106話 アズリア、海よりの襲来の気配
ふとアタシは背後の海へと視線を送ると。
風と海流に乗り、凄まじい速度で海を奔ったからなのか、もはやネルソン率いる海軍の乗る軍艦はアタシの視界に映らなくなっていた。
風や波飛沫を受け、相変わらず船体は大きく揺れはするのだが。
アタシが舵を取っていた時の、船の何処かへ掴まっていないと身体が海に投げ出されそうになる左右への激しい揺れとは違い。
ヘイゼルが舵を握った途端に、身体が浮くような……だが決して、船外へと飛び出してしまう類いの強さではない揺れに変わった。
風と海を制する、卓越した操船の技術。
この安定感こそ、アタシとヘイゼルの経験の差というモノなのだろう。此ればかりは悔しいが認めざるを得ない。
舵を代わったアタシは、眼の良いユーノに進路方向の見張りを任せるため、帆を張るための麻縄を受け取る。
「ユーノ。この先にゃ海の主がいるかと思うけど……何か妙だと思ったらすぐにアタシらに報告するんだよ」
「うんっ、まかせてお姉ちゃんっ!なにかみつけたらすぐお姉ちゃんにほうこくするから!」
娼館の襲撃の時にはあまりに気配が多すぎて、上手く活用出来なかったが。
住人が所狭しとひしめく街の中とは違い、こういった野外でこそユーノの鋭敏な感覚は活きるというものだ。
任せて、と主張するかのように胸を軽く自分の拳で叩いてみせたユーノは、揺れが変わったからか身軽な足取りで船首へと向かう。
すると、先程からずっと難易度の高い「海流操作」の魔法を維持してくれているにもかかわらず。
ユーノへ指示をしたばかりのアタシへと、水の精霊が涼しい顔をして声を掛けてくる。
「ねえねえアズちゃん?……お姉ちゃんには他に何かを任せてはくれないのぉ〜?」
「……いや、水の精霊は海流を操ってくれてるんだろ?……集中とか魔力とか、ホントに大丈夫なのかい?」
「あらアズちゃん、お姉ちゃんを心配してくれてるの〜うふふ、ありがとう〜」
正直言って、これだけの速度を出すために必要不可欠な「海流操作」だけでも充分すぎる程に役に立ってくれていて、既に大助かりなのだが。
ヘイゼルが舵を巧みに操り、ユーノが張り切って船首に立ち見張りを任されているのを見て、どうにも我慢出来なくなってしまったのか。
「ん〜でもねぇ……人間が使う魔法と違って、お姉ちゃんはねぇ〜これでも水の精霊だから。海流を操るのにそれ程魔力を使わないのよ?」
「そ、そっか……さすがは水の精霊だねぇ」
黄金の国で、現在では使用が困難な魔法による転移をアタシの「師匠」である大樹の精霊が軽々と行使してみせたように。
親しみやすい態度と口調と、アタシを好いてくれていることから、ついつい忘れがちとなってしまうのだが。
精霊、という存在がアタシら人間と比較してどれだけ大きな存在かというのを、海流を涼しげな表情で操作する姿を見て……あらためて思い知らされていた。
つい思案に耽るアタシを現実へと呼び戻すかのように、舵を取るヘイゼルがこちらへと叱咤にも似た言葉を投げる。
「おいアズリアっ、ぼっとしてるんじゃねえぞ!この風と船の速度なら……あたしの想定じゃそろそろアダマン島が見えてくる頃だ────どうだいユーノ?」
ヘイゼルに舵を任せ緩やかになったとはいえまだ揺れている船体の、足元が不安定な船首へと立ち、遠くの海を監視していたユーノは。
「えっと……ねえ、まだりくちやまちはみえないけど、あのおっきなくろいかげ?うみのぬし?ならこのふねのさきにみえるよおっ!」
ユーノからの報告を聞いて、アタシもより遠くを見ようと目を細めて、船の進む先に視線を向けるが。
