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キンと冷えこんだ夜を切り裂くかのように、船とも列車ともみえる不思議な車体が山中を北へと走っている。川を主な航路とするその列車は、海を渡る船と区別され「船列車」とよばれている。
その船列車の甲板で、わたしは、死を、切望していた。
(アーロン兄上のかわりに、必ずわたし達が風の国の王に返礼品をとどけなければならなかったのに、こんなことになるなんて。それに、ああ…!!私が躊躇わず敵国へ嫁ぐことを決めていたら、母上やあの子が事故に巻き込まれることもなかった…。わたしのせいだ…!)
母は、み月前に出産したばかりだった。妹はまだ乳飲み子。妹…ミアは、かなり強い水の加護を持っていた。この国を、母を、支える存在になったであろうに。
くり返し、くり返し、よみがえる、重臣や神官たちと父王が言い争う姿。食堂で、王立図書館の回廊で、謁見の間で、何度もわたしの輿入れの要求がなされた。
結局、わたしは、怖かったのだ。見ず知らずの男のもとに送られ、よくわからない『継承』の儀をおこなうことが。だから、両親の優しさに甘えて、ふりわけられた別の役目に、逃げた。その結果が、これだ。
父王は戦地で死の淵におり、母と妹は私と行動をともにしたばかりに命を落とした。
黒々とつらなる針葉樹の樹影のむこうに、春の夜空を彩る大小の星が輝いている。わたしは時おり川岸に押し迫る崖から目をはなし、目を閉じて深くうつむいた。
バサバサに荒れた黒い髪が頬に刺さって痛い。
この列車に乗せられ、もう、ずいぶんたつ。春の中頃とはいえ、山がちなこの国の夜は寒い。周囲はとうに日が暮れ、床は氷のようだ。着の身着のままで寒風にあおられているから、かなり体温が下がっている。雪でもふってくれれば、母と妹の後を追えるのに。
精霊王よ、お願い致します。
わたしを殺して、ミアと、母を、どうか生き返らせてくださいーー。
「!」
果てのない懺悔を一時中断させたのは、ゆっくりと速度をしぼってゆく停車前の独特な負荷と、背後の急な階段から上がってくる人の気配だった。
こつん。カン。こつん。カン。
硬質な音が混じる一風変わった足音だ。
ふりかえって相手を確かめることはできない。なぜなら後ろ手に縄をかけられ、階段の手すりの支柱にくくりつけられて床に座らされているから。
水の国の民であることを告げた瞬間から、わたしは虜囚となった。
今度は何を聞かれるのだろう。何人に敵意のこもった目で睨まれるのだろう。
いっそ今すぐ不審人物として始末してくれれば、楽になれるのに。
「…ご苦労。2時間ほど休息をとる。そなたたちも食事にしてくれ」
張りのある男の声が、デッキにいた見張りの兵士たちを下がらせる。
衣擦れの音。…こつん。カン。
男がわたしの正面にまわりこんだのが分かった。
ゆるゆると目をあける。
目の前にあるのは相手の足だ。真っ白な包帯。そして松葉杖。よくよくみて気がついた。松葉杖ではない。槍だ。この人は武器であるはずの槍の柄を、器用に松葉杖がわりにして歩いているのだ。
彼の足元をぼんやりとみていたわたしは、頭上から、ばさり、と何かがふってきて、瞬く。
「羽織っていなさい。」
幾何学模様がおりこまれた毛布を肩にかけられたのだった。
「…すまなかったな、水の国の“姫”。あわただしくて、話をするのが遅くなった。」
ひそやかな声がふってきた。
捕らわれた時、セレナ人であること、名前はアリシアであることしか、わたしは告げなかった。しかも姿をかえている。それでも、わたしの身分に気づいたとなれば、この人は貴族や王族の情報に精通した高い地位の人物だろう。
わたしは、のろのろと顔をあげる。
日焼けした、たくましい体躯。高い鼻梁と意志の強そうな口元。よく手入れされた長い銀の髪が印象的な男性だった。
たぶん年はセレナの父王よりひとまわり若いくらい。こちらを見下ろす金の瞳には理知的な光がやどっている。
「私はローイエンで宰相をしている、ルシアス。ルシアス・ヴァールブルクだ。私を国境まで迎えに来た近衛隊長とともに、帰途についている。よってこの船の行き先は風の国の王都エレミアスである」
さきほど、冷静な声で火の手からの退避を命じたこの人が、実兄であるローイエン国王をよく支え辣腕をふるう文武両道の風の国の宰…!
