94話 アズリア、海の異変に遭遇する
そんな漆黒の海を見つめるヘイゼルの肩に突然手が置かれ、声が掛けられる。
「いざとなれば……なんだってんだい?」
その声に反応した彼女の身体がビクンと跳ねる。
そう。ヘイゼルの肩に手を置いて声をかけたのはアズリア……つまりアタシだった。
港を出てしばらくは、張った帆を麻縄で固定しておけば平気だ。
そして船が進む方角を決める舵は、今はユーノに任せてある。
だから帆を張る役割のアタシが、見張り役のヘイゼルへと声を掛けたのだが。
「……な、何の話だい?……あ、あたしは別に」
すると、ヘイゼルは旅の同行を申し出てきた時と同じく、両手を開いて腕を掲げ無抵抗であると主張しながら。
アタシへと振り返ると、無理やり作った愛想笑いを浮かべながら弁解を始める。
アタシはただ、ヘイゼルに海に異変がなかったか声を掛けようとした時に、懐に手を伸ばし不敵な笑いと台詞を口にしていたのを偶然にも目撃したので。
少しばかりカマをかけてみたのだが。
「どうやらアンタにゃアンタの目的があるみたいだねぇ……まぁ、当然っちゃ当然だが。だが……ッ、一つだけ言っておくよ」
「な、何を────んむぅっ⁉︎」
そんな愛想笑いを浮かべるヘイゼルの鼻に、自身の鼻が触れるまで踏み込むと。
何かを言わんとする彼女の唇に指を置いて、アタシは言葉を続ける。
「もし、ユーノの正体を誰かに明かしてあの娘が酷いメに遭ってみろ。その時はヘイゼル……お前を絶対に許さないからな。何処まで逃げても追い詰めて────殺す」
最後の脅し文句を吐きだす際にのみ、本気の殺意を込めてヘイゼルを睨む。
まあ、最後の脅し文句は。アタシらの船に乗り込む際にユーノの正体を暴露すると脅迫じみた提案をしてきたことへの意趣返しのようなモノだったが……その効果は抜群だったようで。
「は、はは……ひ……ひぃぃぃっ⁉︎」
その殺気に、ヘイゼルは身体を震わせ、歯をカチカチと鳴らしながら、甲板に足腰から力が突然抜けたかのようにへたり込む。
数々の精霊との出会いや、魔族を率いたコピオスや北の帝国の焔将軍ロゼリア、そして神聖帝国の刺客ら強敵との生命を削り合う戦いを乗り越えた人間が発する殺意の強烈さを、アタシ自身が理解していなかったのだ。
「あちゃぁ、少々脅しが効きすぎちまったかねぇ……ほらヘイゼル、手を貸しなよ」
船の縁を背もたれにしながら、立ち上がろうにもまだアタシへの恐怖で身体を震わせていたヘイゼルの手を取ろうとした。
────ちょうど、その瞬間だった。
突如、船が大きく揺れる。
傾く船体にアタシは、海に投げ出されないよう帆を張るための麻縄へとしがみ付く。
何しろアタシの装備は武器も鎧も、鉄より重いクロイツ鋼製だ。間違って海に落ちでもしたら装備を脱ぎ、海中で捨てない限り浮かび上がってくるのは無理な話だ。
魔法には、どれだけ重装備でも水の上に浮かべる効果の魔法もあるというのだが、残念ながらアタシは魔術文字を所持している事情から、通常の魔法が一切使えないのだ。
「な、何が起きたんだいッ?」
「……こ、この揺れ方は、大波だっ!」
アタシは麻縄へと掴まりながら、ヘイゼルが言う「大波」とは何なのか、という説明を簡潔に聞く。
船の側面、つまり横から突然発生した強い波を受けると、船は一度強く衝突した波によって倒されそうになるが。
海に浮かぶような構造となっている船は、今度は倒れる船体が体勢を戻そうと真逆の力を発生させ。それが何度も繰り返される、というのがヘイゼルの説明だ。
