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一方、岩に背を預け、槍を抱えた姿勢で座っていたルシアスは、停泊する船のほうから人がひとり、徒歩でまっすぐ近づいてくるのに気づく。
「…見つかってしまったか。」
褐色の双眸に、灰色の髪。八の字の口髭をたくわえた厳しい口元。スファルだ。
ルシアスは頭をかく。
だが貴賓室の鍵は一つのみ。部屋がもぬけの殻であることを知っているのは、私だけ、のはず、なんだが、なぁ…。
「風の盾…。」
アリシアのいる岩湯を囲うように、ぐるりと障壁をめぐらせる。音の伝わりをふせぐものだ。
「船に戻らず、何をなさっているかと思えば。」
六十なかばとは思えぬ健脚さで、あっというまに目の前まできた近衛隊長は、低い声で言った。
「嫌疑のかかった国の姫を竜場に招き入れるなど…宰相殿はどうやら頭の打ちどころも悪かったと見える。」
さすが風の国屈指の情報網をもつ近衛隊長殿。核心をついた叱責に、ルシアスは観念した。
「…年頃の娘が泥だらけでは、やはり不憫ですし…それに、本人かどうか調査する必要があるのでは、と。」
「ほぉ。そのまんまの姿に戻すと。」
般若のような形相でぐいぐいせまってくるスファルをなだめるように、両手で、ついたてをつくる。
「いや、いっそ捕らえた時とまったく違う格好の方が都合が良かろうと思って。」
スファルの顔が一段と険しくなった。
「宰相……いまさら言っても遅いかもしれませんが。」
まさか保護する気ではないでしょうね―…?
曖昧に笑って明言を避ける。その様子を見てスファルがきつく眉を寄せた。
深呼吸したのち、近衛隊長スファルは平坦な口調で報告を始める。
「…ヴォロス駅でセレナ王妃の乗った列車を爆破した火薬は、やはりハッバス製のものでした。生存者はゼロ。…あの火勢ですからね。」
彼らは、昨夜シュロム渓谷で停車した際、現場にのこした消火隊とは別に、何人かの部下を現場検証にむかわせていたのだ。
沈痛な表情でため息をついたあと、ルシアスは問いかけた。
「ところで、逃げた王女の飼い猫の件ですが…。」
スファルが苦々しい顔で首をふる。
「知りませんよ。この非常時に猫のために近衛隊を動かせるわけがないでしょうが。気になるならあなたの部下にやらせなさい。…やはり、あなたは今のご自身の立場の危うさを全く理解しておられませんな。」
褐色の眸でルシアスを見すえ、スファルは口調を改めて言った。
「あなたはこのまま、龍王のもとへいかれませ。奥宮に行くなら、ここから樹海をこえた方がはやい。」
「しかし宰相不在では、皆が納得しないでしょう。私も王都にもどります。第一、奥宮に立ち入るなら勅許が―…。」
「有事の際は勅許がなくとも入れます。…はっきり申し上げる。今のあなたに宰相を名乗る資格はありません。あなたは脇が、甘すぎる。私は忠告しました。『深入りするな』と。ディアス伯は、ヴィル殿の即位をふくめ、用意周到にうごいている。姫とご自分の身を守る道は、ただ一つ。候補者として名乗りをあげ、奥宮での再試合にもちこむのです。」
ルシアスは引きつった。
「私は、王位を継ぐ気はないと再三」
「ならば、あなたは、私に殺されることになる。私は近衛隊長。『王』に命じられれば、それまでです。帝国と協調したがっているディアス伯が、宰相としてそれなりに実務経験を積み、議会でも人並みの発言力をもっている反帝国派のあなたを生かしておくと思いますか?あなたはセレナ援軍の任をひきうけたあげく、厄介な業を背負った姫まで拾おうとしている。トビアスは私の朋友。その弟であるあなたにも、情はあります。だからこそ忠告しているのですぞ。」
ぐっと、言葉につまりながら、それでも「王は…私よりスファル、貴方のほうが」とルシアスが言った時だ。
