きのがす奴もいるかもしれないし、不摂生がたたってヴァ―ハム帝がころっと死ぬということもありえるぞ?」
「…まさか。」
「とにかく!今ここでそなたを放逐する気も、命を絶つことを許す気もないからな。……着いたぞ。」
指さしたのは男爵領の北限の森の一角にある山小屋である。水路が凍る厳冬期の伝令や使者が使う退避小屋で、管理人はいないが室内に竜を入れられる比較的大きな造りをしている。
先に下ろしたアリシアに携帯用の火打石を渡し、室内に常備されている小さな六角灯に火を入れてもらう。
その間にルシアスは裏の井戸から水をくみ、屋内に引き入れた竜に水を飲ませ土間の水桶に水をみたした。さらに壁の棚から敷布と毛布を数枚もってきて板の間へひき、寝床をととのえる。
自分は土間で見張りをしつつ仮眠をとるつもりなので一つだ。
最後に避難小屋の内側から閂がわりに手ごろな木の枝で斜交いをして戸締りをし、安堵の息を吐く。
「とりあえず明日はここから西へ、ずっとすすんで、トロハの大滝にでる道をいこうと思う。脇道から様子をうかがって、きな臭ければルートを変える。」
「宰相様のお立場も苦しいのでしょう?わたしがいれば余計に足手まといになります。」
「…言っただろう。そんな簡単な話ではないんだ。とりあえずもう遅い。寝なさい。そなたも疲れているはずだ」
彼女にくるりと背をむけて土間に腰かける。
手元においた実戦では長すぎて使いづらい槍を見下ろし、ため息をつく。
…剣も、もってくればよかったな。
はぁ、と彼の背後でもため息がもらされたのに気づき、彼は苦笑した。
「まったく、そなたも本当に悩みが尽きないな。」
「…縁談なんて、もっとずっと先のことと思っていましたのに……。嫁ぎ先に思うような恩寵があらわれず、怒りの矛先が祖国にむかうのも困りますが、逆に力を制御できず、暴走させてしまうという事態もありえます。それが恐ろしいのです。」
「案ずるより産むがやすいと言うであろうが。」
「幼い時は感情のゆらぎも大きかったので、癇癪をおこすたびに何かを壊してしまいました。このままではいけないと憂えた父の命で、王宮を出て、他の見習いの子と一緒に神殿の寄宿舎で暮らすようになりました。6歳の時に祭事長のお役目をいただいてからとにかく心配をかけないように頑張って、頑張って…。けれど、必死になり過ぎて、いつの間にか、長く生きすぎてしまったようです。」
「馬鹿なことを。まだ10代の身の上で何を言う。私が良い縁を見つけてやる。」
本当は、嫁ぎ先の候補として考えられる男たちを思い浮かべるたび、彼らの至らぬところが気になって苛立つ。闊達で好ましい青年たちだが、アリシアを預ける相手としては、まだ地位も経験も頼りないのでは、と。複雑な胸中を押し隠し、ルシアスは明るく言った。
「…っ」
アリシアが鋭く呼気をすいこむのがわかる。ルシアスはゆっくりと振りむいた。
案の定、板の間にぺたりと座りこむ彼女の顔が、くしゃりと歪んでいる。
…泣くな。頼むから。
「辛かろうな。でも自分を傷つけても何も良いことはないぞ…。」
気づけば、彼女の傍に立っていた。
役目を担い続ける疲労感と、居場所を失う事への恐怖。嫁家や相手の男に身を預けきれない心苦しさ。
彼女の心は、もう限界に近いのだろう。
深くうつむいてしまった彼女の蜜色の髪を撫でようと無意識に手を伸ばしていたことを自覚し、深呼吸をする。...触れれば、もう後にはひけない。この道中で懸命に噛み殺してきた個人的な感情の本質に、気づいてしまったから。
アリシアの指が小刻みに震えている。
「...死ぬには早すぎる。まだまだ生きて、色々なことに出会うべきだ。」
笑って、楽しんで。ああ、そうだ。他の誰でもない、私の隣りで。
ルシアスは、覚悟をきめた。
アリシアの前に片膝をつき、彼は低い声でたずねる。
「…姫、望みがあるなら言ってみろ」
「悲しいですが、セレナは多分もう長くありません。同盟にこだわらず、私をお斬り下さい。そして国王になられてください。私も、もう、疲れました。」
予想どおりの言葉。
ルシアスは大きな手で、硬い表情をうかべる彼女の頭を労わるようになでた。そのまま彼女の髪に刺さる銀の簪にそっとふれる。
彼があつらえた、巫女としての姿。
「そうだな。そなたはよく頑張ってきた。もう肩の荷をおろしてよい頃だ。」




