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「…宰相様。これは男性用のものですか?」
金色の刺繍がほどこされた真っ白なブラウスとすそが広がった濃茶の丈長キュロットスカートに着替えたアリシアが、岩陰から顔をのぞかせた。
湯につかり血色を取り戻したアリシアの頬に、ふんわりとやわらかかく波うつ金色の髪がかかる。朝の光の中でみる『水の標』は、あの祭典で見た時よりずっと少女らしく、健康的だった。
一瞬、息が止まった。
「あ…いや、女性用だよ。我が国では日常的に竜にのるからね。動きやすいだろう?」
アリシアが、こくりと頷く。
彼女の手からもともと着ていた服を受け取り、彼は眉を曇らせた。
「とっておいてやりたいが…」
「いえ、処分してください。」
「承知した」
ひと呼吸おき、ルシアスは、切りだした。
「もはやローイエンも戦禍を逃れられそうにない。実は、王都エレミアスが、帝国に近しい貴族たちに占拠された。私は、他の者と分かれて、これからローイエンの離宮にいく。この地の管理者である龍王の叡智をあおぐためだ。そなたには少し険しい道だが、追手をかわすにはちょうどよいと思う。一緒に来てもらうから、そのつもりでいてくれ。」
「帝国の間者がこちらの王都まで!?…わたしの、せい…っ。」
「ちがう。なんでも自分と結びつけるのはやめなさい。」
蒼白になったアリシアを叱咤するように、ぴしゃり、とルシアスは言った。
「我が風の国は、東大陸の水源を数多くかかえている。前々から取引の打診はあった。だが、姫。水の民であるそなたならわかるだろう。水はめぐるもの。東大陸の水を大量に動かせば、この地のバランスが崩れる。もちろん、できる範囲での貿易は行うさ。西大陸でとれる砂を建材に混ぜると、建物の強度が増すのだよ。むこうは、こちらの木材を高い値でひきとってくれる。均衡がくずれたのは、あの強欲で加減を知らぬヴァ―ハム帝が即位してからだ。」
ボーっと汽笛がなった。船の全権は、近衛隊長スファルにうつったのだ。
わきあがる風を身に受け、帆船は水をかきわけながら水路に沿い北上してゆく。巨大な滝をいまひとつかけのぼり、標高も高く年間を通じ冷涼な第三段丘面にある王都へ向かうのだ。
去っていく船影を見送り、ルシアスは、あらためて問いかけた。
「離宮まで3日ほどの行程だ。竜に乗ったことは?」
「…ありません。」
「では、相乗りだな。少し狭いが我慢しなさい。」
ルシアスは川岸に立ち、ピュイ、と口笛をふいた。
右岸の浅瀬でうろうろしていた数頭の竜の中から、一頭がこたえるようにこちら側に渡ってくる。個人所有のものを除き、竜は放牧地で一括管理され、必要な手続きをへて誰でも自由に使用することができる。
ハミの状態を確認し、首筋を軽くたたいてやれば、竜は気持ちよさそうに目を細めた。
生まれ故郷にもどり、ほっとしているのだろう。
「すまんな。もう少し頑張ってくれよ。」
腰帯に常備している手綱を、手早くつけていく。
貸しだしの手綱より、自分のもののほうがやはり馴染みは良い。
離れたところからその様子をうかがっていたアリシアを手招きし、彼は言った。
「我が国の竜は、火を厭う種だ。だから、あの時、不穏な状況を察して騒いだのだと思う。この子たちを恨まないでやってくれ」
「…はい。」
たしかに見渡せばたくさんの竜たちがいるが、皆、大人しく昼寝や食事をしているだけだ。
ふるまいに粗暴さはない。
「鞍はつけないのですか。」
「彼らは本来別の飼育場で管理している。ここのものを使ってしまっては備品の数があわなくなるからね。しばらくそなたの服をかわりにひこう。どこかで狩りをして小銭をつくる。必要なものは途中でそろえれば良いさ。」
「わかりました。」
ルシアスは、踏み台になりそうな岩の近くに竜を誘導し、先にアリシアを登らせる。なんとか彼女が跨り上半身を起こしたところで、自分もその後ろに乗りこんだ。支えにした槍を左手で軽く握ったまま、彼は右手をのばし手綱をつかむ。
「姫。両手を竜の首につきなさい。よほど強くつまんだりしないかぎり怒ることはないから。」
「はい。」
「出発だ。」
ルシアスは、竜のわき腹を軽く蹴った。
ぐん、と後方へ風がながれる。
「…ひっ。」
体が、ぽすん、とルシアスの懐にはまりこんだ。
どうしよう!
体勢を立て直そうにも、前からの圧力が強くてどうにもならない。
硬直したアリシアを見下ろし、ルシアスが言った。
「すまんな、両手がふさがっていて支えてやれん。寄りかかってかまわないからな。というか、寄りかかっていてくれ。でないとバランスが悪くなって竜が不機嫌になる。」
「……はい。…こんなに、速いんですね、竜って…。」
気まずさを誤魔化すように言葉を探す。
ルシアスが笑った。
「これは、並足だ。さて、悪いが急いでいるから、飛ばすぞ。」
その言葉の意味は、すぐに分かった。
周囲の風景が矢のように流れていく。正面からたたきつける風の圧力のすさまじさに身をすくめた瞬間、頭上で小さな呟きが聞こえた。
ぴたり、と周囲が凪ぐ。
竜はあいかわらず疾走している。
「これで少しは違うだろう。私からはなれると守りの壁からでてしまうから、気をつけなさい。……ああ、残念ながら冷気まではふせげないんだ。まったく、君に毛布を羽織らせてきて本当によかったよ。」
彼が何かしたのだ。
放心する彼女をのせ、ルシアスは、水のにじむ暗く細い川砂の道に竜を導く。
『双子岩』の巨石アーチのかたわらをぬけ、さまざまな大きさの苔むした岩が重なりあう中をしばらくすすむと、ぱっと視界がひらけた。
草木がまばらにしか生えていない荒地の奥に、どこまでも黒々と広がる樹海が見えた。
雲が朝焼けにそまり、金色の炎のようにゆらゆらとゆがんでいる。
ルシアスが左手の地平線を指さす。
「我が国ゆいいつの火山、オルフェイウスだ」
あまりの眩しさに、アリシアは片手を額にあて庇をつくった。
彼方に見える赤茶色の山稜は、朝陽をあびて真っ赤に輝き、その身を主張している。
「…噴火の危険はあるのですか?」
そう問いかけるほど、その山は禍々しい赤にそまっている。
だが風の国の宰は首をふる。
「休眠中で、ここ1000年、地震や噴火はおきていない。…さあ、まず、今日はあの樹海にはいるところまでだ。」
「はい。」
こうして、風の国の宰相と、水の国の王女の長い長い旅路が、はじまった。




