無垢の美
秋のはじまりは、凝り固まった冷気を押し付けられたような肌寒さを覚えてからだった。残暑を終えてからはすぐに凍えるようになったため、冬とも捉えられる秋であった。
連日の雨に冷やされた外気は壁や布では防げぬ質をしていたからか、その日の私は体を芯から暖めることを考えるようになった。そうでもしなければ凍死を思わせるほどだったのである。死などと表現するのは事実からすると誇張ではあるが、その誇張をさせるには充分であった。はっきりとした不快感や失命に対する危機感は浮かばないものの、体は本能的に寒さを震えとして発散させていた。
ともかく温度というものを貪りたい気分なのである。
一番に出た案は風呂だった。
温度そのものである湯に体を浸すことの快感たるや――寒い季節にはなおさらである。人は己に足りないものを求めるというのが私の持論であった。今の場合、私に足りないのは温度であり、それを望むのは当然のことだ。
同じく、夏は冷気を求める。熱のこもった外気がつきまとう日には、冷水や潮が恋しくなるものだ。ただ、つい一、二ヶ月前に欲していたものと逆のものを望む身勝手極まりない要求であることはどこか皮肉である。心の底から望んだ冷気も、今になれば消えてほしい邪魔者だ。だがまた季節が回れば、今度は暖気に苛まれて今の冷気を渇望することだろう。
人はそうして、飽くなき欲望に突き動かされて生きるのだ。私はその欲が恥であるとはまったく感じなかった。人なる生物としてごく当然の営みだと自覚していた。
欲に忠実な私は、せっかくだからと銭湯へ出掛けた。湯へ入る前後にわざわざ夜風に当たるのはなんとも贅沢な行動であろうか。しかし、そんな感想を述べている私であるが銭湯の常連というわけでもない。今回はたまたま興が乗っただけの、ほんの気まぐれである。
今晩は雨が止んでいた。それも興が乗った一つの要因であるかもしれない。
私の住む近くにはいくつかの風呂屋があった。ぼんやりと近くに存在することは知っていたが、わざわざ利用するのはこれで何回目だろうか――子供の頃に数回行ったっきりかもしれない。はじめてでないことだけはわかっている。
車をふかして十、二十分ほどで到着。足場の悪さがあるからか今夜の利用客は多くない。私は上機嫌で服を脱ぎ捨てた。
広い脱衣所はその大きさであるにも関わらず、湯の熱気が閉じ込めてあった。しかし浴場そのもの、湯そのものの熱は比ではない。数値的な温度の差ではなく、質感や深みなるものが確かにそこにはあった。
感動。湯に対する心地よさがこれほどだと感じ取った日は今日以上にない。それはきっと湯のみで起こるものではなく、入浴前の体温や気温、さまざまな演出があってこその結果なのだろう。故に、今日以降に同じ感動を味わえる保証はなかった。
私は湯心地を噛みしめていた。本来ならば目を閉じて味わいたかったのだが、風呂場で寝てしまうのを危惧してできなかった。眠るのは心地よいことに変わりないけれど、危険であると聞いたことがある。私はなるべく目を冴えさせるようにあちこちを見てみた。
そこにふと、ひときわ目立つ存在があった。
現在、男湯の中にはほとんどが老人か中年の男しかいなかった。しかしただ一人、たった一人だけ少年がいた。その少年がいけなかった。
年は十か十一か、それほどに見える。性格は静かなものであった。他の客に迷惑をかけるような存在でもない。いけないのは素行じゃない。見た目だ。
少年の肌は白かった。筋肉は出ていないが、健康を見て取れる体つきであった。濡れた前髪から滴る水やその髪の色がなんとも艶やかであった。
総括すると、美しかった。美少年であった。
特に肌の白さは別格である。日に焼けているかの問題ではない。彼には脚にも、胸にも、脇にも、どこにも美肌を阻害する体毛がなかった。
先に私の持論を説明していたが、今回もまさにそれであった。成熟して得た黒色より、私は彼の白く、無垢な肌を美であると感じ取ってしまう。それが羨ましいとさえ思ってしまう。
それから後、私は少年に夢中だった。少年が歩く姿や泡にまみれる姿をじっと目に焼き付けた。
美の象徴として『ミロのヴィーナス』を例に出されたこともあったが、今の私からするとどんな彫刻や絵画よりも、未熟で無垢な血の通った少年のほうがずっと美しく見えるのだ。彼も青年になれば筋肉質でたくましい体に変貌し、彼自身はそれを望んでいるかもしれない。しかし、その美を私は忘れない。
そうか、私も昔はああだったのかもしれない。あんなにも美しかったのかもしれない。だが少年が青年になるまでの期間はとても短い。その短さや儚さ、誰もが持っていたが失った要素。
その持たざる部分に私は惹かれたのだろう。
『ミロのヴィーナス』は両手が存在しない。人々が両手を失いたいと望んでいるわけではないが、それは確かに人々が持ち得ない要素である。その持ち得ない要素にこそ美しさがあるのだと、私はそう思う。
すると少年の美しさはなんたるものか! 未熟であり、幼く、身長もない。私が失ったものをかき集めてできた存在であると形容しても差し支えないほどである。
形状や色彩の美だけではなく、誰しもが通ってきたであろう過程。また、その過程を通過してしまう早さが少年の美しさをより引き立てていると感じられた。
その証拠に、私が少年をもっとも愛らしく美しいと感じたのがあくびをしている時であった。退屈そうな、無防備な、不完全な姿がそこにはあった。私のように湯に感動することもなく――それについて人間性の優劣をつけるわけではないが――彼には私の持たないあどけなさがあった。
少年もその退屈さからか、周辺をきょろきょろと見るようになった。一瞬だけ目が合って、私はそこで仕方なく風呂を出たのだった。
思えば、少年の裸など長いこと見ていなかった。見たいとも思わなかった。
けれども自分は邪な気持ちも何もなく、ただ美として少年の裸体に興味を持ってしまった。
私の持っていないもの、私の失った無垢。やはり、それこそが彼を美しいと思わせる理由なのであろう。
私はまた寒くなれば同じ銭湯へ行こうと思う。また彼に会えるとも限らないが、私は彼の成長を見届ける父になったような感覚でいた。あの少年の美しさがどこまで続くのか。果てしない満足感を胸に私は夜風を吸い込んだ。
このお話は、ただそんな下衆な私が感心した美しき光景の感想だけである。
太宰治の『美少女』という作品を読んで着想を得ました。
文章力では劣っていても変態度では勝ちたかったんです!