スファルが業を煮やしたように、きっ、と眦をつりあげた。
「…足掻かないのなら、今ここであの娘を殺すが、よろしいか?」
「まってください、彼女は唯一の生き証人だと、あなたもおっしゃっていたではありませんか。」
動揺するルシアスに、
「状況が変わりましたからね。どこに内通者がいるかわかりません。平穏を乱す不安分子は絶つのみ。」
冷徹な表情にかわった老臣が、つい、と目を眇め、腰の短剣をぬきつつ川湯に近づいていく。
「スファル!セレナとの同盟はまだ有効です。今しばらくの猶予をお願いしたい!」
「どきなさい。感傷にまどわされ判断を誤る者は口をださないでよろしい。」
進路をさえぎるように身体をわりこませてきたルシアスに、スファルは切って捨てるように告げた。
不世出の英傑と言われた男の本気の気迫が、びりびり伝わってくる。
四肢を叱咤してなんとかふみとどまり、ルシアスは言った。
「それは、わたしが、国王候補であれば、彼女の処遇をあずけてもらえる、ということですか。」
「……ふん。砕れた骨の接合は、難しい。ヴィルの若造相手でも、今は五分と五分というのが私の見解です。」
自分一人の身も満足に守れないのに、姫の世話にまで手をのばすなど。
「まあ、情報を知る者は極力すくないほうが後始末は楽ですかね。」
…後始末。そのなかに自分もふくまれるのだ。
ルシアスの背筋に冷たい汗がうかぶ。
ひるんだ隙をつくように、スファルがぎゅぅっとルシアスの腕をつかみ、肉薄した。
「自分の行いに責任をとりなさい。いつまでも老い先短い爺に庇ってもらうなど恥ずかしいでしょう?もっとも。甘ちゃんのあなたに、全てを背負う覚悟があるとは、到底思えませんが。あなたは確かに有能な官吏だ。人の機微を利用し情報をひきだして交渉をまとめる才覚がある。私が鍛えただけあって、腕も立つ。だが、王座に座り続けるための非情さがたりない。」
激励か、嫌味か。耳元に唇をよせ、老臣は低い声でさらにささやいた。
「姫に手をかけたくないなら、なんとしても王位をお継ぎなさい。……そう、どうしても逃げ道がなくなったら、あの娘を殺す以外にもう一つ方法がありますよ。あなたが、彼女を、手折れば良いのです。」
(私はあの者をとらえた当初から、それを想定していましたよ。)
「…なっ…」
ルシアスは絶句する。
「それでは、あの好色な皇帝と、なんら変わらぬではありませんか!」
アリシアが沐浴をする岩陰にちらりと視線を向けたあとひそやかな声で反駁するルシアスに、スファルは菩薩のような微笑みをうかべる。
「王族に生まれた以上、婚姻に政治的な意図がふくまれることは避けられません。目合ったのち、互いに愛をはぐくむ努力をすれば、それはよき縁談となります。」
そして不承不承といった口調でスファルは言う。
「今同乗しているあなたの部下はとりあえず私の下に編入します。皆には、捕らえていた女が逃げだして宰相が追っているととでも言っておきましょう。」
国政のために時に人として情を切り捨てて生きてきた老臣は、きらりと目を光らせ、さらにこう付け加えた。
「言っておきますが、候補者は、他にもいます。こんなところで油を売っている暇はありませんぞ。私は平等に声をかけます。でおくれて賊軍にされぬよう、急ぐことです。…まったく。だから昨夜のうちに休息を、と言ったのに。」
く、と皮肉気に老臣の唇がつりあがった。
殊更恭しく一礼したスファルは、ルシアスたちが乗ってきたボートを押しながら、さっと乗り込む。
矍鑠とオールをこぎ船へともどっていく後ろ姿を苦い表情で見送った後、ルシアスは軽く手をふって背後の仕切りを解除した。
彼が自嘲とともに自身の怪我をした右足に視線をおとした時だ。




