96話 海の主、そして剣匠卿と交わり
────時は遡り。
まだアズリアがレーヴェンの屋敷にて、王都に同行するか否かを決め倦ねていた頃。
正々堂々たる決闘に敗北し、その時の負傷で動かぬ身体を街まで運んでくれた二人の冒険者らを。
自らの一部、瘴気を無理やりその体内へ取り込ませて黒く染め、時間稼ぎに夜の街へと解き放った後。
自らを「神」と名乗る不遜な存在、セドリックに誘導された元・剣匠卿イングリッドは、とある場所に到着する。
そこは、モーベルムの街から少し離れていた、海に面している崖の上であった。
「────ここは、海ではないか。こんな場所に一体何があると……」
『……まあ……少し待っていろ……男よ』
イングリッド側は言葉を口にしているが。
あくまでセドリックは彼の頭の中で言葉を発しているに過ぎない。側から見れば独り言をブツブツと口にする挙動不審な人間だ、と衛兵や門番に報告されるところだが。
街から外れたこのような崖へ続く道を、夜遅くに人が利用するはずもなく。誰にもその姿を目撃されぬままここまで辿り着けたのだ。
おそらくは……グラナード商会側が雇い入れた女傭兵に切り落とされた右腕を、いかなる治癒魔法かは知らないが再生してくれたセドリックの言葉だ。
イングリッドは黙ってその言葉に従い、海を一望出来る崖に立つことにする。
それからしばらく時間が経過すると。
崖上から見下ろしていた穏やかな海に、異変が起きる。
「────む。海の底から何かが……岩山か、それとも島がこんな場所に?」
静かだった海面へ突如として白い波が立ち、崖下に波が叩きつけるようになり。
さらに波が強くなるにつれ、今度は海面が盛り上がり水の底から何か大きな塊が浮上してきたのだ。イングリッドは最初、岩の塊か島が迫り上がってきたものだと思ったが。
それをセドリックがすぐさま否定する。
『……ふふふ……よ、よく見ろ我が使徒イングリッドよ、あれは岩や島などではないぞ……』
「────な、何だと……あれは、生き物っ?」
落ち着いて浮上してきた塊を凝視すると、それは何か巨大な生き物の頭部のようだった。
頭の中で響くセドリックの声は、剣匠卿が遭遇した時に比べて覇気を失い、まるで老人のように皺枯れた声に変わっていたのが気になったが。
それよりもイングリッドは、海に突如姿を見せた大きな塊の正体が気になって仕方がなかった。
「────神セドリックよ。つかぬ事を聞くが、一体この生き物は何なのだ。このような生き物が海に生息するなど、聞いたこともないのだが……」
『……ふふふ……信じられぬのも無理もない……』
……というのも、生き物の頭部であることだけはかろうじて理解出来たが、あれが頭部であるならばその生き物の大きさは一つの城程にもなる。
海にそのような巨大な生物がいる事すら、イングリッドは初耳だった。
『……此奴は我が偶然にも海の底で眠っていた……人間らの伝承で大海獣と呼ばれている巨大な魔獣よ。それを我が祝福を与え……お前同様に使徒としている……のだ……』
確かにコーデリア島で「神聖帝国の勇者」として育て上げられた女勇者ルーの身体を使い地上へ顕現したセドリックは。
魔王リュカオーンとその仲間てある四天将、そして人間でありながら剣を向けた女戦士の手によって、一度は朽ち果てたのだが。
セドリックの意識が残存した瘴気の欠片はその激しい戦闘中に海にまで飛散し、人の近づかないコーデリア島近海の底に眠りについていた大海獣をも侵蝕していたのだ。
もちろん、その程度の欠片では魔獣の意識を乗っ取ることは出来ても、神聖帝国を背後で操り人間どもを意のままに操るなどという所業や。
アディーナやバロール、ルーに与えたように、他人の生命を代償に数々の強力な祝福を授けるという真似は不可能だったが。
セドリックは侵蝕した大海獣の身体を使い、もう一度地上に顕現するために必要な、人間や魔族に代表される知恵ある種族の生命を集め直すためにコーデリア島での再起を放棄する。
そして辿り着いたのが、ここコルチェスター諸島だった。
大海獣の身体のままでは活動範囲が海上に制限されてしまう。だからこそ海中の生物の生命を喰らい、僅かながら蓄えた瘴気を吐き出して絶望に落ちたイングリッドを使徒の列に加えたのだが。
ここでセドリックは、イングリッドへと驚きの提案を頭へと響かせる。
『……さあ、使徒イングリッドよ。あの大海獣の力をその身に取り込むため……あの口へ自ら飛び込むのだ……』
「────な、何だとっ?……そ、それはみすみすあの巨大な生物に喰われろ、とそう言っているに等しいぞ!」
突然「口に飛び込め」と言われれば、それは自害と同じ意味だ。
どれ程に絶望した人間であっても死に方くらいは選びたいもので、さすがに魔獣に生きながら喰われる死に方ほど悲惨な死に様を誰も選択はしないだろう。
『……イングリッドよ。お前が大海獣よりも優れた存在ならば……きっと此奴の肉体、魔力、その全てを己の能力に取り込むことが出来るだろう……その時お前は「海神」と呼ばれる存在となる……』
それを聞かされてもなお、崖から脚を踏み出すことに躊躇してしまうイングリッド。
その態度を見て、セドリックは彼をどうにか大海獣の口に飛び込ませるため、背中を押していく。
『……どうした?……怖いのか、それとも……お前の腕と名前を奪った女への憎悪とはそれ程に浅いモノだったのか?』
「────っ⁉︎」
それは背中を押す、というよりも男の精神を煽り、挑発するかのような言葉。
だがその言葉は、躊躇するイングリッドの脚を動かすには充分すぎる原動力となったようで。
「────オレが恐怖している?……はっ、オレが恐怖するとすればそれは死、ではない。オレを倒したあの女傭兵!……剣匠卿として認めなかったこの国の王族……全ての連中に復讐の刃を突き付けられなかった時だ!」
逆恨みとも言える決意を吐き出して、イングリッドは崖から脚を踏み出し、崖下の海面から顔を出していた大海獣の口へと墜ちていく。
その落下する刹那、彼の頭の中では。
『……ふふふ……この男が勝利しても、大海獣が勝利しても……再び覚醒したその時、力を多少は取り戻せているはずだ……』
こうして、新たなる海の主。
黒い「海神」は誕生したのであった。




