序:銀の君と金の天使
港を見下ろす水の国セレナの王宮。
新年を寿ぐ王家主催のパーティー会場で談笑する人々が、その場を足早に突っ切っていく精悍な青年を見て、一瞬動きを止める。
青年がまとうのは、隣国ローイエンの近衛隊正装。
濃紺のジャケットに細身の白いズボン。師団長であることを示す黄金の肩章がシャンデリアの光をはじき、眩く輝く。
「まぁ、ローイエンの“銀の君”だわ!」
「…風の国の王弟殿か。」
「本当にいつ見ても美しい御髪よね…。」
「月の光を集めたよう…。」
「このまえの小競り合いで、クルドの族長の一人を殺したらしいぞ。」
「これでご実家がアレでなければ、ねぇ…。」
ひそやかな、けれど隠し切れない好奇と、羨望と、畏怖の視線。
それらを一顧だにせず、風の国の若き戦神ルシアス・ヴァールブルクは、上座の人垣へとむかう。
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「…?エングランド陛下は、どちらに…?」
さっさと用件を片づけてこの場から立ち去ろうと考えていた彼は、玉座にいるはずの人物が不在であることに気づき、手近な近侍の袖をひっぱる。
「実は緊急対応のため少し席を外しておりまして…ダンスのオープニングセレモニーには必ず戻りますので。…もしお急ぎという事であればアーロン皇子が代わりに承りますが…?」
近侍に申し訳なさそうに頭を下げられ、ルシアスは、ゆっくりと首をふった。
「いえ…。陛下に直接ご報告したいこともあるので、後でもう一度うかがいます。」
「今年は特にワインの出来が良かったのです。新鮮な海鮮料理もそろえましたので、どうぞお好きなものを召し上がっていってください。」
「ありがとうございます。」
にこりと微笑み、彼は踵を返す。
謁見の間のある正殿の扉は大きく開け放たれており、続き間の大広間で社交に励む華やかな装いの紳士淑女の様子が一望できる。
まいったな…。ダンスパーティー特有の浮ついた熱気のこもるあの場をまた通るのか。
遠巻きに寄越される令嬢たちの熱いまなざしを感じ、ルシアスは心中で盛大なため息を吐いた。
彼らにとって自分は生身の人間ではなく、偶像のようなもの。
ルシアスの生家は、風の国でも指折りの公爵家だ。経済状態も良い。ただし、領地の大部分は辺境の山地で、主な産業は畜産。
“獣くさくて耐えられません!”
“寒くて、暗くて、気が狂いそうです!”
過去、避暑にさそった令嬢は、一年でもっとも良い季節に、畜産の「ち」の字も感じさせない瀟洒な別荘に通されたにも関わらず、皆、ことごとく泣き喚いて帰った。
それらの令嬢からルシアスの実家情報が瞬く間に広がり“銀の君”は遠くから鑑賞するにとどめるのが最良、という通念が浸透してしまった。
ルシアスもまた、とうに彼女たちを見限っている。
彼は内面を感じとらせぬ完璧な微笑みを保ったまま、来た時と同様に早足で会場を後にした。
巨大なアーチ列柱が連なる回廊をぬけ、見張りの衛兵に懐から出した招待状をみせて許可を取った後、王宮庭園の木陰にあるベンチへ、どかりと腰をおちつける。
人気のない事を確認して外向きの顔を放り投げたルシアスは、ベンチの背もたれに寄りかかり苦い表情で舌打ちをした。
「ったく。コーエン候の爺につかまらなければ、もう帰れていたのに!」
会場に入った途端、孫娘の嫁入り先を探すコーエン候爵にさっそくつかまってしまい、主催者挨拶を終えたセレナ国王を捕まえ損ねたのだ。豊満な胸元を強調した真っ赤なドレスですり寄ってきた先ほどの娘のようにグイグイくるタイプは、完全に利権とルシアスの財産目当てである。
同盟国の上位貴族、それも対応の難しい貿易相手ということもあり、波風をたてることなく断るのに時間がかかり、ひどく疲れた。
「本当に、スファル隊長も、兄上も、余計なことを…。」
諦めが早すぎる、と、事あるごとに何かしらの用事を言いつけてあちらこちらの晩餐会やパーティーに出席させようとするのはいい加減にやめてほしい。
ルシアスだって、できれば結婚して周囲を安心させたいと思ってはいる。
生家であるヴァールブルク公爵家は兄夫婦の子どもが継いでいるが、血気盛んなクルド共和国と境を接し国防の最前線に立たされる土地柄のため、領主一族は多い方がよい。
これでも10代後半までは真面目に婚活に励んでいたのだ。
ルシアスの暮らす風の国は、武芸を重んじる国で、女性も逞しく独立的で束縛を嫌う。
家同士が動く貴族階級以外はどうしても晩婚になりがちなので、風の国の男たちは幼いころから自分磨きに必死だ。
ルシアスも実家の地位に胡坐をかくことなく真面目に武芸にとりくみ、12の時には伯爵家のご令嬢の方から打診があって無事に許嫁関係となった。
ところが間の悪いことに、ちょうどその年、ローイエンと東境を接するクルド共和国の山賊が国境を侵し風の国の家畜を略奪するという事件がおこった。
結局、両国の軍隊が介入する大きな軍事衝突に発展し、その後数年におよび幾度も激しい戦いが続く。
当時ルシアスは、まだ近衛兵の見習いに上がったばかりだったが、戦場が実家の所領ということもありその戦いぶりには鬼気迫るものがあった。
結果として功績が認められ昇進を果たすが、構ってやれなかった伯爵令嬢からは愛想を尽かされ見事に破談となった。