我が国の苦境に手をさしのべ、父とともに戦場へむかってくれた援軍の長であったとは。
「君に、二、三、聞きたいことがある。先ほどの高原での騒ぎは、そなたの国の列車を、何者かが爆破したと思われるが…」
上の方からおりてくる声は落ち着いていて、表だった感情のゆらぎを全く感じさせない。
「姫、そなたたちが、今この時期に国境を超えた理由は?」
この人に偽りをいう事はできない。鷹のような彼の目をみて、わたしは悟った。
「はい。セレナ第一王女アリシアです。このたびは、援軍を派遣して頂き、本当にありがとうございました。些少ではありますが、金2万ガロン、ワイン、『精霊水』をローイエン陛下に献上するためにまいりました。」
頭を下げる。ふたたび床におとした視界に入りこむ、包帯の、白。
身体が、震えた。
数々の敵将を討ちとっていると聞いていた彼が、戦の長期化をうけ、兵をつれて一時帰国する事は聞いていた。…彼自身も怪我をしていたのだ。
彼も今までの男たちと同様に、声高にわたしを罵るだろう。
「ふむ。親善特使とは、姫のことだったのだな」
なるほど、と合点している彼の言葉に、わたしは、首をふった。
「いいえ。正使は母でございます。わたしはローイエン陛下の御前で奉祝の舞をまうように母から言われ、副使として同乗してまいりました。ほかに、幼い妹と外務大臣、国務大臣、わたしたちの侍女や荷運びの者たちもおりました。」
かすかな動揺が頭上からつたわってくる。
「セレナ王妃も、あの列車に…?言いにくいのだが…たぶん、そなたの母君や大臣方は…」
泣く資格なんて、わたしにはない。それでも目の端からこぼれおちるものに気づき、唇をかむ。
両手を戒められていては、顔を隠すこともできない。
追い打ちをかけるように、闇夜を切り裂き、ケーンと異質な響きがこだました。
心を乱す、金属的な音。
下をむいたまま、かすれた声でたずねた。
「あれは、なんの音ですか…。」
「竜の声だ。」
こともなげに答えられ、もうここが異国の地の奥深くであると容赦なくつきつけられた気がした。
「聞くのは、はじめてかい?」
「…あれに驚いて、わたしの猫が車外に飛びだしたのです。」
「ああ…それを追いかけて、私の船に近づいてきたのか。」
しん、と冷え込む異国の夜の渓谷で、今、こうして生きている自身の身が呪わしい。
「申し訳ございません、宰相様。列車に積んであった金は、散逸してしまったでしょう…。お恥ずかしい話ですが、あれが我が国が集められる最後の金額でした。宰相様をはじめこちらの国の多くの方にご負担をおかけしてしまったのに、わたしたちは何もお返しできるものがないのです。」
平伏して謝罪するわたしの上に、はぁ、と深いため息がおちてきた。
槍で上手に体重を支えながら、彼はわたしのそばにゆっくりと片膝をつく。
「……返礼の件は、援軍派遣の条件として最初から決まっていたことだ。だが、今月に入ってそちらの外務大臣から返礼品とともに何名か要人を亡命させることは可能かと、打診があったそうだ。」
わたしは、息をのんだ。
「亡、命…?我が国の誠意を示すために母とわたしがいくべきだ、と、言われて。」
「ほんとうに、それを、信じたのか。」
宰相の声に厳しさがにじむ。
「……。」
確かに、母はいつもより口数が少なかった。父はすでに戦場。執政権は国王不在時に臨時に置かれる貴族院にうつっていた。
王都でハッバス訛りの男が目撃された、と王宮内が殺気立ったあの日。
わたしは王宮東棟の最上階にある母の居室によばれ、風の国への出発が急遽前倒しされたことを聞かされた。隠し階段を使って王族のみが使うトーリン湾へぬけたわたしと母は、すでに返礼品を積んで待機していた船に乗り、秀でた水使いである外務大臣と国務大臣の操舵で、航路であるトラヴィス河を遡った。
