令嬢の予約本
「信じられない。全滅よ、全滅!」
無言のまま帰宅して自室の扉を閉じたと同時に、私アイナは抑えていた心の声を室内に響かせた。
「お嬢様、それは残念でしたね」
悔しさから肩で息をしている私に、落ち着いた声を掛けて来たのは専属従者(仮)のソールだった。
ソールは長い脚を組んでドレッサーの前の椅子に堂々と座り、鏡を見ながら自分の前髪を弄っている。
「ちょっと、どうしてソールが私の部屋に入ってるの?しかも何で私のドレッサーに座ってるのよ」
ソールは私より3つ年下の少年だ。私の姉の嫁ぎ先の旦那様の従兄弟のお嫁さんの弟(つまり血縁のない遠い親戚)で、去年から我が家に居候している。
身長は平均値の私より数センチ低いくらいで、私よりも可愛らしい顔立ちをしている。男の子なのにアザトカワイイ仕草が似合う事には複雑な気持ちだけど。
ただ最近声変わりが始まったようで、何となく佇まいも男性っぽくなって来た気がする。私はお姉様3人に囲まれて育ったから、男の子の声変わりって何か不思議。
周りの使用人達に言わせればソールは『成長が楽しみ』で『将来有望な容姿』をしているんだそう。私が「今のままが可愛いくて良いと思う」って話したら「お子様ですわ」って言われた。
何でだー!
そんなソールは騎士団に入れる14才になる来年の年明けまで、行儀見習いついでに私の専属従者(仮)をしているのだけど、気付くといつの間にか私の部屋に入り込んでいて勝手に寛いでいるのだ。
「失礼な。さすがに僕でも机に座らないマナーくらいは知ってるよ」
私の非難にも素知らぬ顔で「ほらね」とズボン越しにもプリッと形の良いのが分かる臀部が、ちゃんと椅子に乗っているのを説明して見せる。
「ちょっ、と、なんでお尻なんて見せるのよ!
そ、それに誰も机とか椅子とかピンポイントで言ってないわよ!
従者が勝手に主人の部屋に入って家具を使うなって言ってるのよ」
ビシッとソールに指差して言う私に、ソールは深いため息を吐いた後立ち上がった。そして自分に向けられた私の人差し指を、自分の右手の親指と人差し指で輪を作って摘んだ。
まるで汚い物を嫌々触るかの様に。
「な!なんて掴み方すんのよ。変な風に摘まないで」
ソールはもう一度、私に見せつける様に肩を竦めながら深く息を吐く。
「人に一本指を向けない!!向けられた方は不快でしかないでしょう。
はぁ、何度教えたら分かるんですかね。この頭は。一体何が詰まってるんでしょうか、アイナお嬢様?」
「は?」
私は思わず呆けた顔をしてしまった。
「ほら、それもです。
血筋と顔は良いんですから、少しでもネコかぶってお淑やかにしたらどうなんですか」
え?
何で私がソールに責められてるの?
従者が勝手に部屋に入ってる方が問題よね。
しかも主人のドレッサーに、いやドレッサーの椅子に座っているなんて問題じゃないの?
確かに人を指すのはいけない事だけど。
ていうか、ソールが今まで私に何かを教えた事無いじゃないの。
血筋とか顔とかって言ってるけど、それ絶対褒めてないよね?
で、そのネコなんとかって何なのよ。
「聞いていますか?お嬢様のそんな姿、私は情けなくて悲しくなります」
ソールはそっとドレッサーの上のレースのハンカチを手に取り、目元を拭う仕草をした。
あれ?
ソールが泣いちゃう?
どうしよう。
泣かれるのは苦手なのよ。
「あー、もう!