…一に訓練、二に訓練、書類仕事も完璧に、などという鬼指導の禁軍府に籍をおくこともあり、焦ることもなかろうと思っているうちに気づけば周囲は人妻か童女ばかりである。
「だいたい今まで何も言わないで、30も間近になっていきなり騒がれても困る。」
もともと淡白な自分の性格もいけないのだろう。
花や手紙や宝飾品をこまめに送るとか、柄じゃない。
「それに…正直一人の方が戦いやすい。」
ローイエンは隣国セレナと長い間同盟関係にあるが、その他の3国とは常に緊張状態にある。
近衛師団長として、国防を担う一族の男として、これからも多くの命を奪うだろう。
自分もまた、いつ敵の刃に屠られるかわからない。それらすべて、戦場に身を置くさだめと自覚している。
ふと、ルシアスの鼻腔をかぎなれた臭いがくすぐった。
敷藁と、もわっとした毛皮の臭い。独特な息遣いと生臭さ。
「…そういえば、中庭から王城の馬屋にぬけられたな。」
しばらく中には戻りたくないし、暇つぶしがてら馬の顔でも見に行くか。
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風の国の主要な移動手段は、竜である。
戦場でも馬を使う他の4国と違い、強健な竜兵団を有するローイエンは、だから戦力でも頭一つ分ぬきんでている。
もっとも世界の均衡を保つ“龍”を頂く風の国が自ら他の国にちょっかいを出すことはない。
ただ自分たちの土地で昔からの営みにそって暮らしているだけ。
けれど北限山脈の水源と鉱脈、山地で飼育される羚羊、羊、牛、豚を目当てに、小さな小競り合いは絶えることがない。
“戦神”“銀の君”とルシアスが耳目を集めるようになった背景には、辺境を守る見目麗しい青年を利用して周囲に圧力をかけたい風の国上層部の思惑が多分にある。
さて、だからといってルシアスが馬が嫌いなわけでは決してない。
数年前にセレナの城下町で食べた馬刺しも非常に旨かった。
「誇り高くて、なつこくて、可愛いな。飼い葉の余裕がないから飼えないけど…。」
馬番に身元を明かして見学の許可をもらいのんびりと馬の顔を見ていた彼は、馬房の一番奥に目をとめ、瞠目した。
明らかにこの場に相応しくない存在を見つけてしまったからだ。
馬房の下の柵に腕をのせ、寄りかかるようにして熱心に馬をみているのは、ひとめで上流階級とわかる身なりの良い童女だった。
3,4才だろうか。
ゆるく編まれた髪に馬房のランタンの灯りが反射して黄金色に輝いている。
淡水色のドレスは動きやすそうなデザインだが上質な生地からできており、間違っても畜舎の床に擦っていいものではない。
おそらく今日のパーティ出席者の子どもだろう。保護者はどこに行ったんだ…?
「…おい、君、お父さんとお母さんは…?」
「しぃーーっ。」
ぱっとふり向いた鳶色の瞳に宿る光が予想外に強くて気圧される。
「すまん。」
反射的に謝れば、童女は満足そうに頷きふたたび馬房内に目を戻した。
「静かにね。もうすぐ赤ちゃんが生まれるのよ。」
ささやくような声で言う童女につられ、彼もそぅっと近寄り中をのぞく。
確かに大きなお腹をした栗毛の馬が一頭、静かに飼い葉を食べていた。
「いっぱい食べて元気な子を産むんだよー。おさんの時は応援しに来るからね。」
ニコニコと笑うその横顔は、ひどく優しい。
「……君は、こういう所、嫌じゃないのかい?」
「どうして?」
こちらを見る心底不思議そうな顔に、だって、と言葉をつづける。
「臭いし、その、糞は、あるし…それに、お産は、血もいっぱい出る。」
「そんなの、当たり前じゃない!」
くるり、と全身でこちらへ向き直った童女は、腰に手を当ててどこか得意そうに胸を張り、ルシアスを見あげた。
「命を産むって、大変なことなのよ。だから感謝しなくちゃいけないの。私たちが食べているお肉もね、それを産んでくれたお母さんと、世話をしてくれる人がいてはじめてできるの。食前のお祈りは、“ありがとう”の意味なのよ!」
不覚にも、涙がにじんだ。
民と協働して牛に飼い葉をやり、乳を搾り、掃除をして、毛刈りをする。
過酷な訓練をするのも、戦場に立つのも、すべては民の笑顔のため。
“ありがとう”
そう。くだらない呼称も、勲章も、何もいらない。
欲しいのは、素朴な、言葉だけ。
「………君も、それを教えて下さったご両親も、素敵なひとだな…。」
照れくささを誤魔化すように、童女の頭をなでる。
ふんわりとした金の髪をもつ彼女は天使のようだと思った。
「…―ふむ。それは光栄だな。」
「!?」
大気をゆらす落ち着きのある男性の声に、飛びのくようにして童女から離れる。
「ちがいます、人攫いとかそういう者ではありません!」
とっさに弁解しながら声の方に身体をむけたルシアスは、愕然とした。
すこし離れた馬房の柱に寄りかかりこちらを面白そうに眺めているのは、こともあろうに水の国を束ねるエングランド・パルヴィス王その人だったのである。
「も、もしや、この方は…。」
「私の娘だ。……アリシア。今日はお客様にご挨拶をする日だからここに来てはダメだと言ったろう。心配しなくてもお産はまだ先だ。」
「た、大変失礼を致しました!」
これが、美しい戦神と世間を騒がせる“銀の君”と、水の国の王女アリシアの出会いである。
もっとも王女の方はまだ幼く自分が何を言ったのかもすっかり忘れていることだろう。
けれど彼女の真っ直ぐな“ありがとう”は、戦と社交で荒むルシアスの拠り所として、生涯の宝物になる。