23話 ハティ、魔獣の恐怖に絶望する
「あ……あ、あああ……っ」
目の前の光景に言葉を失ってしまうハティ。
彼は父親を炎で焼かれていたために知っていたものの、赤髪の女傭兵はまさか巨大な魔獣が口から炎を吐くことまで知らなかっただろう。
自分の警告があと僅かに早かったならば、と思わず燃え盛る炎から目を背けてしまうハティだったが。
「ふぅ、危なかったよ……少し炎が髪を掠めちまったねぇ」
ハティが顔を背けた視線の先には、片膝立ちした女傭兵アズリアの姿があったのだ。
本当にギリギリのところで回避したのだろう、彼女の赤髪、その一部の先端が黒く焦げているのが見えた。
すると彼女は、魔獣と交戦中だというのにこちらに向けて。
「アンタの声のおかげで避けられたよ、ありがとなッ」
「あ、ああ?……お、おう……っ」
と、感謝の言葉を口にしてきたのにハティは驚き。
咄嗟に言葉を返すことが出来なかった。
巨大な魔獣が猛威を振るう中、窮地に追い詰められた集落の一体誰が。他人を思いやる程の心の余裕があるだろうか。
しかも、彼女は逃げ惑っているのではなく。凶暴な魔獣と一騎討ちをしている最中だというのに、である。
しかもアズリアとの戦闘で、集落の女子供や高齢の者、そして負傷者も。ようやく安全な場所まで退避する目処が立った。
寧感謝の言葉を口にしたいのはハティだったのに。
「く、くそっ……オレは、オレは……っっ!」
ハティは、護身のために握っていた剣の刀身をジッと見つめながら。
ただ、この場から動かずに女傭兵の勝利を願うことしか許されていなかった。
「オらあッッ! ここから先はッ……もう一歩たりとも進ませやしないよおオッッ!」
体勢を立て直したアズリアは、持っていた巨大な剣を両手で握り直すと。
魔獣にそう吼えると同時に、四つん這いに近い極端に低く腰を落とした体勢から。まるで極限まで振り絞って放たれた矢のごとく、凄まじい速度で魔獣へと迫る。
当然、アズリアの挙動を察知していた魔獣は再び彼女の身体を真横へ吹き飛ばそうと。勢いよく前脚を振り上げ、重い爪撃を繰り出していくが。
「はッ!……同じ攻撃が、二度通用するなんて……思ってんじゃねえ──ぞオッッ‼︎」
迫ってくる爪と前脚を、今度は受け止めるのではなく。魔獣の攻撃に合わせるようにアズリアが大剣を振り上げ、爪に目標を合わせ漆黒の刃を放っていく。
魔獣との純粋な力比べなど、無謀だとハティは思ったが。予想に反して押し戻されたのは魔獣の前脚だった。
──ギャオヴヴゥゥゥゥ⁉︎
魔獣も、まさか人間に力負けするとは思ってもなかったのか、驚いているかのような鳴き声を漏らしていたが。
先程、魔獣が振り抜いた前脚は。攻撃であると同時にアズリアの突撃を制止するための防御手段でもあった……それが弾かれたのだ。
「コイツを喰らい……なッッ!」
ガラ空きとなった魔獣の懐へと突撃に成功したアズリアは、右眼に真紅の光を宿しながら再び握っていた大剣を振り抜き。
魔獣の胴体部に重い斬撃を放っていく。
「す……凄すぎる……っ」
魔獣とアズリア、一匹と一人との戦闘に見入っていたハティは思わず言葉を漏らしていた。
出来る事ならば自分も力になりたい、と拳を握り締めてはいたが。自分が女傭兵の援護に、魔獣との戦いに割って入ればたちまち牙や爪撃、そして炎の吐息の餌食とされてしまうだろう。
自分の集落の危機を、外から来た女傭兵に委ねなくてはならない不甲斐なさに。ハティは本当に血が流れるほど強く、唇を噛み締め。
そして、再び魔獣とアズリアとの戦闘へ視線を移すと。
「ははッ……どうやら今の一撃は効いたみたいだねぇ!」
先程のアズリアの一撃は魔獣の腹を深々と斬り裂き、大きな傷口からは人間と同じ真っ赤な血を流していた。