私が悪くていいわ。そのハンカチ私のお気に入りなんだけど、あげるから泣かないでよ」
伝えたい言葉が真っ直ぐ伝わらない会話にならない会話(強調したいから重ねてみた)からのソールの涙に混乱してオロオロしてしまい、いつの間にか私のソールへの怒りは霧散していた。
「それで、結局手に入らなかったんですか?」
摘まれていた指先がいつの間にかソールの手の平に添えられて、誘導されるままにドレッサーの椅子に座った私にソールが訊いてきた。
目元に泣いた時の赤みは見えない‥さっきのは演技だったのね。また騙されちゃったわ。
あのレースのハンカチ惜しいなぁ。
ラブハルルーラ先生の4作目で出て来た主人公が持ってる『幸せの燕の刺繍のハンカチ』みたいって、学園のハルルーラファンの間でも自慢だったのに。
「って、そうよ!」
私は屋敷に帰ってくる前の悔しい出来事を思い出す。
「ラブハルルーラ先生の本がね、予約入れてたのに手に入らなかったの。本屋巡りもしたけど全滅よ」
ラブハルルーラ先生とは、3年ほど前から令嬢達の間で流行り出した少女小説の作者の事だ。
以前学園のお友達から借りて読ませてもらったラブハルルーラ先生の作品に魅せられた私は、その日の帰り道に本屋に寄って先生の既刊本を全て購入して揃えて、毎月の新刊を必ず手に入れる今ではハルルーラ語録(作品中のキュンとするセリフ)も空で言えるコアなファンの一人なのだ。
そして今日は月に一度の幸せの訪れる日『ラブハルルーラ先生の最新刊の発売日』だったのだけど、なんと予想よりも予約が多くて印刷が間に合わなかったとかで手に入らず、予約した本屋以外の本屋も巡ってみたけれど店頭のラブハルルーラ先生の最新刊が並べられる筈だったスペースには『完売御礼』の紙が一枚貼られていただけだった。
「学園の行事が重なってなかなか本屋に行けなかったのが痛かったわ。予約するのが遅くなったから仕方ないとは言え、予約順販売ですって」
予約順販売。
悔しい事に、私の目の前で最後の一冊が売られて行った。
最後の発売当日分の本を手に入れたのは、私が本屋に予約に行った同日に私より先に予約表に名前を記入していた少女だった。きっと今頃は作品を読み終えて、ラブハルルーラ先生の世界にトリップしているだろう彼女が羨まし過ぎる。
「あと数分、いえ数秒でも早ければ‥」
ブツブツと呟きながら予約がタッチ差で遅かった事を悔しがる私の頭に、スッとソールの手が伸びて来たかと思うと「悔しかったね」と、ポンポンと優しく撫でられた。
え?
今ソールは何をした?
『悔しかったね』でポンポン。
私はある事を思い出してしまった。
「あ、あ、えーと」
「『あなたが慰めてくれるの?』でしょう?」
耳元で甘く低めの声色で囁くソールに、一気に血の気が上がる。
そ、それはお嬢様と従者の下剋上ラブを書いたラブハルルーラ先生の先月の新刊で、主人公が父親に理解してもらえない悔しさでドレッサーの鏡を見ながら涙目になった所を、鏡越しに見つめる従者に慰められるシーンでの2人のセリフ!
いやいや待って。
私ドレッサーの前に座ってる。そしてソールは鏡越しに私の表情が丸見えの位置に立ってる。
気付いちゃったらそれにしか思えない。
これって、ラブハルルーラ先生のキュンとするシュチュエーションそのままじゃない!
そっと鏡越しにソールを窺うと、予想通りソールは真っ赤になっただろう私の顔を鏡越しに見ていた。
しかし目が合ったソールは、キュンとするはずのシュチュエーションに不似合いな言葉を発した。
「あ、真っ赤。なんだか猿みたいだね」
ツンツンとほっぺを突かれる。
揶揄する言葉に一瞬反応が遅れた私を見て、ニヤニヤを隠そうともしないソール。
私はさっきとは別の感情で自分の顔が赤くなるのが分かった。
「ふ」
「ん?ふ、何?」
愉快そうな表情で私を追い詰めようとするソールの横っ腹に狙いを定め。
「っざけるなぁー!!」
「グフッ」
グーで一発入れてやりました。
馬鹿じゃないの?
ソールって最低よね。
ハルルーラ語録を、あのかっこいい従者のセリフシュチュを、たかだかソールレベル如きが演じられるなんて本気で思ってるのかしら。
私の猫パンチにも届かない弱々な拳に殴られて床に沈み込んだソールが「マジか、グリッて重いの入ったんだけど?いや、俺も油断してたけどさ。アイナお嬢様のパンチ力はヤベェよ。ったく、本の中のお嬢様は絶対そんな事しないだろ。やっぱ現実とは違うよな」って、去年会ったばかりの時の様な素の口調で言ってたけど、無視よ無視。
まぁ、本と現実はやっぱり違うって点には私も同意するわ。残念だけど、ラブハルルーラ先生の書く作品に出てくるような素敵な男性は居ないだろうなって、本当は分かっているのよ。
私はラブハルルーラ先生の本が印刷所で早く増刷される事を願い、今度こそ新刊を手に入れられる日を楽しみに待つのだった。
読んでいただきありがとうございました。