16話 アズリアと魔王、恐怖に震える
おそるおそる魔王らに背を向けて、丘陵を降りていこうとするアタシの耳に聴こえてきた声。
それは間違いない、あの女魔族アステロペの声。
「────……黒鉄の断刃」
詠唱が全く聞こえなかったということは、無詠唱で撃たれた魔法なのだろうが。
背中から飛来し空気を切る音、そして肩口を通過した何かが頬を掠めていく。
その後、地面に突き刺さったそれは。
……大きな鎌状の刃の塊だった。
「ひいぃぃッ⁉︎」
あの鎌が頬を掠めた際に、アタシの頬を少し切っていたのか……赤い線が頬に走り、薄く血がその線から滲んでいく。
そんな状況で後ろに振り向くのには心理的な抵抗があったが、アタシはその巨大な刃の発生源の方向へと視線を向けると。
的中して欲しくない想定通りに、女魔族が開いた片手をこちらへと翳し。
「何処へ行こうというのだ貴様…………あぁ⁉︎」
アタシは花嫁になるまいと、魔王と呼ばれているリュカオーンとつい先程まで全力で拳と剣を交わした筈だった。
なのに。
「まだ話は終わっていないぞ。戻ってこい」
……そのアタシが、女魔族が発する怒気に気圧されてしまい、彼女に言われるがままに、先程まで立っていた丘陵の頂きへと足を動かしてしまう。
ふと、女魔族の横に目線を移すと。
本来なら主人である魔王様が青い顔をしながら、何故か膝を揃えて地面に付け、脚を畳んで背筋をピンと伸ばした状態で座っていたのだ。
その身体は心無しか震えているようにも見える。
「わかる……わかるわぁ、今の魔王様の気持ち」
無理もない。
今、あの女魔族に逆らったら殺される。
戦闘力や魔力といった理屈ではなく、生物としての本能がそう訴えてきているのだ。魔王様は獣人族だからこそ、本能により一層反応しているのだろう。
「そこへ貴様も座れ、人間」
アタシも魔王様の横に立つと、同じように膝を畳んで折り畳み、何も言わずに地面にと座っていく。
そんなアタシと魔王様の前に、胸の前で腕を組んだ女魔族が、眉間に皺を寄せた厳めしい表情で歩を進めて迫ってくる。
「さて……これはどういう事情なのか。この人間が花嫁とはどういう事なのかを一から説明していただけますね、リュカオーン様」
「とは言われてもなぁ……アステロペ、お前も知ってるだろう。コピオスの尻拭いをするために俺様が海を渡った事を」
コピオスの尻拭い。
それは、二月ほど前に起きた、砂漠の国に向けて万を超える数の魔族と魔物の大群が西から侵攻してきた出来事だ。
アタシは偶然にも魔族らのその作戦を事前に知ることが出来、その被害を最小限に抑えるために色々と動いたのは記憶に新しい。
その侵攻を率いていたのが、コピオスという名の魔族、蠍魔人だったのだ。
「ええ、それは勿論。あの独断行動には私の妹も手を貸していましたから……妹を止められなかったその責任は感じております。ですが、それと今回の件とどういう関係が?」
「大有りなんだよ。何故なら、あの騒ぎを決着させたのは俺様じゃなく、この人間……アズリアだったんだからな」
その魔王様の言葉を聞いて、ようやくアステロペはアタシに目線を移す。
「じょ、冗談でしょう?コピオス将軍は、離脱する前は我ら魔王領の四天王の一角だったのですよ?……そ、それがただの人間ごときに……」
「なあアステロペよ。先程のアズリアとの戦闘で満身創痍だった俺様が、雷獣戦態まで使ったと言ったら……お前は信じるか?」
「は?……ご冗談でしょう?あれはただ、人間をいたぶって、ただ遊んでいただけだとばかり────」
……先程までは厳しい態度を取られていたためか、あまりアステロペという女魔族を観察する機会がなかったのだが。
魔王様のアタシを評価する発言の逐一に、コロコロと表情を変えるその反応がつい面白かった。
こうして彼女をまじまじと見てみると。
透き通るような白い肌に、少し波打った長く艶のある黒髪。少々冷たい印象を与えかねる、切れ目だが特上の美人と断言出来る容貌。
そして組んだ腕の上から溢れるほどの豊満な胸。
ちょうどアステロペが顎に手を当てて考え事を始めてしまったその機会に。アタシは疑問に思ったことを、隣に肩を竦めて座っていた魔王様へと聞いてみることにした。
「なぁ、魔王サマよ。アタシの見立てじゃ、あのアステロペも充分にいい女に見えるんだけどさ」
その問いに対して、少しばかり不思議そうな顔をしながら、悩む素振りを全く見せずに即答で言葉を返してきたのだ。
「俺様もそうは思うぞ。何しろ……アステロペは先代が勝手に決めた婚約者だからな」
「ん?────婚約者、だって言ったか?」
魔王様は全く悪怯れる様子を見せることなく、今までと変わらない態度で答えていたが。
その言葉を聞いてアタシの頭の中で、プチン!と、何かが弾けた音が聞こえてきた。
次の瞬間。
アタシはその場で立ち上がり、至近距離で言葉を交わしていた魔王様の顔面へと、笑顔を浮かべたままで拳を叩き込んでいた。
何が起きたのか理解出来ずに拳が顔面へと直撃し、直後に呆然とする魔王様。だが、それ以上に突然目の前で起きた暴挙に慌てふためく女魔族。
その顔に先程までの迫力や威圧感はなく。
「な、何をしているんだ!や、やめろ人間っ?リュカオーン様への暴力など許されることではないぞっ?」
「離せよ!離せってば!これはお前さんの分でもあるんだ……だからもう一発殴らせろおおおおおおお
おおッ!」
ただ彼女は、興奮した剣幕のアタシを背後から羽交い締めにして、主人である魔王へのこれ以上の暴挙を制止するのが精一杯だった。
「黒鉄の断刃」
魔力で周囲から抽出し、腕一本ほどの大きさの刃を形成していき、作成した刃に闇属性を帯びた魔力を纏わせることで刃を微細に振動させて切れ味を増大し、対象に撃ち出す闇属性の攻撃魔法。
継続して魔力を供給することによって刃を操り、刃の行動を物理的な方法で阻害されない限りは制限時間なく自在に周囲を切り刻むことが可能。
その効果から、単純な射出型の攻撃魔法だが上級魔法に分類される。




