65話 魔王城、決着のその直後の話
城壁に空いた大きな穴から、陽の光が差し込む。
……いつの間に、日が昇っていたようだ。
竜王の首を斬り落とした際に爪に付着した血を、腕を勢いよく振るい落とし。
周囲にもう敵対する意識がない事を確認すると、纏っていた「雷獣戦態」を解除し。
石畳に転がっていた髭面の首に視線を落とす。
「……馬鹿が。仲間の生命を最初から犠牲にする奴が戦いに勝てるわけねぇだろが……最初から三人で挑まれたら、いい勝負になったかもしれねぇのにな……」
鋭い眼光でこちらを睨みながら固まっていたその髭面の死顔を見下しながら。
勝利した筈なのに、アズリアと剣を交えた時に感じた胸が透く感覚とはまるで真逆の、釈然としない思いを吐露していた。
すると、竜王の血で汚れた右腕にそっと何かが触れる感覚。
「……お見事でございました、魔王様」
いつの間にか隣にそっと寄り添っていたアステロペが、屈んだ姿勢のまま右腕を布で拭きながら、付着していた返り血を綺麗にしてくれていた。
ベオーグとの戦闘で荒んだ心が、彼女の何気ない行為と、布越しに伝わる彼女の温もりで、少しだけ救われた気がした。
「それにしてもさすがは『魔女』だぜ。隙を作ってくれ、と頼んだら、それをきっちりと果たしてくれるんだからな、助かったぜアステロペ」
魔王が浮かべたその笑顔も、意識したものではなかったのだろう。だからこそ余計に、その自然に溢れた笑顔を向けられ。
視線が合った途端に、血を拭っていたその手がピタリと止まり、アステロペは思わず赤面してしまう。
「……い、いえっ、そ、そんな……私なんかには勿体ないお言葉でございますっ……そ、それとっ!」
まったく最近は、恋敵とも呼ぶべき女戦士が現れたり、帝国の人間によもや我らが本拠地たるこの城郭に侵入されたり、と厄介事ばかりだったが。
その言葉だけで、今までの気苦労が全て吹き飛んだ気がしたアステロペだったが。
「私をその二つ名で呼ばないで下さいっ!……うう、は、恥ずかしいので……」
透き通るような白い肌を、耳の先まで真っ赤に染め上げながらも強がりを言ってしまう辺り、彼女も難儀な性格をしていると言える。
ただ、四天将でもないのに「魔女」という立派な二つ名で呼ばれているその理由とは。
一見すると「魔力を喰う」というとんでもない能力を持った使い魔を連れている事に由来している訳ではなかったからだ。
何しろこの「魔喰」。
魔力を喰うとはいえ、何でも構わずというわけでなく、喰える魔力には条件があるのだ。
まず、他人の体内に巡る魔力は無理。そして属性という色に染まっていない魔力も無理、しかも喰らう属性ごとに自らの形態を変える必要があるため、自然にそのような都合の良い魔力が浮遊している筈もなく。
この下級の魔族は、アステロペの契約無しにはいずれ魔力を喰えず衰弱し、死を待つのみだったろう。
魔法が通用しない「魔女」アステロペの背景には。
このような偲ばれる苦労話があったのだが、彼女はこの二つ名を耳にするたびに苦しかった記憶を思い出すので、その名で呼ばれるのを嫌っている経緯があったのも事実なのだ。
「はっ、ははははっ!……いや悪い悪い。それと言い忘れてたが……ありがとな。さすがは俺様の婚約者だぜ」
気乗りはしなかったが、戦闘は戦闘だ。それに高揚していた魔王リュカオーンは彼女のお願い事をすっかり失念していた事を謝罪し。
彼女への感謝の言葉を付け加えていく。
────婚約者と。
今、確かにそう言ってくれた。
魔王様の、リュカオーン様の婚約者だと。
それがアステロペにとって駄目押しとなった。
「お、おい、どうしたアステロペ?」
横で膝を突き屈んでいたアステロペが、側から見てもわかる程に小刻みに震え出したかと思うと……意識が飛び、力無くパタリと石畳に倒れていった。
いや、正確には石畳に身体が着く直前に、慌てた魔王の腕がアステロペの身体を抱き寄せて支えたのだが。
気を失っていたとはいえ、彼女の顔は幸せそうな微笑みを浮かべていたのだ。
竜王との戦闘から、遠巻きに魔王とアステロペ、二人の様子を見守っていた老執事モーゼスはその一連のやり取りを見て苦笑していた。
「……やれやれ、じゃわい。まあ、あれでも進展があったほうだと考えれば、祝福してやるのが親としての態度かもしれんがのぅ」
魔王領が抱える慢性的な食糧問題に加え、四天将だったコピオスの独断での大侵攻。それに伴い大きく減少した人員の補充。
様々な問題が山積みだったために、進展するどころか二人が婚約者だった事実すら忘れる程だったが。
思えば、アズリアという人間の女戦士がこの魔王領にやって来てからなのだ。
長年、我らの悩みの種であったこの魔王城の地下祭壇に祀られていた「大地の宝珠」を覆う魔法の封印を解除したのも、あの人間だった。
封印が解かれ、不毛だったこの島の土壌に宝珠の魔力が浸透していき、少なくともこの魔王城の周囲に生えている木々も青々した葉や立派な枝振りに変わってきている。
このまま魔力が浸透し豊かな土壌に変わっていけばいずれは、この島でもまともな農業が可能になるだろう。
それに……一番大きな影響は。
アズリアの存在で、我が娘アステロペが「婚約者」という立場に危機感を抱いた、という事だ。
何しろアズリアは魔王様と互角に競り合った仲だと聞いた。今、目の前で戦っていた竜王すら歯牙にも掛けなかった「雷獣戦態」を発動させ、今回は二体への分身だったが、アズリアとの戦闘の際は魔王様の身体的限界である三体分身まで駆使して、というではないか。
その戦いで、魔王様が少なからずアズリアに好意を抱いているのは、普段よりの態度を見ても理解出来る。
……今まで意識せずとも好敵手となる存在がいなかったアステロペとしては、アズリアの登場に心穏やかではいられなかっただろう。
だが、現状はあの人間の存在は、この魔王領にとって良い影響を与えている事は老執事も認めざるを得ない。
「……アズリアには感謝しなければのう。じゃから、夜中に勝手に城を抜け出して何処ぞへ姿をくらませた罰はほどほどにしておいてやるかのう……ほっほっほ」
老執事には一つ、気掛かりがあった。
この魔王城には、普段より外部からの侵入者を防ぐ防御結界を張ってあった筈だった。
それをあの竜王ら三名の人間は易々と突破してきたのが腑に落ちなかったのだ。
この城郭へ防御結界を張っていたのは。
四天将が一人、「幻惑」のレオニール。
思えば、如何に戦闘力が乏しいとはいえ、人間らがこの魔王城へと乗り込んできたのに、先程から全く姿を見せていないのは、明らかに異常だ。
……彼女を見つけ、確かめなくてはならない。
「さて、最悪の事態にならなければよいのじゃが」
そう言葉を残すと、穏やかな表情の老執事は再び「剣鬼」としての険しい顔に変貌し。
その場から、忽然と姿を消したのだった……




