魚彦物語
僕の母さんは幻想の中で生きている人だった。
父さんはいつも通り出張で家にはいない。僕は母さんの相手をするよりは、と財布と定期券を持って、家を出た。朝露が山から顔を出し始めている日の光に揺れる湿り気のある朝だった。
電車を乗り継いで、僕は海に来ていた。海といっても、人はいない。
砂浜などない剥き出しの岩に打ち付ける波は、海水浴に好んで来る場所ではないだろう。僕は岩にたたきつけられている波が靴を脱いだ素足にかかるかかからないかぐらいのところに座るのが好きだ。ズボンが濡れるのはどうでもいい。どうせ、この日差しなら渇くだろうから。
「魚は嫌いなんだ……」
昨晩、食卓に出されたハマチの切り身に僕がそう呟くと、母さんは「どうして?」と首を傾げた。
「だって、母さん。前に言ってたじゃないか。僕の名前、ハマチと一緒の名前なんでしょ」
そうしたら、母さんはにっこりと笑った。
「あら、でも、魚彦はおいしかったわよ」
母さんは夕飯中ずっと僕じゃない魚彦のことについて喋ってた。魚彦が死んだ後、三枚におろして、すべて平らげたことも。それがたいそううまかったことも。
僕は、夕飯を残した。
家にいるのが息苦しいのは仕方がないことだ。いっそのこと、僕も自由に海を泳げたらいいのに。
そう考えていると、いきなり下から噴き上げるように存在を大きくした波が目の前にせまっていた。「あ」と一言も言えないままに僕は波に飲み込まれた。まるで目を瞑ったままジェットコースターに乗ってるみたいだった。
ふっ、と大きく揺さぶられる感覚がおさまって、僕はおそるおそる目を開けた。
目の前にハマチがいた。
「君、どうしたの? なんで、そんな変な形してるの?」
目の前にいたハマチは僕に問いかけた。ハマチが喋ることもおかしいが、僕は上を見上げた。きらきらと揺れる水面が視界に広がる。そらみたことか。
僕もどうやら、僕じゃない魚彦と一緒らしい。
母さんの幻想の中で生きている。
「そんな猿みたいな形やめて、皆で泳ごうよ」
僕は首を横に振った。
「僕は魚にはならないよ」
どうして、とハマチが不思議そうに聞いてきたので僕は笑って答えた。
「三枚おろしにされて食べられたくないからさ」