と同時に、今まで後脚二足で直立していた巨大な魔獣の身体がグラリ……と揺れる。
魔獣の姿勢の崩れを見たアズリアは、ここが一気に畳み掛ける好機と睨んだのだろう。つい先程繰り出した攻撃よりも、今度は少し「溜め」を大きくして二撃目を狙う。
だが、魔獣の武器は吐息だけではなかった。
「う、うおッ?……あ、熱ッ、熱いいッッ⁉︎」
何と、魔獣の表面の毛皮が炎のように眩しく光り輝いたかと思うと。
次の瞬間、本当に魔獣の表面から炎を放ち始め。先程アズリアが傷付けた傷口からも、鮮血の代わりに炎を噴き出し始めたのだ。
いくらアズリアの持つ大剣が巨大であっても、攻撃範囲に留まっていては魔獣の表面から噴き出す炎で炙られてしまう。
堪らず、続く攻撃の溜めを一旦解除して背後に飛び退き、炎の熱から逃れようとするアズリア。
「し、しまったッッ!」
だが、魔獣はアズリアが炎を嫌い距離を空けることを予測していたかのように。左右からはそれぞれの前脚を、頭上からは口を開けて鋭い牙を剥き出しに噛み付こうと。
頭上と左右、三方向からの同時攻撃をアズリアへと仕掛けていたのだ。
既に背後へと飛び退いていたため、さらに背後には逃げられず。三方向から同時に襲い掛かる魔獣の攻撃を防御するしかなく。
不安定な姿勢ながらも、最初に到達した右腕の爪撃を何とか大剣で弾き飛ばし。頭上から迫る鋭い二本の牙を大剣を横に構えて受け止め、牙が身体を貫くのはどうにか防ぎ切る。
最初の爪撃と牙を防御出来ただけでも、アズリアの技量の高さとその膂力には目を見張るものがあったが。その彼女でも、二撃目を防御するまでが限界だった。
大剣で牙を受け止めている体勢、無防備の真横から左腕が迫ってくると。
「が……はあああぁぁッッ⁉︎」
鋭い三本の爪がアズリアの身体をまともに捉え。鋭利な刃物が肉を切り裂く嫌な音とともに、彼女の身体は軽々と吹き飛ばされてしまう。
つい少し前にも、魔獣の攻撃で吹き飛ばされたアズリアだったが。その時はあくまで防御には成功したが、力負けしただけで。すぐに体勢を立て直していたが。
今回は様子が違う。吹き飛んだアズリアの身体は受け身を取る素振りを見せないまま、二度ほど地面を跳ね。
「が……ふッ……ま、まともに喰らっち……まったよ……ッ……か、は……ッッ」
うつ伏せのまま地面に倒れた彼女は、すぐに起き上がろうとするが。アズリアの意思に反して、攻撃を受けた身体は震えて自由に動かない。
前脚の爪が直撃したのだろう、ズタズタに切り裂かれた左腕から流れ出す血が地面に流れ。
大きく吹き飛ばされるほどの攻撃の衝撃は、口からも血を吐き出す程の威力だった。
「あ……あ、あ……あああっ……」
ハティは「アズリア」と名前を叫び、吹き飛ばされ倒れた彼女へと駆け寄りたかった筈だ。
だが、いざ名前を叫ぼうとしても。ハティの口からアズリアの名前が出ることはなく、震える唇からは言葉にならない声が漏れるに止まり。
魔獣の恐怖に怯えた脚は、その場から一歩たりとも動かすことが出来なかった。
その時、ハティは一瞬だけ魔獣と視線が合う。
「──ひ」
ハティの頭には、魔獣に殺された時の父親の最後の瞬間と表情が浮かび上がり。
ただ茫然と立ち竦むのを、魔獣はまるで無視し。
己を傷つけた憎き敵の生命を完全に絶つために、倒れたアズリアへと一歩、また一歩と迫っていた。
ハティは震えの止まらない脚を、何度も殴りつけてアズリアの元へと向かおうとするが。
「く、くそおっ!……動け、動けよ、オレの脚っ……」
だが魔獣の姿を見るたびに、頭の中で焼け死んでいった父親や集落の戦士たちの姿が色濃くなり。脚の震えは止まるどころか、より強さを増していた。