「つまりだヘイゼル……真横にアタシらの乗る船をこれ程揺らす大きな波を引き起こす、何かがあるってコトだねッ?」
アタシの問い掛けに、船の縁に掴まっていたヘイゼルは無言で首を縦に振る。
だが、つい先程まで海には何の異変も見られなかった。
だからこそアタシはユーノに舵取りを任せ、見張り役のヘイゼルに声を掛けられたのだから。
「────お姉ちゃんっ、あれみてえっ!」
そこに舵にいるユーノの大きな声が響く。
そのユーノが指差していたのは、ヘイゼルやアタシがいる側の海の先であった。
少しばかり船の揺れも落ち着いてきたためか、座り込んでいたヘイゼルも立ち上がり。必死で麻縄にしがみ付いていたアタシも、ようやくユーノの指し示す方向に視線を向けることが出来た。
「な……何だいあの大きな黒い影はさぁ……?」
「あ、あんな大きな魔物、あたしも長い間海を見てきたけど……見たことがないよ」
アタシとヘイゼル、二人は驚きを隠せない。
何故なら、アタシらの視界の先には……夜の闇でおぼろげにしか見えないが、遥か遠くに大きな影が見えた。
生き物だと断定したのは、その影は船と同じかそれ以上の速度でアタシらの乗る帆船から離れていっていたからだ。
それに伴い、船の揺れも既に収まっていく。
確かに、あんな大きなモノが海の上を動き回ったから大きな波も起きようというものだと納得してしまった。
しかもあの影はアタシらの船から離れていっていたので、これより先の航海でも波が発生する以上の脅威にはならないのだが。
アタシには一つ、気になることがあった。
「なぁ、あの影が向かってる先ってさぁ……もしかして、モーベルムの街じゃないかい?」
それは、あの黒く大きな影が動く先だった。
アタシらの船から遠ざかっていった、ということはあの影……大型の魔物かなにかはもしかしたら、今までアタシらが滞在していたモーベルムの街を目指しているのかもしれないと懸念したのだ。
だが、そんなアタシの懸念をすぐさま否定したのはヘイゼル。
「いや……指南魚とアズリア、アンタが好きな星を見てみな。あの影の進んだ方角とモーベルムはほぼ真逆だ。その心配はいらないさ」
「そ、そうかい、それなら少しはホッとしたよ」
いくらあの街にカサンドラらに代表される冒険者が滞在していたとしても、あれだけ大型の魔物相手ではどれだけの被害が出るか想像がつかなかったからだ。
せっかくルビーノ商会との確執が解決したばかりの領主カスバルやレーヴェンらが無事で済むか、も気掛かりになってしまう。
だが、どうやらその心配はないとヘイゼルが指南魚を覗き込みながら、海上では素人丸出しのアタシへ分かりやすい説明をしてくれたのだ。
その説明に安堵し、ホッと胸を撫で下ろしていると。近寄ってきたユーノが先程まで影が見えた方向に視線を向けたまま。
何か考えごとをするように腕を組み、話し掛けてくる。
「ねえ、お姉ちゃん……ボク、あのおっきなかげどこかでみたことあったかおもいだしたんだけど」
「ゆ、ユーノッ?……アンタ、あの影を一体どこで見たんだい?」
「え?……お姉ちゃんもいっしょにみたよね?」
見覚えがある、というその言葉にアタシは驚く。
何しろ、ユーノはコーデリア島を出港してからほぼ一緒に行動していた筈だったからだ。ということは、アタシもあの影を見覚えがあるということだからだ。
だが、アタシの頭にはあんな黒い影を目撃した記憶が────
いや、待てよ。
アタシは色々な出来事があり、積み重なっていたユーノとの航海の記憶を丁寧に紐解いていると。
それらしき記憶の欠片を拾い上げることに成功する。