「……母は、ご挨拶だけしたら、すぐに、帰る、と。」
「そなたの母君は、誇り高く責任感の強いお方だ。おそらくその言葉に偽りはないだろう。非常時に国母が国を留守にすれば、民心は動揺する。それが分からぬ方ではない。大臣たちが先走ったのだろうよ。…我らが空から援護して徹底的にレイ族…やつらの海軍をたたいてきたから、戦況は、今のところさほど悪くはないんだがな。」
ちがう。
動揺を悟られないように懸命に呼吸をととのえた。
ちがう。わたし、だ。
わたしを、“逃がそうとして”、母たちは、死んだ。わたしの、せいで。
「水の国の姫。そなたにもう一つ聞きたいことがある。近ごろ、あのあたりでは、竜の密猟が頻発している。ここはローイエンの竜の放牧地のなかで、もっとも国境にちかい。さきほどの混乱の中で、また何頭か行方知れずになった。セレナに我が国の竜が流れているという噂もあるが、知っているか?」
負傷による衰えなどまったく感じさせない覇気に満ちた口調で、わたしへの詰問は続く。
わたしはその件についてまったく初耳だったので黙って首をふった。
「……そうか。今、配下の者を派遣して消火に当たらせている。セレナ王妃が乗られていたことは、すぐに広まるだろう。酷なことを言うが、船を襲撃した者がどこの国に属するかは、この際、問題ではない。セレナの要人が国境を超えた。その事実が問題なのだ。」
彼は、淡々と告げた。
そのとおりだ。セレナと関わることで、風の国はつぎつぎに損害をこうむっている。両国をつなぎ懸命に尽力してくれている宰相様も、怪我を負ってしまった。民の反発は、さけられない。
おそらくローイエンは、我が国との同盟を、破棄するだろう。
「申し訳、ございません。どうか、わたしを処分してください。」
「…やれやれ。」
ぐいっと顎をとらえられた。獅子をおもわせる金の目にひたと見すえられ、瞠目する。
「それを判断するのは、ローイエン国王だ。私ではない。…そなたには事件の重要参考人として、このまま王都まで、ご同行いただく。」
わたしは目を伏せた。
これ以上生きて、災厄をふりまくのは、嫌なのに。
いつの間にか列車は停船していた。
船が身をよせた川岸の平たい岩場では、何人もの男たちが動きまわり、焚火が手際よくおこされている。
パチッ、と火にくべられた木の枝が勢いよく爆ぜる音がした。
無意識に肩がはねる。
一瞬の沈黙。
「そこは冷えるだろう。…こちらに」
手すりとつなげられていた紐が外される。もちろん、両手の戒めはそのままだ。
「立てそう…もないな。失礼、姫。」
薪でも担ぐかのように左腕で無造作にわたしを抱え、彼は階下の船室へとおりはじめた。
「そなたが水の民であることは、この船の皆が知っている。だが、そなたが王族であることに気づいているのは私と近衛隊長だけだ。よいか、迷惑をかけている自覚があるならば、私が言いと言うまで自分が王女だということはふせるように。事態が、ややこしくなるからな。」
「…わかりました。」
こくり、と頷く。
床が毛足の長い絨毯にかわり、人のざわめきが消えてゆく。
てっきり底部に近い部屋に軟禁されると思っていたのに、おろされたのはあきらかに一等室とおもわれる部屋の寝台だった。
「国賓あつかいはできぬ。だが一般の兵に無責任にそなたを預けるわけにはいかない。そなたも感じているように、セレナへの苛立ちが強まっているのでね。重要参考人に何かあっては困る。」
清涼感のある洗剤の匂いが、ふわり、と鼻腔をくすぐる。
このまま永遠に目が覚めなければ良いのに。
四肢の力をぬき、アリシアは敷布にゆるゆると身を沈めた。