アタシの視界にはまだ黒い影や陸地、それに他の海軍の軍艦などは一切映らずに、ただ海が広がるのみであった。
「……アタシにゃまるで海の主の頭すら見えないけどねぇ、やっぱり見張り役をユーノに代わってもらって正解だったみた────」
「お、お姉ちゃんっ?な、なんかうみのなかからこっちにちかづいてきてるのっ!……それもいち……にい……と、とにかくたくさんだよっ!」
ユーノの眼の良さを褒めるアタシの言葉を途中で遮ったのは、その対象となっていた彼女当人であった。
しかもその内容とは、正体不明の何者かが王都とアダマン島のある方角から、こちらへと接近するという報告であった。
……それも、複数。
少しばかり余談になるが。
コーデリア島で育ったであろうユーノは、言葉の読み書きこそ出来ないが。島で敵対していた神聖帝国の刺客の数を12まで数えていた時点で、一定数までは勘定することが出来ることは承知している。
にもかかわらずユーノが「たくさん」と表現したのは、勘定出来る以上の数なのか。もしくはただ唐突な出来事に焦っているだけなのか。
「落ち着けユーノッ、船首から何がこっちの帆船に接近してるか見えるかい?」
「う、ううんっ……けはいだけはわかるけど、ボクうみのなかまでみえないから……ううう、ごめんねお姉ちゃん」
「いや、ユーノが察知出来なきゃアタシらはソイツの接近にすら気付かなかったんだ、さすがはユーノ……上出来だよ、ありがとね」
「……お姉ちゃん……う、うんっ」
まずは状況を冷静に判断するために、ユーノへ言葉を掛けてみるが。
これだけ視界が開けているのに、相手の姿が見えないことにユーノはすっかり動揺し落ち込んてしまっていたので。
アタシは先程ユーノに遮られ、掛け損なってしまった称賛の言葉を彼女へと投げ掛けるのだった。
「────鉄拳戦態ああっ!」
アタシの言葉で気を取り直したユーノが、魔力を両腕に集中させて身体強化魔法よりも精密な魔力操作を行ない。
大地の魔力が黒鉄に変換され、まるで鉄巨人を思わせる巨大な鉄の籠手を両腕に纏っていく。
アタシも何度このユーノの姿を見てはきたが、水の精霊からの説明を聞いた後だと余計に、その魔力操作や魔力制御の精巧さが理解出来るというモノだ。
と、同時にアタシは背中に背負っていた大剣の柄に手をかけ、襲撃に備え警戒心を一段階、いや二段階ほど上昇させる。
ユーノが気配を察知し「鉄拳戦態」まで発動させた時点でただの魚などではないだろう。
しかも、こんな状況で王都側からアタシらの船へと接近してくる海中の存在が、海魔族などの友好的な存在である可能性は限りなく低いからだ。
「ちっ……あたしだって自分の身を守るくらいは出来るんだが、今は舵から手を離せねえ……っ」
「安心しろって、もしもの時にゃアタシやユーノが全力でヘイゼル、アンタを守ってやるから。アンタは気にせず舵を取ってくれててイイんだよッ!」
アタシが警戒を強めたのは、今は舵を握り手が離せないヘイゼルを護衛するためでもある、のだが。
「はははっ、ホルハイムの英雄サマに獅子人族の族長サマに守られてりゃ、確かに安心だねえ」
「……その呼び名で呼ぶんじゃないよ、ヘイゼル」
「何でだい?……英雄サマなんて立派な呼び名じゃあないか」
「アタシの柄じゃないんだよ、英雄サマなんて呼び名はさぁ」
「わかったわかった……あたしは守ってもらう身だ、減らず口はこの程度にしておくさ。それじゃよろしく頼むよアズリアっ」
……まったく。
先程、舵をアタシから代わった時の気遣いと互いの拳を打ち合わせた時の気持ちはどこへ消えてしまったのやら、と。
アタシは軽く溜め息を吐きながら、もう一度ヘイゼルとの会話で緩んでしまった緊張感を戻すのだった。




