88話 剣匠卿を騙った男、その結末は
アズリアに敗北し、得物であった魔剣と右腕を失い、その激痛と出血から意識を無くした剣匠卿イングリッドは。
監視役だったザイオンとベルンガーの二人に横から身体を支えられた状態で、モーベルムの街の門番を通過した直後、その意識を取り戻す。
「あ……目を覚ましたんですね、剣匠卿様っ……待ってて下さい。今すぐ治療院まで……」
「────こ、これは悪夢だ、夢の中に違いないんだ……こ、この私が魔剣どころか、腕まで失うなんてことが現実であるはずがない……っ」
彼は、夢であることを信じて利き腕である右腕に意識と視線を移すが。
右肩から先の感覚がない。
視線の先にも、本来あるべき位置にあるはずの右腕がどこにも見えなかったのだ。
「────う……うぉぉぉぉぉぉぉぉぉ……」
右腕の喪失を認識してしまったことで襲ってくる激痛と、女傭兵への敗北が悪夢などではなく事実だと知る絶望感からか。
彼の口から吐き出される怨嗟と後悔の呻き声。
だが、激痛が襲う彼の頭には一つだけ疑問が生じる。
肩口からバッサリと右腕を切断されたのだ、本来ならば傷口から大量に血を噴き出し、治療院に到着する前に絶命していてもおかしくないのだが。
何故か、彼の右肩の切断面からは血が流れていないのだ。
……まさか監視役程度の二人が、ここまでの重傷の止血と応急処置を施せるとは思えないのだが。
そして、その疑問はすぐに氷解することとなる。
「大丈夫ですって!……アズリアの姐さんが治癒魔法をかけてあれだけ流れ出てた血を止めてくれたんだ、後はオレたちが街の治療院まで……」
「────な、ん……だと?」
ベルンガーの言葉を聞き、愕然とする剣匠卿。
その言葉が本当であれば、彼は剣の腕で敗れただけでなく、その対戦相手から生命を救われるという二重の屈辱を受けたことになる。
まさに完膚無きまでの敗北感に、後頭部を勢いよく殴られたかのような衝撃を受けた。
ちょうど……その時であった。
絶望感に心を打ちのめされていた彼、イングリッドの目の前に突然出現した、黒い靄に覆われていた……というより、黒い靄が人の姿を形取っているような、そんな謎の存在。
彼らを立ちはだかるように現れたそんな黒い人型の存在に、足を止めてしまうのだが。
「……そ、剣匠卿様、どうしたんですか?」
「そ、剣匠卿様っ……腕が痛むのは分かりますが、まずは治療院に急がないとっ」
「────ま、待てお前たちっ……突然現れたこの存在を不思議には思わないのかっ?」
「「……?」」
身体を横から貸す二人の冒険者は、その発言と視線から黒い靄の存在を全く気にしていない様子だった。
いや、それどころか男らは黒い靄に身体が触れてもその存在を無視し続けていたのだ。
そして、黒い靄と剣匠卿の身体が触れ合う瞬間。
イングリッドの頭に謎の人物の声が響く。
『……男よ、お前の想像通りだ。我の存在はお前のような我が認める実力者以外には認知出来んのだ』
その声は、何処か空高くからこちらを見下ろしているような尊大な雰囲気と。
遥か地の底から聞こえてくるような重苦しく陰湿な、世界そのものを嫌悪するような印象の低い声。
「────貴様、何者だ」
『あの女に敗北し、最早剣士としての再起を断たれたお前が今更自分の身を心配すると?……そこまで生命が惜しいか、男よ?』
「────そうか、オレの心の内側を読んだ、というわけか」
この黒い靄の存在は、イングリッドの身体に触れた瞬間に彼の感情と記憶をその頭から読み取り。
その後悔の念を拾い上げるようにイングリッドの前に現れ、頭の中に語りかけてきたのだ。
足を止めた彼は、頭の中で自分に語りかける声に言葉を口に出して返答していく。
「……え?い、一体誰と話してるんですか?」
「も、もしかして、血を流しすぎて頭が混乱してるのかも……?」
その様子を心配し、自発的に足を動かさない剣匠卿の身体を引きずり、この場から離れモーベルムの街へと帰還しようとする二人の冒険者。
だが、イングリッドは構わずに黒い靄、その頭の中の声との対話を続けていく。
「────そうだ、オレはもう何も惜しむべきモノなど何もない。この身を喰らいたければそうするがいい……魔の類いよ」
『そこまで覚悟が決まっているのなら我も提案がしやすい……もし我がお前の腕と剣士としての再起を助けてやれると言ったら…………どうだ?』
黒い靄が思考を読み取ったように。
少なくとも二人の冒険者が見ている目の前で、アズリアと名乗る女傭兵に完膚無きまでに敗北し、それだけでも「剣匠卿」という立場は丸潰れなのに。
希少な獅子人族の少女を確保出来なかったとなれば、ルビーノ商会を裏から支援するこの国の有力貴族の資金援助が断たれてしまう可能性もあり。
もしそのような事態になれば、このまま治療院でみすみす生命を長らえたとしても。
アーラロッソが獣人売買という重罪を、右腕と魔剣を失い剣匠卿としての地位と名声を行使出来なくなったイングリッド一人に押し付けるかもしれないのだ。
だから、黒い靄が差し伸べてきたその腕にどのような破滅的な代償があったとしても。
彼、イングリッドはその手を取るのに微塵も迷いはなかった。
「────貴様の力を得るために、オレは一体何をしたらいい?」
『簡単である。我の名を心で何度も唱え、我を崇めよ……お前に新たな右腕と、そして新たな力を与える我が名はセドリック』
「────セドリック。セドリック、そうか……それが貴様の名か。セドリック、セドリック、セドリックセドリックセドリックセドリックセドリック……」
黒い靄が頭で告げる通りに、イングリッドは心の内側だけでなく、口に出して教えられた名前を連呼していく。
すると、イングリッドの身体に纏わりついていた黒い靄が徐々に希薄になり、その姿を消していく。
否、イングリッドの体内に取り込まれていったのだ。
『我は忌まわしい五柱に数えられなかった歴史に埋もれた神ぞ……さあ、新たな使徒イングリッドよ。ともにあの憎き女傭兵を、アズリアを討ち果たそうではないか』
「────ああ、オレはあの女傭兵を倒す。あの女に復讐するのならオレに残された生命など貴様に幾らでもくれてやる」
『契約成立だ……ならば授けようお前にその祝福を。そして……それが新たなお前の右腕だ』
すると、右腕が切断された傷口から身体に取り込まれた黒い靄が湧き上がり。
まるで黒曜石で出来たような、光沢のある黒い表面をした腕が形成されていったのだ。
それだけではない。
敗北しすっかり消沈しきっていた精神に突如として大きく燃え上がる復讐の炎。
その炎が身体に活力を湧き上がらせ、剣匠卿として振る舞っていたつい先日を遥かに超える力が身体中に漲っていたのだ。
「そ、剣匠卿様っ、そ、その腕は?」
「……ふごぉ⁉︎……な、何をなさるんで……ぐ、ぐわぁあああああああああああ!」
「べ、ベルンガーっ?」
当然ながら、突然右腕が再生したことに驚きを隠そうとせず、異変を示したイングリッドへ心配そうに声を上げる二人の冒険者。
だが、そんな男の頭を黒い右腕で鷲掴みにしていく。
「……な、何をするんだ剣匠卿さ……ま?」
その時、ザイオンは見てしまったのだ。
今まで見たことのない、実におぞましく口角を吊り上げた嗜虐に満ちた笑みを剣匠卿イングリッドが浮かべていたのを。




