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身の置き所がわからず硬直していたアリシアは、じんわりと背中から伝わってくるぬくもりに、ふ、と目を潤ませた。
(まだ神殿に預けられる前の時。こんなふうに馬にのせられて、遠乗りに連れていってもらったっけ。)
…お父さま…。
海の上で戦っている父や多くの民を思う。わたしにもっと人脈があれば金策をして少しでも埋め合わせができるのに。しかし水の神殿ですごしていた自分には、兄や従兄のように頼れる仲間はいない。
「…この辺りも乾燥しているし、暑いがな、やはり向こうとは違うのだよなぁ…。」
上からふってきた声に、アリシアは目を見開いた。
「…むこう…ハッバス、ですか?」
「ああ。上陸したわけではないよ。上空からすこしな、偵察しただけだ。だが…あまりにも、水がなさすぎる。聞いたところによると帝国の西の方には緑豊かな地もあるというが、沿岸部から中央部は、砂しかない。正直、西大陸にのりこんでも水が調達できず、思うように戦えぬのではないかと思う。だから、竜兵団はひきとってきたんだ。」
セレナやハッバスと風の国ローイエンが、どのぐらいの距離感でつきあうべきか、正直なところルシアスにはまだ見えてこない。それに近衛隊長スファルの腹の内も、読めないままだ。候補者はスファルの中で何人なのか。自分は老臣の手駒のひとつにすぎないのだろう。
それでも、ここ数年、やってきたことは間違いではなかった、と思う。
「帝国が、近ごろ東大陸に間者をおくってこられるようになったのは、レイ族という海の民を傘下におさめたからだ。この一年で、そのレイ族が主体となる帝国海軍を、ほぼ壊滅にまで追いこんだ。これで東大陸への干渉もすこしは減るだろう。あとはこちらに残っているものの始末だが…。」
諜報や監視の運営を統括しているのは近衛隊長スファルだ。そして宰相になるまで近衛兵だったルシアスも、スファルの指示を受け国防強化につとめてきた。上空から巡視する風兵の人数をかなり増やし、不審な動きを見つけるためのネットワークもずいぶん精度があがった。
領主間の協力体制もすすんでいる。
まぁ、今回はそれを担う者たちのあいだで裏切りがあったわけだが…。
まだまだ課題は多いが、風の民と竜たちが安んじて暮らすためにどのようにしていくべきか、今回の遠征ですこし分かった気がする。
「とりあえずは機動力のある風兵の増強だな。…さて、姫。目的地まではまだかなりある。寝ていてよいぞ。」
アリシアはなんとも言えぬ表情をうかべる。
前をむいてすすむ逞しい宰相。そのお荷物にしかならない自分。
死ぬことすら許されぬまま生き恥をさらす己に、穏やかな眠りなど到底訪れるわけがない。
「別に。大丈夫です。」
つっけんどんなもの言いを、疲労のためと勘違いしたのか、ルシアスが、ぽんぽんとあやすように彼女の頭上でその手をはずませた。
「そうか。まぁ、好きにしなさい。」
「…子ども扱いしないでください!」
「15だろ。子どもじゃないか。」
「すこし前に16になりました!!」
「ふぅん?…おい、暴れるな。竜の機嫌が悪くなると言っただろうが。」
槍を脇に挟み込み、はずれかけた毛布を巻きなおしてやる。
手綱を短く持ち直して右腕をやんわりと華奢な身体にそわせ、ルシアスはふたたびアリシアを囲いこんだ。
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陽が沈み、辺りが闇夜に沈むころ。
「何か、光ってます。」
「うん?」
目を閉じていたはずのアリシアが、いつのまにか遠くをみていた。
「ああ…雷だな。たぶん、もうすぐ…。」
ゴロゴロゴロゴロゴロ…
「ほら。」
「初春まで雪が残る山国なのに、雷…。」
「このあたりは、乾燥地帯にあたる。そして山の近くは地熱と水脈であたたかい。だから樹海のあたりで大気が不安定になって、荒れるんだよ。それに山の主が主だからなぁ。」
「山の主?」
「世界の創世の頃から生きる『龍』。竜の王。彼は、まさにおとぎ話に出てくる姿そのものだよ。漆黒の翼竜なんだ。大きいから、ちょっと苛立ってしっぽをふろうものなら、山が崩れて大変さ。龍王は俗世の煩わしさを嫌っているからね。わざと雷雲を大きく育てて、自分や一族を周囲から隔絶してるんだ。」
「そういえば、あの…今更ですけれど。わたしの縄をといてしまってよいのですか」
ルシアスが口の端をあげた。
「ほぅ?そなた、縛られて喜ぶタイプだったのか?」
「違います!!」
「ふむ。そうだな、用を足すときに迷子になられても面倒だ。今度から、そばを離れるときには紐をつけてから行かせることにしよう。」
「私は犬ではありません。」
「ははははは。怒るな怒るな。だがな、このあたりは、時おり山犬がでるからな。さすがに生きたまま食われるのはしんどかろう?それにこの樹海はあの山から流れてきた溶岩がひえ固まった上にある。微妙な高まりや、くぼ地が、あちこちにあって昼でも暗い。歩きにくいし方向感覚もひどく狂う。いまだに硫黄まじりの熱風が噴きだす間欠泉もあって危険だ。だから。」
「っ」
アリシアは、ぎょっとした。ルシアスの指し示す指の先。
ツタの這う巨木の足元の暗がりの中に、重々しい雰囲気をまとった男がひとり。
小さな手燭をもって佇んでいる。
「…樹海の端にある集落の村長だ。彼らが樹海を見まわり、守番をしてくれている。迷い人に正しい道を教えたり、持ち主とはぐれた竜を放牧地へもどしたり…。」
ルシアスが、さ、っと竜からおりた。背中を守ってくれていたぬくもりが消え、アリシアは心細さと寒さに身震いする。
「姫。手を。」
こちらをうながす金の瞳のつよさに逆らえず、差しだされた手に迷いながら指先をのばす。
たがいの手のひらが触れた瞬間、ぎゅっと大きな手につつまれ息をのんだ。
たくましい二本の腕に支えられ、ふわり、と体がうく。
とん、と地面におろされた彼女の身体が崩れ落ちそうになる。
「おっと、大丈夫か。疲れたろう。」
もたれかかってしまった彼の胸の広さに、いまだに自分をとらえる骨ばった大きな手の乾いたぬくもりに、混乱する。
放して。離さないで。なんで。わたし、何か、おかしい。
「…」
「さて、私は村長と話をつけてくる。おそらく今夜は出かけることになるだろう。そなたの身の安全は村長が保証してくれるから、大人しく待っていなさい。」
ゆるやかに竜の脇腹へとおしやられる。
まだわずかにふらつくアリシアを気遣うように、けん、と、竜が小さく鼻をならした。




