60話 アズリア、剣匠卿と剣を交えるが
剣匠卿の歯を軋ませる音は徐々に大きくなり。
ようやくアタシへと剣を構える体勢を取ると。
「────少し、手を抜き過ぎていたみたいだ」
「なら剣匠卿、そろそろアンタの本気を見せてくれよ?」
「────言われなくても見せてやる……ぞっ!」
言葉を言い終える前に、泥濘んだ湿地の地面を正確に踏み抜いてアタシへと迫り、鋭い一撃を放つ剣匠卿。
その一撃は、先程空気を切り裂き風の刃を生み出した二連撃よりも鋭く、速い剣閃。
確かに、剣匠卿の脚運びはこの湿地帯の足場の悪さを鑑みれば相当の実力がなければ出来ない技術だ。
……だが、それでも。
魔王様の爪撃や、老魔族の剣の速度に比べれば、まだ遅い。
アタシは僅か左脚を軸にして身体を捻り、その身を横へと翻すことで剣匠卿が振り抜く剣撃を躱す。
「────だが横薙ぎは避けられまい!」
左へと避けたアタシへ、振り抜いた大剣の刃を横へと傾け、そのままアタシのいる左側へと剣を横に薙いでくる。
だがそれは、そこにまだアタシがいた場合だ。
「────なん……だと?」
剣匠卿が横に薙いだ透き通った大剣は虚しく、誰もいない空間を切り裂く。
視界からアタシが消えたように感じたのだろう、剣匠卿は首を振りながら周囲を見渡し、見失ったアタシの姿を探している。
だから。
さらに脚を使って大きく左に跳び、剣匠卿の視界の外側である背後にアタシが回っている現実に気付かない。
本来ならば背後から斬り付けるのだが、噂に名高い剣匠卿を剣を交えるのを楽しみにしていたアタシは。
その期待を打ち砕いてくれた目の前の長髪の男に、心底落胆した感情を乗せた言葉を口にする。
「……やれやれ。こうも簡単に背後を取られるとはねぇ……アンタ、ホントに剣匠卿なのかい?」
背後からの声で、ようやくアタシの立ち位置を察知した剣匠卿は闇雲に後ろへと剣を振るうが。
当然ながら、そのような捨鉢な攻撃が命中する筈もなく。
アタシも、そして剣匠卿も互いに後ろへと下がり、一度間合いを離しての仕切り直しを図る。
まあ、アタシが……ではなく。
剣匠卿側の体勢が整うのを待っていたのだが。
「────な、何が起きている?わ、私は剣匠卿だぞ……それを、こんな得体の知れない女ごときに遊ばれている……だと?」
「何だい、もう息が切れちまったのかい?……なら、アタシから行かせてもらおうか──」
こちらが待っていても警戒して攻めてこなくなったので、今度はアタシから攻め込んで様子を見ることにする。
アタシは剣匠卿の吐く息、吸う息の音を耳で拾い、僅かばかり警戒心の緩んだ機を掴むと。
泥濘んだ湿地の泥を踏み込む脚へと力を込め、腰を落として一気に剣匠卿との距離を詰める。
「──……ねぇッ!」
「────な、何だとっ、は、速いっっ?」
一瞬だけ気を緩めた時を見計らい、不意を突かれる形となった剣匠卿は、いとも簡単にアタシに懐に入られ。
慌てて頭と胴体を守るように腕を引き、身体の前面に大剣を構え受けの姿勢を取るが。
「そんな付け焼き刃の防御が通用すると思ってるのかい?……はッ、アタシも舐められたモンだねぇ!」
アタシは構わずに、剣匠卿が構えた透き通った刀身へと、自分の幅広の大剣を力任せに打ち付けていく。
不意を突かれ懐に潜り込み、何とか防御こそ出来たもののアタシの力任せの一撃で身体を後ろへと押し込まれ。
剣匠卿の身体が後方に傾き、脚が浮く。
「────しまっ……」
姿勢が崩れた剣匠卿の腹へ、アタシは蹴りを放つと、身体を捻りも飛び退きも出来ずに直撃した脚が鎧を装着していなかった腹にめり込み。
剣匠卿の身体が、ザイオンらが隠れていた岩場まで吹き飛ばされていき、受け身を取る事も出来ずにまともに岩肌に衝突する。
「────がはあああああああ⁉︎」
剣匠卿と呼ばれた男で、ルビーノ商会側の人間がこうも一方的に不利な展開になっているのを目の当たりにして。
ザイオンもベルンガーも唖然とした顔をしていたが。
驚いているのはアタシも同じであった。
予想以上の剣匠卿の実力の低さに、ではあるが。
正直言って、この程度の腕前ならばユーノでも間違いなく勝利出来ただろうし。砂漠の国の筆頭近衛騎士ノルディアや、黄金の国王妃の懐剣であるリュゼのほうが、仲間贔屓抜きに遥かに強いのではなかろうか。
岩場に激しく激突し、胃の中の物を地面に盛大にぶち撒けながらも何とか立ち上がってきた剣匠卿は肩で息をしながら。
「────はぁ、はぁ……さ、さすがはあの海竜団を一人で壊滅させただけあって、足癖が悪いみたいだな……」
「は、まさか剣での戦いに脚を使ったことを『卑怯だ』とでも言いたいのかい?……寧ろアタシとしてはさ、加減してやってるのにそろそろ気付いて欲しいんだけどねぇ?」
加減、という言葉に敏感に反応し。
再び歯軋りをし始める剣匠卿。
「────加減。今、加減をしていると言ったのか?この剣匠卿の名を冠するこの私相手に、加減をしているだと?」
そう、アタシは剣匠卿と剣を交える際に明らかに手を抜いていたのだ。
まず、普段ならば両手で扱う得物の大剣を、今は片手でしか扱っていないし。
何よりも右眼の魔術文字を含む、一切の魔術文字もこの戦いに於いてはまだ一度も使用していないのだから。
だからアタシは、これ以上この勝負を続ける意義を見出せなくなり、目の前の剣匠卿に条件を提示していく。
「今、敗北を認めてルビーノ商会から手を引けば、今この場でのアタシとの勝敗はなかった事にしてやるけど……どうだい?」
正直、正式にアタシが剣匠卿に勝利した、ということになれば。今度はアタシが「剣匠卿」の名を継がなくてはならないからだ。
名誉の称号を継承するために、どこかの王族との謁見など面倒な事が必要になってくるだろう。
アタシは出来る限り身軽な立場でいたいのだ。
「────ははっ……舐めるなよ、女」
だが、剣匠卿は得物の透明な大剣を支えにして、その提案を鼻で笑いながらアタシを睨み返す。




