89話 アズリア、これから向かう先は
「────負傷した剣匠卿とあの二人が街に戻るのは、門番が確認していたようですが……それ以降、剣匠卿の足取りは確認出来ませんでした」
レーヴェンとは一人娘レイチェルを挟んだ席に座っていたアタシは、耳を澄ませると。
初老の使用人ディノスの、主人への小声での報告を何とか聞き取っていた。
負傷したあの似非剣匠卿が姿を消し。
その剣匠卿を連れ帰っていた監視役の二人の冒険者が、かつて魔王リュカオーンが統治するコーデリア島で遭遇した「神の名を騙った存在」に祝福を受けた人間のように。
その肌を黒曜石のような漆黒に染めてアタシらの前に現れた。
アタシにはこの二つの出来事が、全く関連のない話には到底思えなかった……のだが。
使用人からの報告を聞いていたレーヴェンは、心配そうに父親の顔色を伺っていたレイチェルにこれ以上心配をかけまい、と無理やり笑顔を作っていたのだ。
ならば、ここでアタシが拾い聞いた話をするのは野暮の極みというものだろう。
すると店の奥、厨房から何度か顔を見せてくれていた料理長が現れ。
提供された大海蝦と鎧魚の二皿、そして食後酒を終えたアタシらへと軽く頭を下げ、挨拶をするのだった。
「皆さま、本日は私が腕によりをかけたモーベルムの海の恵みを味わっていただき、ありがとうございます」
「いや料理長、いつも通り最高の腕と料理の味だったよ。私の事業の恩人である彼女らにここを強く勧めたのは間違いじゃなかった」
料理長の挨拶へのレーヴェンの返答に、アタシも納得する。
大海蝦の塩焼きの身肉の甘さと塩味の絶妙さ。
白い葡萄酒でふっくら炊き上げられた鎧魚の柔らかさと強烈な旨味。
そして、この二品の後に用意された酒の組み合わせの妙。
「うんっ!ボクもこんなにおさかながおいしかったなんてびっくりだよっ!」
「お客様のその言葉と笑顔が、私たち料理人にとっての何よりの報酬でございます」
二人の会話に割り込んで、あれだけ嫌がっていた鎧魚を綺麗に骨の一本まで残さず平らげてしまったユーノが、目を輝かせながら満面の笑顔で料理を絶賛する。
そんなユーノにも軽く頭を下げる、そんな料理長もまた満足そうな笑顔を浮かべていた。
長かった夕食会を終えたアタシらは、借り物だった礼装服を返却するためにレーヴェンらと一緒に馬車で屋敷へと帰ることとなった。
最初、アタシは出された二品の絶品の料理と貴重な酒で空腹と舌の両方が満たされ、その余韻に浸りながら夜道を歩いて帰る、と主張したのだったが。
「……いやアズリア、その格好でか?」
というカサンドラの指摘で、今自分が礼装服を纏っていたことを思い出したのだった。
いや、この礼装服を纏いながら料理店を襲撃しようとした冒険者の二人と戦ったことで。
着付けられた最初は、全くしっくりこなかった上質な生地だったが。今では戦闘の最中に全身から発した汗が礼装服のあちこちに滲み。
それが原因で肌に馴染んでいたため、すっかりこの夕食会のためにレーヴェンに手配された礼装服を着ていたことを忘れてしまっていたのだ、うむむ。
アタシは諦めて、ユーノやカサンドラらと一緒にレーヴェンの馬車へと乗り込んでいく。
行きと同じく歓楽街を抜け、屋敷へと向かう道中の馬車の中で、そんなアタシへと話し掛けてきたのはレイチェルだった。
「あの……アズリア様は世界の色々な場所を旅していると聞きましたが……これからどうなさるのですか?」
そう聞かれ、アタシは言葉に詰まってしまう。
確かにユーノを連れたアタシは、慣れない船での旅の道中。
レイチェルの父親であるレーヴェンには食糧の提供や港街モーベルムまでの牽引など、色々と世話になった。
アタシもその恩義を感じていたからという理由から、ユーノが偶然見つけてしまった身柄を拘束されたカサンドラらを救出し知ってしまった獣人売買と。
領主カスバルとレーヴェンが商会長であるグラナード商会、それとルビーノ商会との確執に首を突っ込み。
こうして無事に解決することが出来た。
「そうだねぇ……このままこの街に滞在したとしても、魔術文字に繋がる目星い噂もなかったしね」
だが、アタシが世界を旅して回る本来の目的。
それは────魔術文字を見つけることだ。
「なあアズリア、その……あんたが言う、魔術文字ってのは一体何なんだい?」
「私も魔法の勉強はしているけど、魔術文字なんて代物は聞いたことがない」
「アズリア君、その……私も数々の海を渡って色々な街や場所を商談に訪れたが、魔術文字という言葉は初めて耳にする。出来れば、魔術文字が何なのか、説明して貰えないか?」
屋敷へ到着するまで、まだ少し時間がある。
アタシは、商人であるレーヴェンや冒険者のカサンドラらから何か噂話の一つが聞ければ、という気持ちで。
魔術文字について簡単に説明していく。
「じゃあ、少し難しい話になるけどねぇ。魔術文字ってのは太古の昔────」
かつて太古の時代には一般的に人々に利用されていながら、より利便性が高く習得が容易な今使われている魔法体系に取って代わられ。
使われてなくなって久しい魔術文字は、歴史の中に埋もれてしまっていたのだが。
偶然にもアタシは、生まれながらに自分の右眼に魔術文字を宿していたために、現在使われている魔法の一切を習得も行使も出来ないという制限を受けてしまった。
だからアタシは、国を出奔したのを良い機会に世界各地に散らばる魔術文字を探索する旅に出る、と決めたのだ────と。
ここまでアタシが説明を終えると、御者が馬車を停めたことを告げる席の揺れと馬の嗎き。
馬車の窓から外を見ると、どうやら剣匠卿の襲撃などなく無事にレーヴェンの屋敷へと到着したようだ。
「……とまあ、魔術文字についてはこんな感じの説明だったんだが。ちょうどいいカンジで屋敷へ到着したみたいだねぇ」
まずは客人扱いされているアタシら四人が順番に馬車から、外にいた使用人が手を添えて降ろされるのだが。
最後に降りたレーヴェンが、今後どうしようか悩んでいたアタシへと言葉を掛けてくる。
「アズリア君の旅の行き先が決まらない、というのなら……この国の王都へ赴く、というのはどうでしょうか?」
それは、意外な旅先の提案であった。




